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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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芍薬見つめし腐敗の檻

ガチャ……と音を立て扉が開く。

回したのは誰だ。


一度扉の裏に廻れば、今べったりと湿り気を帯びた背中が表に変わる。


人の気配はない。

少なくとも、取り囲むものは。


鏡の中で怯えているのは俺だ。

しかし、その内側で高笑いしているのは……


尾骶骨から脳天に向けてムカデが昇る。


薄汚れた白シャツの上から、すっかり痩せこけた身体を抱きしめる。


天窓から覗くわずかな緑を透かす光に、外の温度を思い出す。


──本日……晴……ナリ。……月晴レ気……二十……度。


耳に残る機械越しの無機質な声がザアザアと音の雨に掻き消される。

途端にぶるぶると震え出す身体を弱々しい腕がギリギリと抑えつけている。

冷え切った心臓がこの身を巣喰う蛆を仕留めんと、最期の足掻きで暴れている。


寒い……寒い……


「ごめ……ん……な……さい……」


これは、誰の言葉だ?


「ごめ……ん……な……さい……」


誰のものでもない。

身体を伝う震えが唇を揺らし、そこに漏れ出た息が掠めた音に過ぎない。


だのに胸骨の裏を絞られるような罪の(おもり)はその言葉が、声が、息が漏れるたびに手枷、足枷としてこの身を締め上げていく。


「ごめ……ん……な……さい……」


言葉が腐っていく。


罪を全て吐き出してしまいたい。

俺は虚空に憧れていた。

でも、それが叶わないことはわかっている。


思考が食い荒らされている。

蛆の貪る音だけが両耳を塞ぐ。


嫌だ……嫌だ、もうやめてくれ!


拒絶すらもどろどろに腐り、肺を満たしていく。

その腐敗臭に、えずく。


逆流する薄茶色の苦み。

飲み下す時には知るよしもなかった苦みは熱を失くしている。

赦しでも乞うように額は地を向いている。

唇の震えを、その息の根を、赤黒く穢れたこの手で止めてしまいたい。


無情にも指をすり抜けていく生ぬるさはぐったりとしたカフスを汚していく。


澱みを吐き出すたびに肺は空になる。

空になってはザラザラとがなり、唸る。


どのくらい、時は流れたのだろう。

途方もない時間を遡った気がする。


進んでは振り出しに戻される。

積んでは崩される。


世界が虚ろだ。


ただ口の端から何か汚らしく垂れる感覚と、指先の震えがわずかな確信を砕きにくる。


唇の裏がバニラの甘さで溶けている。

瞬間全身を小虫が尺取る。


空っぽの身体がやけくそで見せたのは、薄紅色の花びらだった。


掌の上、いじらしく泳ぐ三片の薄紅。


ああ……美しい。


ふいに漏れた言葉の後、薄紅はすっかり黒く焼け焦げ指の間にこびりつく。


言葉が、死んだ。

俺が、殺した。


膝から腰、それから背中……

順に力が抜けてへなへなと壁にもたれながら座り込む。


重々しい音を立て、扉が開く。

いやに粘つくような光の差し込みに俺は目を閉じ、頭を抱えこむ。


瞼の裏、飯沼の目をした狼が牙を剥く。


──おい、そんなところに座るな。

邪魔だ、出ていけ。


知らない声だ。

途端に心が無防備になるのを感じた。

棘に優しく撫でられている、妙な感覚だ。


俺は死ぬのが怖いのか?

「生」にすがる自分に嫌気がさす。


何も言わず、重苦しい扉にもたれて見えぬ檻の中へ出る。

ここはどこまで行っても中だ。


この永遠とも思える壁をゆけば、そこが望まぬ終点となる。

ならば終わらなければいい。

続いてくれればいい。

左腕の重みを不意に思い出し、重力が狂う。


ああ、見えてしまう。


先輩の口から噴き上がる白煙、飯沼の黒髪。

甲高い女給の声に、金属の擦れる音。


なぜ、俺の足はこうまでして前へ前へと身体を運ぶ?


男の黒髪に当たる光が散らばり、手招きをする。

それも、屈託のない笑顔で。

まるで天使のようだ。

その背には真っ白な羽根がついている。


眩しかった。

身体がそれ以上の前進を躊躇った。


絡みつく有刺鉄線はギリギリと足首を締め上げていく。

奴の口角が上がる。

膝下まで痛みが這い上がってくる。


一瞬の微笑みの翳りと共に棘は消えてなくなった。


再び屈託のない笑顔で手招きされた時、俺の身体は首から先に進んでいく。

まるで、首輪を引かれるように。


「おめえ、随分と遅かったな。欲求不満か?」


否定はできない。

「生」を渇望するあまり、俺はもがき苦しんでいるのだから。


「ハハッ。」


ビー玉の転がるような無邪気な笑い声。


「植木さん、それはご自分もなんじゃ……」


正しい軌道を焦らすように返る言葉。


「そういうおめえはどうなんだよ! っとに言うことが面白いな……」


他人の感情をきらきらと湧き立たせる。


蝶を追いかけた後の脈の速度と打つ鼓動のぎこちなさ、身体から何かが抜け出たあと特有の気だるさの中で、俺は力無く笑っている。


足の薬指と中指の間、何か這うような心地の悪さがぬめっている。


目の前に置かれた紙の中、マス目の一つ一つが乱反射している。


まだ、寒い。

しかしもう俺は俺自身を抱きしめてやるつもりはない。

頬は火照る。

喉が腫れたような感覚。

逃せない言葉はここでつかえてどろどろと肺の奥へ溶け落ちていく。


時折、何かを乞うように奴が上目遣いで覗き込んでくる。

頭に浮かんだ文字は、すぐに青ざめ黒く溶け落ちていく。

思考のための文字はどろどろと異臭を放ち始めている。


「朔さんがこの人ならこういう時、なんて言います?」


足首から膝下にかけて生ぬるさがべたつきながら上がってくる。


──途端に腹が重くなる。

仰向けの腹の上、馬乗りで右の口角をひくつかせるのは鏡の中の怯えた顔。

両手で持ったナイフを振り上げる、その袖はまだ新しい汚れで湿っている。

あまりに虚ろだ。

正気じゃない。


その唇が横に広がりわずかに舌先が見えた。

そして数ミリ縦方向にすぼめる。

少々隙間を残し、虚ろに変わった瞳のままナイフを心臓目掛けて振り下ろす。


──いやだ!


地面に転がっている塊から何か噴き上がっている。

その塊の上には人影が乗っている。

鋭利な何かを何度も、何度も振り上げては下ろし、引き抜いては振り上げその度に飛沫(しぶき)のような影が噴き出していた。

黒と、鈍い紅の世界を遠くから眺めている。


皿の割れる音で、俺は自分の手が何か握るような形でわなわなと震えていることに気付く。

その手のべとべととした感覚に血の気が引く。


「あ…….ごめんなさい。これ、俺の書きかけなのに。でも聞きたかったな……」


飯沼は席を立つ。


そしてこちらには目も向けず言った。

「君の声で。」


奴の吹かせたわずかな風で前髪が揺れる。


「失礼しました!」

「大丈夫かい? 君、怪我は?」


卓の上、飯沼の原稿だけが残されている。

あの男は破片をかき集めている。


「いやあ、あいつやるな! なあ?」


奴が女給の指に布を巻いている。

足元のすみれの花でも愛でるように。


わからない。

奴の顔がわからない。

声がわからない。

俺自身がわからない。



窓辺の芍薬は相変わらず不均衡な毒をたたえたまま、この檻の全体を静かに監視し続けている。


あてもなく彷徨う旅人になりたい。

そう願いながらどこへ繋がるともわからぬ首輪に繋がれまま、うなだれている。


耳の奥、再び蛆の蠢くのをわずかに感じながら。


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