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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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紅き夢見しさくらんぼ

痛みで臓器の輪郭を知る。

蝕まれても蝕まれても、この身体は賤しく「生」を求め何度でも再生する。

故にその度に「死」の恍惚と背比べをしている。


飽きるほどに飯沼を見つめる。

この視線で奴の心臓でも、せめて右の中指だけでも目の下が歪む程度には焼き穴をあけてやりたい。

それが叶わないのならせめて……せめて……



直後、妙に冷たい刃物で頬を軽く退けられた感覚を覚える。

ひょろりとした、肝臓あたりの悪そうな男が一心にこちらを向いている。

瞬目の間に理解した。

彼が見ているのは俺の横の芍薬の不均衡な毒だ。

やがてその目はおおよそ異世界へと旅立っていった。


──俺はどうやらその手前に座る男の胃に穴をあけてしまったらしい。


「あと、いちごのパフェーとベーコンサンドイッチ、それからそのまんまの水飴をおくれよ。」


彼のテーブルには空になった皿やグラスが散乱している。

その上で女給に食べ物を要求している。

まるで底無しの沼だ。


聞いているだけで、見ているだけで、噯気(おくび)が湧き上がる。


不規則という名の周期性に任せてやってくる胃の身悶えにも慣れてきた頃だった。


先輩が、「ちょっと(はばかり)へ。」と言うので、首だけで返事をする。

五歩ほど歩みを進めたあたりでくるりの半回転して、

「あ、でっかい方な。」と半笑いを浮かべている。


時をほぼ同じくして女給が二杯目の珈琲を運んでくる。

湯気の向こうでは無邪気にソーダ水の上のバニラを沈めては浮かべ、浮かべては沈めてを繰り返している。


俺はすっかりバニラの浮き沈みに目を奪われていた。


──たらいに溜めた水は白くふんわりとした雲を奪い取っている。

俺はその中に幾度となく顔を突っ込む。

ほんの一瞬の間になけなしの空気を口から肺に送るとまた……


いけない。

一体なんの話だ。

いつぞや見た夢の続きでも見たのか。

テーブルに肘をつき、手首で額を叩いた。


その格好のまま目線を上げると、開き切った瞳孔を飯沼の視線が後頭部めがけて貫通した。


「あ!」という顔をして、その口角が少しずつ上がっていく。

左右均衡に。


奴は穏やかに微笑み、ゆっくりと近づいてくる。

微動だにしない表情、揺れぬ前髪……

その指に摘み上げられた、着色料にまみれたさくらんぼだけがぶらぶらと空気とじゃれている。


俺は錆びついたブリキのおもちゃの如くギシギシ軋む身体を端へ後ろへと動かしたが、まさに袋の鼠だ。


奴は催眠術でもかけるみたいに目の前でさくらんぼを揺らした後、ソーサーの上に落とす。


まるで言葉が消えた世界にでも幽閉された気分だ。

「あ」に濁点のついたような喉の音しか出せない。

口は半分開いたまま、閉じることすら許されなかった。


「心配したよ、最近全然見かけないから。」


眉を下げ、憂いの顔で奴は隣に腰を下ろす。


「下宿にも手紙を送ったのに返事がない。」


少し、語気が荒くなる。

表情はもう、うかがい知ることもできない。


奴の骨ばった左手が俺の左肩をつかむ。

そしてもう一度、不気味に赤いさくらんぼを摘み上げ、今度は唇のすぐ手前で揺らす。


「待ってるんですよ、書いてくれるの。君の言葉はみずみずしくていい……」


耳にかかる髪を奴の言葉が生暖かく撫でた。


飯沼の指は肩にめり込んでは声の漏れる寸前で緩み、まためり込んでは緩むことを繰り返す。


ぼんやりと見える時計の秒針の音だけが嫌にはっきりと頭の中で響いている。


左腕がジンジンと痺れてきた。

重い……肩から下が、体温を失い始めている。


すると奴は憐れむような瞳で覗き込んでくる。

あの忌々しい赤は甘ったるい匂いを放ちながら、唇の手前で止まっている。

同時に肩から奴の手が蛞蝓でも這うように肘まで降りてくる。

神経が手繰り寄せられるような感覚ののち、さくらんぼが揺れた。


奴は一度瞼を下ろすと、妙にゆっくりとまつ毛を持ち上げる。


そして、軸を引きちぎり実だけを口に含んだ。


ソーサーにはさくらんぼの赤がじっとりと残ってる。


奴の視線が今どこに向かうのか、俺は知らない。

知りたくもない。


今日の今日まで、飯沼の作品は嫌というほど見せられてきた。

いつだってこいつの名前は隣にあった。

今こうして隣に座るように。

ひとつの水槽の中で飼われる魚のように。


そしていつの日からか、「飯沼太一」の名は俺の身体を喰い殺すようになった。


飯沼の影を消したくて、俺は逃げて、逃げて、隠れて逃げて……

しかしそれはあまりにも無謀な計画だ。

だって奴は、この身体に住みつき卵を産みつけ、無尽蔵に増殖し続けるのだから。


離れてもこの男は手紙をよこし、挙句は下宿に書置きを残した。

もう見慣れた、全てが右上へと向かう癖のある四文字。


読まずに屑籠に入れた。

書いてあることはわかりきってきたから。

それなのについ、屑籠から出して読んだ。

いつだって賞賛だった。


──でも本当に読みたくなかったのなら破るなり燃やすなり、できたはずだろう?


読むたびに俺の心臓は鬱血を起こした。


今はもう、全ての感情が脱落している。

ただただ慟哭と涙とが噴き出しそうで、それを珈琲で押し流す。

臓物全てを食い尽くされた身体は慟哭も涙も受け入れるだけの器がない。

その熱が内側からこの身を沸き上がらせた。


なんとか形を保っていた身体が破裂して、カフェーごと、街ごと、この世界ごと消えてなくなればいい。


現実は生殺しだ。

神経一本でぶら下がった腕から血を流しても、息絶えることすら許されない。


ほとんど絞りカスからわずかに滴る程の力で奴の腕をすり抜けた。

まだ左腕は重苦しく痺れている。

枝をひしゃげられた花が枯れるように、この腕も肩から腐ってもげるのだろうか。


壁で右肩を摩耗させながらまるで瓦礫の上でも歩くようによろめいていた。

失われたはずの胃が「イケ」と言う。

頭の中で「イケ」と言う。


おぞましい。


場違いの道化とすれ違う。

「なんだ、お前もでっかい方か?」とおどけているのにも構わず、もつれた足は歩を進める。


睫毛の影が視界を狭めつつある。


どこか他人行儀な愉快さがこの顔を奪っている。

お前の欲は底無しか?


腕も、顔もくれてやる。

だから、扉ひとつこじ開けるだけの力くらいは貸してくれ。


祈るように、身体を引きずっていた。



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