文学青年に巣喰う蛆
厠に蛆が湧いているのを見つける。
街はすっかり緑に変わり、地べたでは時折ミミズが乾涸びている。
図書館の横は相変わらずだが白シャツと白のキャンバスが並ぶのさまは、早とちりをした夏の休暇のようで悪くはない。
同じ学科の牟礼君が足早に教室へ向かうのを見かける。
途端、鐘が鳴り始めた。
慌てて彼のあとを追うように足を動かしたが、その背中はみるみるうちに小さくなる。
鐘が鳴り終えてもなお、俺はあのドブ臭い教室の入り口にも立てていない。
膝を手で押し込みながら喘いでいると、横から両肩に凸凹とした温かさを感じる。
「君、研究棟の藤の花は見ましたか? あれは今見頃でね。だからってわけじゃありませんが、今日は藤壺ですよ。」
綺麗に拭かれた分厚いレンズの隙間から漏れる教授の声は、まだ春の柔らかさを残していた。
席についた俺は早速頬杖をついている。
斜め前の大ちゃんは幾度となく生あくびを繰り返す。
その頬の艶やかさときたら、包み隠すものなどない潔さを覚える。
背後では村井たちがヒメアリの大行進の如く騒いでいる。
「俺ァこの飯沼って奴の猫の話が好きだ。」
「おめえ猫嫌いじゃねえか。くしゃみ止まらんだろうが。」
「それとこれとは別じゃろがい。たまんねえんだ。」
トントン……
背を叩かれる。
「朔、読んだか? 猫。おめえ、一年の時学校に猫抱きかかえ……」
耐え難かった。
その名が内臓を食い破る。
おぞましい感覚に襲われた。
吐くものなど何もないというのに足は厠へ向かっている。
しかし蛆の湧いているのを思い出し躊躇しているうちに催し、まるで死にゆく蟹の如く泡を吹いた。
赤黒い塊が点々と飛び散っている。
鼻の付け根に鉄臭ささがこびりつく。
何かしら身体から出ていった後というのは、どうにも気怠い。
力という力の全てが脱落したような、むしろ肉体を地に置き去りにして宙に浮くような妙な心持ちである。
俺は蟹の遺言に覆い被さるような姿勢で項垂れていた。
地についた指の上、シャツから覗くその腕がひどく筋張っていることに気付く。
耳の奥ではまだ、蛆が腐敗を貪る音が響いていた。
とはいえ、小便が耐え難く、粗相をするわけにもいかず厠へ急いだ。
側から見れば蛞蝓程の速度だっただろう。
それでも急いだつもりだ。
ことなきを得た。
例の如く、全身の力が抜けていく。
「なあ、どうだ。カフェーとやらに行ってみねえか?」
突然もたらされる誘いに驚き、空になる寸前の身体に立ち上がっているだけの力が蘇る。
「はい?」
厠で人様の方を向くことは我が信条上、大変はばかられる。
「じゃあ決まりだ! 三限の後、あのあれだ。胡散臭い掲示板の前だ。」
何者かは俺の肩をガシリと掴む。
「おめえなかなかにいいもんをお持ちで。」というあまりにも品性に欠く言葉で初めて声の主が植木輝男先輩だと気付く。
──小便の後、手も洗わないで触れたのか……?
俺は再び催していた。
汚れちまった肩のまま俺は指示された掲示板の前に立っている。
──五月三十一日 古代文学史Ⅲ 休講
これのどこが胡散臭いのだろう。
わけもわからないまま、俺は先輩の下駄の跡を踏ん付けて進む。
「おめえ、なんか気色悪いな!」
「そりゃあ、どうも。」
立派な洋館を前にたじろいだ。
それでも興味が優って女給の背中の後ろについて行く。
途方もなく遠く感じる。
「随分と奥まで来たもんだ。」
「ええ。でも、人気の席ですの。ほら、あちらのパリの風景、よく見えますでしょう?」
確かに全体を見渡せるいい席だった。
それは同時に、どこからでもその一挙手一投足全てを監視される可視化不能の檻の中を意味していた。
その監獄は右手に巴里、左手に東京。
五十歩足らずの世界旅行だ。
東京は白い格子の先にある。
手前には随分と細っこくて、小さな花瓶が置かれている。
そのにはたいそう頭の大きな芍薬が小首を傾げている。
その紫の毒々しいこと!
今にも倒れそうなそれが足の裏を意地悪くくすぐる。
突如として左肩が鈍く痛んだ。
「おめえ何つっ立ってんだ。そっち座れ。」
俺は倒れるようにソファに埋もれた。
女は「まあ……」と驚いている。
咳払いののち、
「すいませんね、こいつ、ぼんやりで。」
といつもより低く気取り調子に言った。
「ふふ……仲がよろしくて。」
天高くから降りている硝子の傘から溢れる光が目に沁みる。
出入りのたびに鳴る鐘は、どうにも気を急いてくる。
何かに追われているような、脱獄囚の心持ちだった。
──いらっしゃいまし……お二人様……
──また来ておくんなまし。
足裏の違和感は相変わらず俺が転ぶのを待っている。
突如として、肺が煙たくなり咽せる。
「おめえ、小説書きなら軽く吸って見せてみろ。」
先輩は煙草を咥えたまま煙と共に脅迫を突きつけてくる。
奴の息と混ざったタールが肺の底で澱んでいる。
そして奴は俺の指に無理矢理葉巻を捩じ込むと、先端に火をつけた。
「ほら。」
指の間で燃えカスに変わっていくのを眺めていた。
紙と葉の焼ける匂いが身体中の穴という穴全てから侵入してくる。
まるで身体がじわじわと腐っていくようだった。
「お前、ほんとにスカした野郎だな。これっぽっちも吸えねえで何吸ってんだ?」
ほとんど間も入れず、一瞬視線をずらしたのち
「これか?」と小指を立てて見せる。
何も言わなかった。
先輩は勝手に悔しがっている。
まるで湯呑みで茶を飲むが如くカップをひっつかみ傾けている。
「ウウッ……」
バタバタと足を鳴らし、舌を出し、苦悶に顔を歪めている。
ありったけの角砂糖をぼちゃん、ぼちゃんと黒の中へ落として行く。
俺はその熱さを舌の上で転がしている。
苦み、否、味は分からずにいる。
飲み込まれそうな程の漆黒を口に含むのは、何か統べたような快楽に似ている。
ごくりと飲み下した瞬間だった。
胃が焼けただれるように熱い!
鼻の付け根の鉄臭さが蘇る。
──ああ……俺は死ぬんだ。
あの忌々しき蛆に腑から骨の髄まで食い尽くされ、跡形もなく消えてゆくのだ。
しかし、不思議と怖くはない。
俺は死の間際、何を思う?
死の直後、何を見る?
そしてそれを、どう言葉にするのだろう……
光に包まれるのか?
それとも闇の中で、ありもしないコントラストにでも泣き喚くのか?
痛みなど忘れるほどの恍惚。
脳が、胸が、どろりと蕩けていく。
──カランカラン……
入り口の鐘が鳴る。
「おめえ急に白目剥いてなにやってんだ……汚ねえ。涎を拭け! 気色悪い……」
──いらっしゃいまし。
五名様……
女給の声を聴きながら俺は口の横を拭う。
耳から届いた数字の数だけ視線がズブズブと肋間を貫いていく。
落ち着いた男の声で、 「飯沼君」と呼ぶのを聴く。
瞬間俺は臨終のとこに伏せっていた。
ゆったりと脈が飛び、下顎が引けてくる。
縁日の金魚のように口をぱくつかせ、現実に食らいつく。
貪る腑をなくした蛆どもが、「生」を渇望する喉をつたい、舌を這い、唇を撫で溢れ出てくる。
瞬間、飯沼が微笑んだ気がする。
あの日の、濁りない瞳で。
そこから俺の瞳孔はだらしなく開いたまま奴を映している。
耳は随分と研ぎ澄まされ、一点の音だけを清書し続けている。
あいつの弱みを握ってやる。
そんな邪な思いと共に空になったはずの身体の中で蛆が孵化し始める。
「ゲホッゲホッ! うわ……苦い……」
飯沼は珈琲が身体に合わないらしい。
涙を流しながら角砂糖を舐めている。
口に含む直前にわざとらしく前歯で崩し、わずかにこぼすのがいけすかない。
奴の隣の着物の男が背をさすってやっている。
うっすらと涙を浮かべつつ、こめかみを掻く。
そのあざとさが気に入らない!
そのくせ煙草を利き手と逆の指先で軽く挟んで一丁前に吸って見せる。
ふうっと白煙を吐く。
それをわざわざのけぞって見ていた先輩が俺の方を向き直り、
「見たか? あいつは煙草がサマになってる。」
目も合わせずそう言うと再びのけぞった。
その無防備な首筋をどうしてやろうか、それすらも思いつかない。
ただ奴の頸動脈がそこにあるだけ。
か弱い子うさぎの眠るのをみすみす逃す狼のよう。
あまりの情けなさにじわじわと舌を噛む。
白く、重いカップの中、冷め切った珈琲を飲み干してなくなったはずの胃の幻痛に悶えるのだった。




