幻影裁きし六法
万年筆の胴軸にも、俺の指先にも、勤勉なヒメアリどもが狂気の如く群がっている。
払い除けるのも不憫になって、俺はされるがままを貫いた。
小卓の上、積み重なった原稿を窓の隙間から忍び込む風がそっと誘う。
その端はすっかり乾き、波打っている。
屑籠は空のままだ。
ふいに口の端から嗤いが垂れた。
自身を眺め下すようなわけのわからぬ感覚を覚える。
脊椎のひとつひとつを絵筆で撫でられるような感覚に襲われ身慄いした。
漏れた息は白く崩れた。
眠った記憶がない。
そのくせ血と白蘭地の匂いのする原稿の束も身に覚えがない。
瞬きのたび、紅の強すぎる唇と、雛罌粟の紅とが交互に蘇る。
「随分と無責任な男だね。」
とは誰の言葉なのか。
それは俺の舌先から出ていったが、その声はどうにも別人のように聴こえた。
この無責任男の部屋の褥はしわもなく汚れもなく温みもない。
ただただ古び、綻んでいるのみだ。
いよいよ瓶の中で固まりかけていたインクは一晩で底を尽き、空瓶は俺の虚脱で満たされていた。
階段の床板に馴染むことなく漂う揮発性の甘い匂いに噎せかえる。
着物の袖で鼻と口を覆い駆け降りた。
裏庭の庇では、橙色の釣鐘がゆらゆらと眠げに朝を待っている。
俺はヒメアリを土に放つ時、この小さき命をニリニリと潰すだけの残虐性を持たぬ自分に安堵の息をついた。
それを背後から見下ろす男の言葉を待っていたのかもしれない。
振り向き、見上げたが奴は空を眺めるばかりだった。
押し黙る風でもなく、彼にとっては俺もまた土や酸素の粒のようにそこにあって然るべきものになったのだろう。
日の出前の霞む光の中でも、ヒメアリは勤勉さを忘れることはなく俺の手から降りると隊列を為し、尽きた蟋蟀の腹をむしり始めていた。
灰がかる空から柔く注ぐ光に透かされたその身体は仄かに紅みを帯びている。
未練がましいのはまだ俺の腹のあたりをくすぐっている。
俺は袖を抜き、這い回るそれを追いかけ回した。
「ひとつ、聞いてもいいかい?」
タールの雪を降らす男に声をかける。
「なんだい?」
「幻を裁く法ってのはあるのかい?」
灰色の空に、煤けた白雲が一筋昇っていく。
「おあいにくさまだったね、文士様。」
「は?」
「俺は賢い奴が好きなんだ。」
──俺は、あわよくばあの少年を牢獄に突っ込んでやろうと思ったのだ。
そして性懲りも無く差し出されるあの毒のような紅の罌粟攻めにでもして、あの艶のない黝い瞳が色なき糸を手繰り寄せるのを幾度となく断ち、打ちひしがれるのを……
頭頂部から頚椎にドンと重い衝撃が墜ちた。
近過ぎる煙草の匂いに咽せる。
「苦しいかい?」
「……別に。」
首がただただ重怠い。
「これ、読んでみるか?」
「これは……」
六法全書だった。
この男が肌身離さず持ち歩いているあの──
「その中にはあたたかな布団でも、断頭台でも、花でも、とにかくなんだってある。つまり……」
男は煙草を咥え、紙をめくり始めた。
そして本を閉じると俺の腕に捩じ込んで言った。
「文士様なら見つけられるかもな。幻を裁く法ってのを。」
奴はそう言って微笑み手を振っている。
吊し上げられた太陽はたわわだ。
俺はあまりの眩しさに腰を抜かす。
しかし気が急いて急いて仕方がない。
どこへ向かうともわからぬまま、俺の身体は開店前の書店の店先を通り過ぎた。
六法全書を小脇に抱え、手には夜通し欲望を注がれたあの紙束を握りしめている。
気付けば八角形の天窓の迫り上がった頂点の真下に佇んでいた。
──深淵が天、つまり昇天こそが墜落。
そうだ、この感覚だ……!
「上原朔也……」
あえて振り向かなかった。
「上原朔也……」
そうだ、もっと呼ぶがいい。
その実、不安だったのだ。
俺は本当に上原朔也なのか。
いくら呼ばれたとてどうにもその実態を掴めそうになかった。
しかし今はただ、その声でその七つの音の連なりを聴かせて欲しかっただけなのだ。




