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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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栗とあんみつ

忘れてしまった。

身体均衡の正常を。

覚えてしまった。

感情の不均衡の快樂(けらく)を。


半暗の視界は皮膚感覚を鋭くし、感情の尖を(まろ)くした。


俺は目の前の男の名を知っている。


──飯沼太一(いいぬまたいち)


しかし、彼を如何様(いかよう)に呼んでいたのか。

ただ、それだけが思い出せない。


桜の花の舞う時分、まだ無邪気にこの男と笑い合うていた頃の俺はどこか遠い国の冷たい牢獄の中で膝を抱えて慄えているのだろうか……。


茶屋は四つほどの空席を残し、あとは女学生やら観光の人々などで賑わっている。

餅を焼く匂いの先で恨めしげな顔をした学帽と目が遭ったように思うが、定かではない。


「さて、朔さん。何を召し上がりますか? 僕は初志貫徹……」

ずり落ちる帽子を直し直し、ようやくちょうどいいところでとまった。

ふふ、と目の前の男は品よく笑う。

「いやだなあ……部屋の中では帽子、とらないと。」

そう言うと彼は俺の頭から帽子をとり、自分の傍へ置いた。


ふと横を見ると、茶屋の娘が小さな帳面で顔を隠したところだった。

耳朶(みみたぶ)が赤くなっている。

「熱でもあるのかい?」

娘は首を横にぶんぶんと振った。

その拍子に髪がわずかにほどけ、後毛が揺れた。

その風を受け、卓上の桔梗の花は軽やかに踊る。


「ほら、朔さん。早いこと頼みましょう? 彼女も困っているじゃないか……僕は栗ぜんざいを。」

娘は器用に顔の真ん前で鉛筆を動かすと、帳面越しにチラとこちらを覗いた。

「じゃあ同じも……」

「え? いやだなあ……熱があるのは朔さんの方じゃないですか?」

飯沼は俺の額に手の甲を寄せた。

触れるか触れないかの距離で、ひんやりとかざされるその血管に思考を奪われていく感覚を覚える。


「君はあんみつがお好きでしょう?」

奴の艶消しの黝い瞳が俺を捕える。

「ほら、ありますよ、あんみつ。」

柔らかく凍った檻の中、二人の俺は対称(おなじ)に怯えている。

「もしかして……覚えてらっしゃらない?」

飯沼はゆったりと瞼を落とした。

「二人で来た時、君はいつだってあんみつを食べていました。」

再び彼の黝い瞳に景色が映る時、捕らわれていた俺の姿はどこにもなかった。

「ねえ? はつね(・・・)さん。」


茶屋の娘は今度は縦にぶんぶんと頭を振った。


「あ……あんみつを……ください。」

いつのまにか飯沼の背筋は伸び、手元の紙をめくっている。

「あの……」

娘が何やら言いかけて、またすぐに口ごもる。

飯沼が彼女の肩を叩き、何やら耳打ちをした。

はつねと呼ばれたその少女は耳の後ろまで真っ赤にしてとたとたと駆け戻って行く。

途中、呼び止める老婦人の声にも気付かずに。

小洒落た暖簾の奥に向かって、悲鳴の如く「栗とあんみつ!」と叫んだ。

地団駄を踏んでいる。

かと思えば「さ……さ……」と弱々しく囁いている。

代わりに白い前掛けの両端をギュウと握り潰しているのが見えた。


「人が悪いですよ、朔さん。乙女心を……そうやって。」

飯沼は俺に首の筋を見せつけるような姿勢のまま言う。

突如として向き直る奴の視線に狼狽して、桔梗を弄んだいた指先がその一輪を落とした。

それでも俺は執拗に残りの花を撫で続けた。

花が真にそこに在ることを確かめんとして。

そんな俺の指を握り、奴は言う。


「変わらないですね、そういうところ……」

朗らかな声の色に反してひどく蔑んだ唇の動きにどこか、諦念にも似た気怠い心地よさを覚える。


「ところで……」

飯沼は接続詞ひとつで時の流れを逆さにした。


罌粟(けし)だとか少年だとか……ああいうのはどこで覚えてくるのですか?」

墜落の寸前で、あの少年の口角が上がったのを思い出した。

無邪気さの中の邪心を瞬間にはどうとも思わなかったが、今となっては幼さ故の未知への好奇を追体験しているようで、腰のあたりがムズムズと昂った。

そのくせ喉は目の前の男に怯え、押し黙っている。


頬杖をつき、小首を傾げた飯沼は「なるほど」と頷きもせずただ微笑みを湛えていた。


──面影分かつ少年へ百の空蝉を与ふ。小窓(こまど)釘打ち空取り上げて我は叫ぶ

この釘にて、我が手掌を打て!

光を嫌い、愛を疎み、夢を忌む。


「え……?」


飯沼は俺の網膜を貫いたまま澱みなく謳う。

奴の歯と舌と唇が、奴の声を俺の言葉の形に成型してしまったのだ。


「相変わらず君の言葉はみずみずしくていい。」


やめろ……やめてくれ……


「それでいて──」


「闇の中を泳ぐような(なまめ)かしさがある……」


「君、あの寄宿舎にいましたね?」


──お待ちどうさま!


聴き覚えのない快活な女の声だ。


飯沼の残りの言葉は中空を漂いかき消えていった。


女は飯沼の前に栗ぜんざいを置く。

俺の前には三つ器が並んだ。

ひとつは寒天やら赤豆やら果物やらの入った硝子皿。

もうひとつは餡の円く盛られた青の小皿。

最後は黒蜜を入れた醤油さしだ。


しかし盆にはまだ一皿残っている。


「サクヤさんってのはどっちだい?」

残りの皿に指をかけた女が言った。


「待っておくれ! 当ててみせるよ!」

「当たっても何も出ませんよ、ふふ……」

八つ時には不釣り合いなほどに鮮やかな紅をさした女を飯沼が挑発する。


答えを待つ間、湯気と寒天の寒暖差で卓の上は乱気流でも起きているかのようだった。

俺はその気流の中で激しく揺られている。


その時、暖簾の隙間からはつねと呼ばれた少女がこちらを覗き見るのに気づいた。

なるべくそちらに気付かぬふりを心がけたが彼女は動揺した様子で奥へと引っ込んでしまった。


「あんただね?」

女が指さしたのは俺ではなかった。


「はずれです。残念。」

飯沼は意地悪くにやついている。


「ねえ? 朔さん。」

「じゃあ、この意地の悪い男は誰なんだい?」

二人の視線が俺をグサグサと容赦なく刺してくる。


「あ……ええと……」


俺はこの男の名を知っている。


──飯沼太一


しかし、彼を如何様(いかよう)に呼んでいたのか。

ただ、それだけが思い出せない。


「これ、はつねからだよ。あの子が作ったんだ。自分でお渡しよって言ったんだけどね。どうにも(うぶ)でやんなっちゃうだろ?」


ほらこれ、と俺の目の前に宝石のようにきらきらと輝くものが置かれた。

栗の渋皮煮だそうだ。

ここまで美しいものは初めて視たものだから、記憶にあるそれと結びつけることができなかった。


「作ってる時はもう、あたしが黙んなって言うのも聞かないで『サクヤさんはね、あんみつの餡と蜜は寒天にかけないのよ』だの『サクヤさんの詩が雑誌に載ってるのよ』ってうるさかったのさ……! 聞いてるうちにこっちがサクヤさんとかいう男にほ──」


飯沼が唇の前に人差し指を立て首を横に振っている。


女は紅の色を風の如く残し、暖簾の奥へと消えて行った。


奴はまた気味悪く、ふふ、と薄ら笑いを浮かべている。


「ずいぶんといやらしい女ですね……君の前にあんみつを置いている時点で……まあ、朔さん。君もなかなかの演技派ですね。」


俺は差し出された匙を卓の上に落とした。

そしてそれを拾い上げんとした時のこと。


つい顔をしかめ、息を漏らしてしまった。

違和の要因……

考えずともわかるそれに今、ようやく気づくとは……


「僕の名前くらい……言えるでしょう?」


裸足の足趾(ゆび)が靴底でニリニリと潰されている。

浅く吸って深く喘ぐ。

これを繰り返す。

唇が蒼褪めていくのがわかる。


飯沼はおもむろに餡の乗った小皿を傾けつつ、「ほら」と硝子の器に転がした。

そして天界から注ぐ絹布の如く黒蜜をとろりと滴らせる。


「おいしそうでしょう?」


俺より早く匙を拾い上げたその男はこれ見よがしに硝子の中をかき混ぜた。


寒天は砕け、蜜の黒色は半球を一色へ染め上げる。

蜜が得た光を餡が飲み込む。

それまで透き通っていたもの全てが艶消しの黝へと変わる。


毒々しいまでに甘々とした光景に灼け胃は眠りこけている。


「さあ、どうぞ。」


飯沼は震える掌に匙を握らせた。


「召し上がらないのなら、僕がいただいても?」

右の口角だけを釣り上げて、きらめく宝石を摘み上げている。


光を失くした透明は、舌の上に甘く刻まれていく。

奴は俺の喉元ばかりを見つめている。


喉の下降を確認した飯沼はすかさず、

「美味しいでしょう?」と問うてきた。


暖簾の奥、またあの娘がこちらをこちらを覗いている。


俺は大きく頷いた。


「ねえ? だから初めからこうしておけばよかった……」


飯沼は依然として摘み上げたままの栗を光に翳している。


奴はおもむろに俺の口元にあの煌めきを近づけた。

ぼんやりとした光の後ろの黝き眼に焦点が合ってしまう。

逸らしても逸らしても、逃れられない。

仄甘く、舌根が苦むような揮発性の香りに意識がうわずっていく。

眼球も天を目指すかの如く上へ上へと向かう。

いよいよ(うつつ)との縁が切れかかった時……


「もう……いいですよ。」


重く、冷たく、澱んだ声。


恐怖とは意味を異にする鼓動の乱れ打ちに俺は戸惑っている。

集中を削ぐ疼きに毒されながら俺はまだ、かろうじて呼吸を繋いでいるのだった。


「困った人だ……」


突如として、足趾にかかっていた重みが疼きのみを残し霧消した。


「立てますか……?」


向かい合っていたはずの男は右隣に。

あの紅の強すぎる女は俺の懐に何かを差し入れる。

俺は二人の視線のぶつかりを見逃さなかった。


俺はこいつに呼びかける術を持たない。

いや、忘れてしまった。

今、身を委ねているこの男をいかにして呼ぶべきか。


「朔さん……? また火曜日、学校の後。いいですね?」


気づけばもう下宿の柿の木が見えている。

まだ日も暮れていない、秋の夕。

おぼつかない足元と舌上の甘さ。


俺は今、どこで、どう、生きているのだろうか……。

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