雛罌粟の少年と誘惑
──釣鐘の首を縛りて蒼褪める
お空の顔は泡くっておろう
その手滑りて淡雪降らし
君の瞼は紅く腫れぬか
俺は今、遠回りの道、雨のあとの鉄柵の雫を掴み空を見上げている。
薄青の空に舞う粉の如き玻璃の虹へと指先を浸さんと背伸びをしたところだ。
「兄ちゃん、あのきらきらとれるかい?」
声のする方を向くと、七つほどの少年が黝い瞳を輝かせている。
彼は季節にそぐわぬ薄い綿のシャツを着て、赤い罌粟の花の束ねたのを握りしめていた。
俺は二度、三度程跳ねてみたがどうにも届かない。
息だけはあの淡き虹まで鞠のように飛んでいくのに。
「そこ、乗ってみておくれよ。そしたらきっと届くさ!」
少年は俺の着物の袖を引っ張り上眼にねだる。
彼もまた鉄柵に手をかけている。
罌粟の花茎は指と鉄の間で潰されていた。
陽の光が鋭くなって、玻璃の虹はいよいよ空の青に色を奪われそうだ。
「兄ちゃん、怖いのかい?」
黝い瞳の輝きは下瞼へと溢れ落ちる。
「そしたら、これ御守り……」
少年は俺の衿元に一本の赤い花を挿した。
「少し、待ってろ。」
俺は下駄を脱いで、左の足を鉄柵に乗せた。
金属の冷えが蹠から脊椎を貫くように疾走る。
悦楽にも似た身慄いに、つい高揚した。
袴の裾は雫を吸い上げ色を濃くしている。
虹は薄く、色を減らし、もう間も無く一色となろうとしている。
気が急いた。
右の足で地を蹴り上げた瞬間──
罌粟が一本、はらはらと落ちていく。
横髪は目尻の側で揺れている。
頭と膝とが点と点で結びつく。
崩れた均衡の中で俺は笑っていた。
「じきにとれるぞ!」
そう叫んだところで首が絞まった。
気づけば背後倒しで空を見上げている。
薄青の空にただただ白雲が伸びるばかりであった。
「危なかった……」
耳朶にかかる髪を安堵に似た低い声が揺らす。
背には人の温みを感じる。
「ああ……! 虹は?」
「虹?」
俺は胸にかかる黒い袖の腕を掴む。
それを拒むかのようにその指は俺の肩を押さえつけた。
鉄柵を掴んでいた少年が見当たらない。
「男の子! 七つほどの……」
「はい?」
「赤い花……そうだ。雛罌粟だ! 雛罌粟の束を持った少年は?」
ふふ……と品良く笑うのが聴こえた。
ふいに俺の身体を締め付けていた腕がゆるむ。
どうやら俺はこの男の背に身体を凭せかけていたらしい。
背を抜かれ、胸を青空に預ける形になる。
ふいに空の青は影の先へと消えた。
首元に体温を持つ風を感じる。
「君たちの学校では 口+哥囉仿謨の吸い方を……?」
もうすでに甘く蕩かす臭気に毒されてしまったような声だ。
「いや……まさか。白檀の間違い……ですよね?」
その声はインクの滲むが如くゆったりと離れていく。
「そうですよね……? 朔さん。」
慈しむかのように髪を撫でるその男の瞳は光を持たない。
ひたすらに黝く、俺の網膜にその色を注ぎ込んでいる。
彼は俺の背を支え、その場に座らせた。
鉄柵越しに、ゴウゴウと音を立てて流れる泥の水が見える。
「三日三晩と降りましたから……」
「ああ……」
泥の匂いと魚の潰れるような匂いが混ざり合い、鼻につく。
「さあ、行きましょうか。」
男はそう言うと、微睡みかけた俺の身体を起こそうと肩を支えた。
「あ。これ……」
俺は転がっていた学生帽子に手を伸ばす。
そして、膝に乗せた。
「桜……」
「そう、桜ですよ。」
彼は俺の頭にそれを被せると、顔の方に回り込んできて「よく、お似合いで。」と微笑んだ。
その身を包む詰襟の黒よりも深い色の瞳で。
ずり落ちる学帽の鍔で前が見えない。
男は俺の着物から袴から羽織まで、全てバサバサと払い整えた。
そして言う。
「うれしいな。火曜日の約束、覚えていてくださったのですね。」
俺は何も答えられなかった。
その実、今自分がなぜここにいるのかを全く心得ていないからだ。
歩を進めるたび黒く覆われる視界。
支えられた肩は軋み、疑わしい記憶は喉を絞め上げる。
俺は三度、四度、鉄柵の橋を振り返る。
やはり、雛罌粟の少年の姿は見当たらなかった。
茶屋の軒先で干柿が揺れている。
「着きましたよ。」
視界の上半分はまた真っ黒く染まっていた。
今、俺に見えているのは一面の石蕗の濃黄と草履の上で赤らむか細い十本の足趾だ。
苔を踏むような感覚の夢遊に、心地の良い嘔気を覚える。
しかし、それは同時に「逃げろ」という膵の叫びでもある。
「二人、二人です。」
その声は、いやに近くで聴こえた。
俺の足は敷居に引っかかりながらも、その一線を超えたのだった。




