月下香は朝に眠る
畳の毳立ちが芒畑の如く黄金に透けている。
俺は身体を横たえたまま、外套の襟で頬まで顔を覆った。
胎児のように背を丸めると蒼く甘い匂いに包まれる。
指先は酩酊者の脚のようにもたつきながら一本の切花を摘み上げた。
「月下香……」
可哀想に。
蒼褪めた白花……
窓の方を向き眠る大ちゃんとの間に、萎れた月下香を寝かせる。
「先生……」
あの男の顔を明けきらぬ空に浮かべる。
「先生……」
ぐったりと重力に身を委ねるこの花をどうにかしてやりたくて、俺はそれを手のひらに乗せた。
残酷にも俺の体温が花の命の終焉を早めていることにも気づかずに。
まだ、陽は昇りきっていない。
血の気の多い椋が向かいの庭の柿を取りあってギァと騒ぐ。
俺はそれを惚けた目で眺め。ふっと脣を緩めた。
大ちゃんは光を避けるみたいにしてもぞもぞと俺の方を向き、いびきをかき始めた。
夜着のはだけているのに布団をかける。
その手から立ち昇る月下香の甘さに目が回った。
すっかり息も絶え絶えとなったこの花を三文字書いて没にした原稿の中に包み、書棚の中で最も重だるげな書物の中腹へ挟むと、小卓の文庫の間に捩じ込んだ。
学生服の胸元の仄甘い香りはもうしばらく消えそうにない。
親しき仲にも、という言葉を眠れる友にも当てがって、俺は大ちゃんに背を向け着替えを済ませると階下へ降りた。
珍しくまだイヨさんは起きていないらしく、何もかもが静まり返っている。
布が擦れる音と紙のめくれる音が心地よく響く。
縁側に法曹崩れが前屈みに座っている。
悪戯心がはたらいて、俺は背後から慎重に近づいた。
あのクソ真面目がヒャアと情けない声を上げる妄想に憑かれて。
いざワッと声を出さんとした瞬間──
「おい。」
ヒャアと声を上げたのは俺の方だった。
悔しいやら恥ずかしいやらで、尻もちの姿勢のまま突き出した人差し指をわなわなと震わせていた。
奴は、やれやれとため息をつき「文士様はマヌケだねェ……」と薄笑いを浮かべている。
そして手招きして「ちょっとこれ、履いてみろ。」と言う。
「ん? なんだい?」
彼の視線の先、沓脱石の上には一足の下駄。
「履いてみろ。」
言われるがまま足を突っ込む。
「うん……?」
風が吹き、開きっぱなしの六法全書がパラパラと音を立てる。
「ゆるいか?」
「え?」
「わかるさ。ちょっとじっとしとけ?」
奴は自分の膝に下駄ごと俺の足を乗せると布をグイと引いた。
「随分と足小せえんだな……」
「は?」
「そんな細っこい身体と小せえ足でなんでまたそんなでっけえ足音出るんだか……」
「ああ……」
「夜中なんかだいたいお前が厠行くのわかるからな!」
俺はどっちつかずにふらふらしている小難しい本の紙を睨みつけた。
「これ、読んでんのかい?」
「いや、開いてるだけだ。」
「え?」
「え?」
「そりゃああれだ、文士様たちがやたらに文を送り合うのと……よし。」
彼は片付ける必要もないのに六法全書を閉じ、畳の方へすっ飛ばした。
「どうだ?」
俺は恐る恐る立ってみた。
「おお!」
歩いてみた。
「うん!」
跳ねてみた。
「ちょうどいい!」
このあと俺はしばらく裏庭から玄関まで幾度となく走り回った。
程なくして大ちゃんが起きてきた。
「なんだっておめえ朝からそんな犬っこみてえに……」
「大ちゃん、ちょうどいいや! 見てくれ。下駄、直してもらった!」
「お! よかったでねえか!」
大ちゃんは寝ぼけた顔のまま俺の頭を撫でる。
法曹崩れが六法全書の向こうからこちらを向いて笑っていた。
腹を空かした学生どもがどさどさと降りてくる。
俺はひたすら奴らの朝餉を配りに配った。
ようやく席について、真っ先にぬか漬けを放り込んだ。
──ん?
「なんだい、朔ちゃん……さっきから。恋に恋するお年頃の女子みてえな顔しやがって……」
「いや……なあ。大ちゃん?」
俺は大ちゃんの耳に顔を近づけた。
「……ぬか漬け、味しなくねえか……?」
ほとんど吐息だけで言い切った。
「はあ?」
大ちゃんは一口かじって、しばらく噛んでから言った。
「ちょうどいい塩梅でねえか! うんめえな!」
俺は首を傾げたままぬか漬けを鼻に近づけた。
目を閉じる。
ほんの一瞬だけ、あの喉を灼く甘い匂いがした。
俺は首を振り、慌てて目を開ける。
「大根か……」
「大ちゃんだべ?」
「大根……」
「大根……?」
──大根!
「大ちゃん! あんた大笑いしてる場合かい? 遅刻だよ遅刻!」
「いっけね……!」
大ちゃんは切羽詰まった鼠が如く頬をぱんぱんに膨らましている。
「それから大ちゃん! あんたまた釦なくしたのかい?」
「いっけね!」
俺は大ちゃんの言葉らしきものを叫び、口をおさえた。
大ちゃんはゲフゲフと横で顔を真っ赤にしている。
俺の肩を掴みつつ、反対の手で釦のない胸元を指さしている。
「さー、がー、せ?」
大ちゃんは真っ赤なまま、うなずいた。
「行ってきます。」
と玄関に降り立った大ちゃんは厳かに革靴を履く。
俺はこっそりつま先を覗きみた。
ない……
傷ひとつない……
昨夜、つけたはずの傷がない。
「なあ大ちゃん? 今日何曜日だい?」
「金曜日! 金曜日だ、朔ちゃん!」
大ちゃんは走り出したい思いと、俺の無駄話とに手を引かれ蟹のように進んでいく。
金曜日、か……
「朔ちゃん? 俺、行くかんな?」
「……金曜日……金曜……金曜日……金……?」
「行ってきます!」
痺れを切らした大ちゃんは嵐の如く去って行った。
さて、俺は今日何をしようか。
部屋に戻った俺は、大ちゃんが忘れていった文芸誌を手にとった。
ぱらぱらとめくる。
紙とインク、そして小気味良く並ぶ文字の塊が心地いい。
ふと指が止まる。
瞬間ひとつの名前に目が奪われる。
「違うか。」
「朔ちゃん! 何やってんだい? 早いこと外、掃いちゃっておくれよ!」
「はーい!」
俺は雑誌を小卓に載せて階段を駆け降りた。
外では何度目か知らない椋の諍いが起きている。
それでも下宿の裏庭の釣鐘どもは無傷のまま、今日ものんびり空の青さに見惚れているのだった。




