神経質な万年筆
たかだか二文字を拒めなかった俺は、光の中へと引きずり込まれていく。
長く闇に沈んでいた瞳は、眼前の灯を拒んだ。
世界の大半が白く、狭まっている。
捕まれた腕の先、ぼんやりと青緑色の影を見る。
乾いた品のある足音に、俺の足音が続く。
冷え切った足はもつれもつれ、だんだんと歩くことすらままならなくなっていた。
少しずつ瞳が光と馴染んできた頃、俺は朧げな記憶の中の景色を横倒しに視ている。
否、眠っていたのだ。
あの光の中へと堕とされる恐怖のあと、たった今睫毛を擡げるこの瞬間まで、俺は眠っていたらしい。
万年筆で紙を搔く硬い音が響いている。
トメ、ハネ、ハライ……
そのどれもが神経質に整いながら進んでいく。
これは間違いなく、頭の中に物語の在る人間の所作だ。
現実世界と完全なる虚構の世界とを結ぶ物語。
それも綿密に練られた罠が計画的野放図に散りばめられた理路整然とした完全無欠の──
「その通りだ。」
「え……?」
依然としてその神経質な筆尖の音は続いている。
声のした方へ頭を向けると洋燈の炎の揺らめきの向こう、書物に耽る男の姿がぼんやりと浮かび上がった。
髪に阻まれ、表情はうかがい知れない。
しかし刹那に移りゆく光を、音を、匂いを、その全てを逃すまいとする執念、そしてそうせざるを得ない自身への果つることなき諦念のようなものを感じずにはいられない。
あれほどまでに張り詰めていた音が傾れ込むように速度を増し、乱れ打つ鼓動が如く急いた。
そして、最後。
静謐に終焉の符号が打たれた。
男は洋燈の炎を消す。
光は燭台の上で燃ゆる炎のみとなった。
木造りの床を打つ靴の音と共に近づいてくる。
「その通りだ。」
先刻よりも、穏やかな夜闇に溶け込むような声だ。
男は丸椅子に腰掛ける。
三つ釦のチョッキも、首元の蝶ネクタイも、洋袴も、その全てが神経の尖りを如実に現している。
一方でシャツの袖だけがインクに汚れ、不規則に皺が寄り集まっていた。
「飲むか?」
俺の半開きの目に映るウヰスキーの小瓶。
動きに合わせ、燭台の炎が揺らめいた。
「いいえ、遠慮しておきます……」
「そうか……」
頬の辺りまで睫毛の影が落ちる。
憂いの伏目が喉を灼いた。
頭が重い。
瞼が重い。
酩酊によく似た身体の鈍りで、枕から頭を離すことができずにいる。
ただ、俺は確かめたい。
この脳を蕩かす感覚はなんだ?
そして、あの白い光は幻だったのだろうか。
燭台から伸びる花の影……
──月下香だ……!
ふいに目尻をこぼれ落ちていった記憶が胸騒ぎを連れてくる。
次点、それはもう砕けてシーツへと染み込んでいた。
「先生……」
「先生? お前にそう呼ばれる筋合いはない。」
「……」
「お前は俺の教え子だったことなど一度もない。」「……」
「学籍もないのに勝手に居座ろうとした、所詮迷惑ないち学生だった。」
「……」
「ならば……」
男は丸椅子から降りると寝台の隣にしゃがみ、目線を対等にして言った。
「俺をそう呼びたいのなら、本気で学んでみないか?」
「え……?」
「落第してるのに……?」
「お前、思いの外保守的な人間なんだな。見損なったぞ。」
学籍もないのに、と初めに言ったのは先生……否、あなたの方なのに。
そう思いつつ、迫りくる寄る辺なさを必死に飲み下した。
「上原朔也……」
──夏の日の、金魚の泳ぐお池でね。
僕は水からお空を見てた。
赤いお魚、小石の上で跳ねていた。
君が僕で、僕が君ならよかったね。
苦しかろう?
苦しかろう?
やっとの思いでお魚掴み、ぶくぶく泡をあげたけど、
一緒になって空を見るだけ。
あの空は……
「紙の中のお前はいつまでもどこまでも少年だ。少しは大人になれ。」
あの日、俺を呼ばなかった声。
その声で俺の名を、詩を、叱咤を聴くことになるとは。
「なぜ……なぜそれを?」
身体を起こそうともがく俺の眼窩を重く甘い花の匂いがいたぶる。
「子どもには刺激が強すぎる。」
白いはずの月下香は炎の色を受け、わずかに萎れ始めていた。
男はおもむろに立ち上がると、壁に掛けられていた乾燥花の逆さ吊りを俺に抱かせた。
「何の花か、わかるか?」
「ええと……糸繰草、ヘリオトロオプ……迷迭香……」
「これがオダマキ、それからこっちが……」
ただのひとつ、乾ききらず湿り気を残し黒く腐っている花だったようなものが見える。
「……ヒアシンスだ。」
男は俺の鼻先にそれを差し向けた。
饐えたような、それでいてわずかに艶めかしい香を感じる。
しかしそれは、深い寂寥のような、心臓を背中の側からくり抜かれるような……
「わかるか……? みずみずしいものは腐るんだ。」
──君の言葉はみずみずしくていい……
花束を抱えた腕が慄え始めた。
あのおぞましい記憶が花々に宿り始める。
先生……いや、目の前の男の背後に桜の金釦の黝い瞳の青年が立つ。
腫れ上がる心臓が肺を押し潰している。
中途半端に吸いかけた酸素がどっちつかずに気管で詰まる。
目をカッと見開いてそして唇を動かす。
こんなにも手も身体も慄えるのに……
声帯だって慄えるのに……
慄えるのに震えない。
「怖かったんだろう?」
彼は俺の慄えに手を添える。
そして不意に男は燭台の炎を吹き消した。
一瞬、立ち昇る煙を見たような気がする。
熱せられた月下香の匂いが意識を腐敗させたのだろうか……
全身の力が抜け落ちる、その瞬間の記憶だけが鮮明に残っている。
俺は今、暗闇の中を漂っている。
薄煙のように月下香の匂いもわずかに絡みついている。
先生……先生……?
──みずみずしいものは腐るんだ。
──君の言葉はみずみずしくていい……
──少しは大人になれ。
二つの声が互いに尾を引き混じり合いながら、頭の中で揺れていた。




