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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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蛾雪景

ぼやけた鐘の()はまるで催眠術師の囁きのようだった。

門番は門にもたれて眠りこけている。

男の真上の(あかり)には未だかつて見ないほどの蛾が舞い飛んでいた。


夜の静寂(しじま)を打つ羽音(はおと)

そして降り注ぐ鱗粉。

さながら溶けることなき細氷(さいひょう)の如し。


月無き夜、俺は錆鉄の門に積もった褐色の雪を傷の指でなぞった。

窄めた唇から吹く息で鱗粉は俺の辿ってきた道の方へと流れる。


鉄格子の間から男の頬をつついてみた。

わずかに顔をしかめるのみで、目覚める気配はない。

またすぐに心地よさそうな寝息を立て始めた。


漆喰と煉瓦の塔は門外からでもよく視える。

蛾雪景(ひひるせっけい)、不気味なまでに濃紺の空に映えている。


それにしても学校(ここ)の護衛ときたら、金平糖の石鹸で身を清め、水飴の風呂に沈んだ(のち)、カステイラの枕で眠るほどに甘い。


ご立派な門の隣の柊はもう二年も前から死んでいてぽっかりと穴が空いている。


──門番の渡瀬といふ男は大抵居眠りをしてゐる。奴の晩ならば正面の門、東の方角より入られよ。

柊の途切れたるは其方が為の入口とならふ。


松精油(ターペンタイン)臭い(ふみ)がこんな形で今、俺を救うことになるとは……


少々感傷に浸りすぎたか、着地に失敗した。

やはり借物の靴では少々()が悪い。


(わり)ィな、大ちゃん……」

俺には大きすぎる革靴の右爪先の内側の新しい白い傷を撫でた。

そして転がった学帽を拾い上げ、目深にかぶる。


歩くたびにズッ、ズッと踵が後ろに残る。



門外より垣間見る姿から一変、いやに重々しく闇に沈んだように見える研究棟。


俺は石造りの外階段を登り始めた。

下から八段目の踊り場には銀杏の葉が溜まっている。

夜闇を吸い上げ、気味悪く鈍金(にぶきん)の光を放つ。

履き慣れぬ靴底は滑り、俺は膝の半月を痛めた。

痛みごと七段を登りきる。

膝をさする俺の鼻先には、大仰な南京錠が下がっていた。

ただでさえ黒黒とした重木(じゅうぼく)造りの重苦しい扉は、蒼ざめた真鍮をまとい俺を拒絶する。


研究棟の裏手に回ると、枯れ蔓の砕け散らばる不規則な段々が現れた。

その果てにやや小さな扉が見える。

表の華やかさとは似つかわしくない無骨な造りの灰色の扉。


──立入禁止


朱墨で直に書きつけられている。

触れればべったりと指を染めかねぬ程にてらてらとぬめるように光を返す。


(いち)(ばち)か、俺はこの扉をグイと押し込んだ。


ハッと短い息を飲み込んだ。

ひんやりとした金属の酷たらしさを嘆く心構えは瞬間打ち砕かれ、狼狽(うろた)える間さえ与えられず、前のめりに均衡を奪われ闇のそのまた奥と転げ込む。

まるで内から何者かに引き込まれたのではないかと(まご)うほどに扉は軽かったのだ。


背の方で、金属の重く閉じる音が唸るように聴こえた。


ついに光は絶ち消えた。

腕を目一杯伸ばしたところで何かに触れるでもなく、ただひんやりとした空気を指で梳くのみである。


右腕を千切れんばかりに伸ばし、横歩きに五歩行ったところで壁に触れた。

曇り硝子に似た、鈍い指触り。

氷の如く冷えている。

そのまま壁づたいに進んで行った。

壁は俺の指先の熱と感覚を奪い、代わりに痛覚を経ない疼きを与える。


靴の先が何かを蹴飛ばした。

その「何か」に靴の先を当てたまま膝ごと引き上げその輪郭をなぞる。

ゆっくりと三秒数えたあたりでその線が断ち消えた。

俺はそのまま足を前方へと擦り出してみた。


「階段だ……!」


ともすれば、と痛む半月のことなど忘れ、撫で上げた輪郭の端に膝を寝かせた。

そして極めてゆったりと手掌をつき、四つ這いで上を目指す。

靴の先が段に突っかかるのを嫌い、俺は手探りで紐を解き脱ぎ捨てた。

硬いものが、幾度となく打ち付けられる音が響く。


最終段に身を置くと眼上に広がる八角形の天窓。

光もないのに、その縁は白く浮き上がって見える。

天と地が入れ替わったかのような光景に、俺の唇は慄えている。


──深淵が天、つまり昇天こそが墜落。


息が詰まる。

あまりにも理想的な絶望の姿に恍惚としてしまう。

振り払うこともできず、ただひたすらに肺を満たし続ける闇の(くろ)で窒息の夢をみる。


八角形の中心は天近くに()り上がっている。

蛾どもはその高みめがけて翔んでゆくのだ。

俺は膝立ちでその一点を見つめる。

この腕は羽根だ、黒の外套をバサバサと振り乱すした。


裸足の足裏を部屋の空気が冷やしていく。


残響の如き靴底の()が伸びすぎた襟足の先を微かに揺らしている。


相変わらず俺は仰け反るようにして、八角形の夜の姿を貪っている。


──タン……


──トン……


──タン……


一匹の蛾が突き上げる尖塔の内をぐるりと舞う。


俺の膝から、正面の色硝子に向けて影が伸びる。

蝋の溶け落ちる甘く煤けた匂いに眩暈がした。


「ここで何をしている……」


色硝子の青と緑だけがいやに強く網膜を刺す。

まるで身体だけが眠ってしまったように、硬直している。


「上原朔也……」


顎が震え、声が出せない。

その、名らしき音の並びは……?


「来い。」


あまりに冷たい声に俺は凍えている。

それでもなお膝立ちのまま、八角形を網膜に映し恍惚のままに唇だけは弛んでいるのだった。

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