コバルトよ、生き急ぐこと勿れ
この日は花曇り。
とはいえ桜は幾分か身軽になっている。
軽やかに枝を揺らしながら薄紅をこちらによこす。
灰色の空に腕を伸ばせばいくらでも捕らえられそうなものなのに、全て指を掠めて後ろの学生の外套に貼り付いていた。
図書館に横光利一の本を返しに行く。
それだけを名分に今日はここにいる。
奴の運は今尽きた。
そんなところで暢気に油絵の具など塗ったくっているのがいけない。
背中側からズイズイ迫って行く。
奴の後ろ首を掴んで右の衣嚢に手を突っ込む。
体温でぬるまった冷たい質感のそれを乱暴に掴んだ。
「なんだお前!」
宙を舞う筆は俺の右目の下と地の石とを死んだ肉の匂いのコバルトでべっとりと染める。
構わず人肌の琥珀色で喉を灼く。
気色が悪い!
目の前でわなわなと震盪しているこいつの唾液まで身体に侵入したかと思うと猛烈に吐き気がした。
小瓶を投げ捨て、唾も吐き捨てると、途端に眼球が沈み、世界が逆方向に回り始めた。
鐘の音が遠くに聴こえている。
埃っぽい仄暗さが肺を満たそうとしてくるが息は浅く、頭の端と端がどくどくと嫌な音を立てる。
右の目尻は乾き始めている。
代わりに目頭は濡れていく。
作り笑顔でもする時のようなぎこちないひび割れを顔面の右側だけで感じている。
錆鉄の匂いは目の前の古ぼけた画布からだろうか。
まるで球根の心持ちだ。
光の方へ顔を向けると真っ黒い人影が見える。
ギィと聴き覚えのある音が響く。
クソッタレが……
──バタン!
と大袈裟に音を立て閉ざされた扉。
わずかな隙間から春の光が差している。
薄汚れた床板でさえ春の温度だ。
光の筋に沿って虫の卵の並ぶのが見える。
膜を裂いて、蠢き俺を喰い殺す!
真っ暗になった。
ひたすらに暗かった。
暗闇の中、飯沼太一の名前を指でなぞる。
──君の言葉は生きている。
その言葉が春の朝の空のように白んでいく。
反芻すればするほど胸は高鳴る。
そう、心を美しく描くのであれば。
しかし、物理的には違う。
心臓は肋を突き破ってまで四方八方に飛び散りそうなほどに乱暴な臓器である。
肺などはとうに殴り潰されているもの同然。
力無く笑って見せる。
誰もいないのに。
建て付けの悪い扉からはまだ柔らかく春が流れ込んでくる。
ギィィィィイ……
と重く引き摺る音が腹に響く。
「なあ、やべえんじゃねえか……?」
「まさか……」
「いざって時は根津山が……」
「バッカかおめえ! すぐに見つかっちまう。」
俺は根津山に埋められる。
手は土から飛び出していて、くる奴くる奴の足首をギシギシと掴む。
そんな妄想に耽りながら笑っている。
頬をピシャリと叩かれる。
「おめえ、死んだふりしてんじゃねえど?」
また春の中へと放り出される。
すっかり埃と死肉の匂いに慣れている俺の鼻は、驚いているのか桜の花びらのわずかに香るのすら強烈に甘ったるく感じる。
時計は四限の半ばを示している。
鞄の中に残されている横光利一の背表紙と時計とを交互に睨みつけた。
途端にブワッと大風が頬をぶん殴っていった。
気付くと俺の下駄は、根津山とは逆方向でズッズッと引きずるように音を立てている。
無性に甘いものを欲していた。
胸が灼けるのはわかりきっている。
それでも脳が欲しがっている。
身体の主導権はやはりここなのだ。
それをまざまざと見せつけられている。
同時に脳というのは馬鹿な臓器である。
欲望を生み出し、身体を突き動かした癖に「奴に会っちまったらどうすんだ」と叫ぶ俺の虚像を見せてくる。
茶屋へと向かう足と、それを拒否する心。
拮抗する力で股裂きにされかけ、足がもつれた。
擦りむけた掌を見つめ、そんなところには何も映りはしないのに余裕たっぷりの笑顔を向けてみる。
ぶんと首を横に振り、立ち上がる。
どんな話をしよう。
「飯沼、俺もおめえみたいにハキハキと書けたらいいんだけどな……」
いや、違う。
「調子、いいみたいだな。」
これはあまりにも偉そうだ。
気づかないふりをしようか。
あいつの桜の襟章がギラリと光るのが横目に入ったら、
「おう、奇遇だね。」なんて言って、一気にあんみつ食ろうて店から出て……
いやだめだ。
金を払っている間に余分なことを言われるやも知れん。
頭を掻きむしって、学生帽のないのに気付く。
それでも俺は振り向かなかった。
もう目と鼻の先に茶屋の旗が風になびいている。
茶屋の娘が後れ毛をおさえているのが見える。
さすがにこの大風の中、外席には何もいない。
ともすれば奴は中に潜伏しているのだろうか。
「いらっしゃい。あら、今日は……」
女将の声など聞いてはいない。
店の中を見渡す。
「どうしたってのよ、そんな怖い顔して……」
「……うるさい。」
咄嗟に口をついて出た言葉を掻き消すように、
「すっ……すみません!」と大声を出す。
ぽつぽつと埋まる席から視線がバチリと音を立て集まってくる。
その中に、飯沼の目がないのに俺は安堵した。
立ったまま項垂れる。
わけのわからない化け物のような俺を娘がすぐ近くの空席に座らせる。
「……すまないね。」
娘はギュッと盆を胸に引き寄せ、口を結んだまま左右に首を振る。
そして、震える唇でこう尋ねる。
「あ……あんみつ……で……よろしいですか?」
「ああ……ありがとう。」
時折こちらの目を覗き見ては反らす。
そんなにも怖がらせただろうか。
しかし彼女への申し訳なさより飯沼のことが杞憂に終わった安堵が勝る自分がつくづく情け無い。
あんみつは、餡が別皿、黒蜜が醤油差しに入って出てくる。
もう幾度となく眺めた、ありふれてしまった光景。
寒天はいつものように透き通り煌めいている。
餡は超えられぬ山のようにそびえ立ち、蜜は底無しの闇のように渦巻いている。
匙に乗せた透明を目の高さまで上げる。
片目を閉じ、世界を望む。
今日はいつになく睫毛が邪魔だ。
寒天も、果物も食べ終えてしまうといよいよ俺は山と闇と対峙することとなる。
匙で餡の山を真っ二つに割る。
だからといって甘さが半減するわけでもない。
しかしどうだろう。
今日はなんの味もしない。
俺は反射的に女将さんを訝しんで見る。
あちらも俺を訝しんで見る。
醤油差しを掴むや否や一気に舌に落とす。
やはり味はしない。
しかし、ごくりと喉が音を立てるよりも早く漏れ落ちた無言の甘みが胸を灼いた。
いや、灼き切られた。
肩で息をする。
吸い込みすぎた人々の嘲笑が肺を破らんとしている。
また視線の刺さるのを感じるのに人々の顔がわからない。
全てあの大風に吹き攫われてしまったのか。
怖い。
逃げるように外へ出る。
時折茶屋を振り返りながらよろよろと蛇行して走る。
ハア……ハア……
ほとんど進んでいないのに息が切れてしまう。
空が雲に守られ焼けずにいる。
代わりに俺の胸が灼けている。
何もないようなひたすらに続く灰色の天を仰ぐ。
空の手前で桜が暴風に耐えている。
花びらが身を挺していとしき緑の小さいのを護らんとしている。
最後の最後まで、その芽に寄り添うも無情にもその手を断ち切られてしまう。
想いは残るが去り際の美しいこと……
気づけばまた腕を延ばしている。
それでもやはり、花びらは指先をすり抜けてどこへともなく消えてしまう。
そんなことを繰り返しながら、カステイラの売っているのを素通りした。
何も過らなかった。
薄暗い部屋。
閉め忘れの窓から入り込む風が紙屑を巻き上げている。
ただただ網膜の乾くのを感じながら、ガタつく窓に手をかける。
なぜだろう。
まばたきが思い出せない。
見たいものが見られない。
まだ十分に部屋には光が差しているというのに手探りで原稿用紙を取り出した。
左の薬指に、閃光が走ったような感覚を覚える。
腹が切れ、鮮やかな赤が滲む。
ああ……痛い。
なんて鮮やかな痛みだ。
贅沢だ。
あまりにも贅沢だ。
心臓が指に灯ったかのように、脈打つ。
ぽたりと何もないマスに落ちた痛みは瞬間どす黒く変わる。
汚い!
衝動的に第二関節まで口に突っ込み噛みちぎろうとしていた。
鉄臭さが鼻の付け根に上がってくる。
隣の部屋の騒がしいのにたった今気付く。
構わず俺は、マスの一つ一つを睨みつけていく。
言葉が胃の中で腐り、死んだ肉のようになっている。
朝が来る。
夜が去る。
朝がさる。
昼が来る。
図書館から督促状一通。
期限だけが紅く滲んでいる。
薬指もまた同じように。




