星なき朔の夜
「用がないなら帰れ。」
揺るぎなく、そして冷たい男の声。
決して俺に向けられた言葉ではないにも関わらず、なぜこんなにも腑から熱を奪う?
なぜこんなにも眼窩を痛めつける?
「今日は新月だ。気をつけて帰れ。」
そう付け足すと、男は足早に立ち去った。
遠ざかる青緑の背広の背はまるで、霧がかる針葉樹林のように見える。
彼の去り際に生まれた風は、俺を凍させた。
大ちゃんがへなへなと崩れ落ちてきた。
「はあ……なんだべもう……俺、あいつと喋ると生気吸い取られんだ……吸血鬼みてえな男だ……」
言い得て妙だ。
俺は黙って頷く。
「朔ちゃん? 何おめえ偉そうに腕組んで……」
俺はしばらくその男を観察していた。
「そりゃあ、あながち間違いでもねえかもな。」
「おめえが偉そうってことかい?」
「……」
「朔ちゃん……?」
「もういい、おめえには何も教えねえ!」
「シッ!」
声を大きくしてしまった俺はその人差し指と俄かに怯え出した瞳に嗜められた。
天窓から降り注ぐ光の色は少しずつ数を減らしている。
秋の陽は釣瓶落とし。
研究棟の外階段を七段降りたところで大ちゃんが立ち止まる。
俺はまだ三段しか降りていない。
「で、用は済んだんけ?」
「あ。」
「『あ』でねえよ! 用があっから来たんでねえのかい?」
俺は下唇を噛んで笑う。
「悪ィな、大ちゃん! なーんも、なーんもだ!」
「ほんっとにおめえってやつは……!」
途端にビョウッと風が吹き大ちゃんの外套の裾が眼球に当たる。
「おい、こら! 待て!」
大ちゃんは俺には目もくれず階段を駆け降りていく。
「朔ちゃん! 何やってんだ、おめえのも……」
「え? あ! ああ!」
帽子が銀杏の葉と一緒になって道を滑っている。
俺と大ちゃんは夢中で走った。
ようやく帽子を捕まえると天井には黄金色の葉が幾重にも折り重なっている。
「朔ちゃん、捨ててけよ。」
「なっ……」
「図星だべ?」
「うっせえや!」
門番の男が笑いながらあくびをした。
「なあ、大ちゃん?」
「なんだい?」
「この学校の時計ってのは、信頼してもいいもんかい?」
「そりゃあおめえ……だめに決まってんだろう! 忘れたのかい?」
「え?」
「まず大銀杏の横のは八分遅れだ。それから、二号棟入ってすぐが五分遅れ。図書館が十三分遅れ。」
「植木先輩の懐中時計が二分遅れ、一号棟の一番奥が六分遅れ……」
思い出した。
記憶が湧き上がってきた。
「門番の時計が十五分進んでて、唯一正確なのは……」
大ちゃんと俺はにやりとし、視線をぶつけ合った。
──校長の腹時計!
「なあ、大ちゃん?」
「今度はなんだい?」
大ちゃんは時計問答の余波から半笑いどころではなく、過半数笑いほどの笑いをたたえている。
「走るぞ!」
俺は今にも姿をくらまそうとしている太陽を指さした。
「え?」
「下宿まで走る!」
「だどもおめえ足、遅えでねえか!」
「うっせえ!」
威勢よく駆け出したは良いものの、あっという間に足がもつれ地に転げた。
その拍子に右の下駄が門の外にすっ飛んでいった。
ひっくり返った肺が喉から出たり入ったりするかの如く咳き込んでしまった。
「ほれ見ろ! そもそも一寸前に走ったばっかりだべ?」
と大ちゃんは腕組みしながら言う。
その余裕綽々ぶりに腹を立てた俺は何か報いようと思案したが何も思いつかず、裸になっている右足を睨み、ただ唇を尖らせていた。
「朔ちゃん、待ってろ。」
戻ってきた大ちゃんは「乗れ。」と言い、地に片膝をつけた姿勢で自分の背中を親指で示した。
「いんや、歩けっから。」
「これでかい?」
下駄の鼻緒はちぎれていた。
こんな時に限って、と嘆く俺を大ちゃんは笑う。
「馬鹿言うんでねえよ! 災難さんはこんな時でなかったらいつくればいいもんかわからんべ?」
九割方、腑に落ちた。
しかし口をついて出たのは、「なんだい、それ」。
残りの一割の方だった。
「だどもおめえなんか急いでるんでねえのか?」
「え?」
「勘だ、勘。ほれ!」
大ちゃんは「しっかりつかまってるんだど?」と言って俺をおぶった。
半笑いの門番の横を通り過ぎると、校舎の方から聴き覚えのない、不気味なまでにぼやけた鐘の音がする。
「なんだべ、この鐘。」
「おめえも聴こえたか?」
「ああ。だども初めて聴いた。」
どうにも背の温みと揺れとで心地が良い。
「まだ鳴ってんな……」
「もう鳴ってねえよ、何言ってんだ朔ちゃん。」
「……」
瓦斯灯の光はまだ、眠りきれずにぐずる陽をあやしている。
一本調子の鐘の音は、やはりまだ鳴っている。
否、泣いている。
「朔ちゃん?」
小さな頭が見える。
陽に透かされたその髪は、やや栗の実に似た色をしている。
「……」
「大ちゃん……? おめえ今誰かと手、繋いで……」
睫毛越しに見えているその小さな頭はどうにも見覚えのない少年のようだった。
「何言ってんだ? おめえの下駄だべ!」
大ちゃんの大声に驚いた少年の頭がビクッとして見上げようと動く。
「……ああ。下駄だ。」
「怖ェこと言うんでないよ! これで俺、夜中厠行けなくなったでなえか! 朔ちゃん、おめえついて来てくれんだろうな?」
「また泊まる気かい?」
「責任とれ!」
幾度となく魔物とすれ違った。
鐘の音はもう、消え去っていた。
下宿ではイヨさんが真っ赤な顔で七輪を仰いでいる。
「おんや、また大ちゃんかい!」
ふう!と炎でも吹きそうなため息のあとイヨさんは、
「朔ちゃん! あんたはどうしてこうもだらしないんだい?」
「ん?」
俺はまだ大ちゃんの背中におぶさったままだ。
「まず、そこ!」
土間と食堂の間に、脱ぎ捨てた形のままの枯草色の着物が落ちている。
「それから……」
イヨさんの目は土間から食堂にかけてをぐるりと見渡し、七輪で音を立てる鯵の干物で止まった。
俺は大ちゃんの背中から降りると、首を傾けたまま階段を登る。
枯草色を抱えて。
部屋に入るなり帽子を投げ捨て、外套を振り落とし、ぎこちない指で五つボタンを外していった。
「なあ、朔ちゃん。おめえなんてとこでその着物脱いでったんだい?」
大ちゃんは大笑いだ。
「いんや? 俺はここで脱いだ。」
「本当かい?」
「疑うのかい?」
「うん!」
「……夜中、厠ついてってやんねえからな!」
「あ! それは卑怯だど?」
まだ厠のことをぶつぶつと唱える大ちゃんを連れて階段を降りた。
俺はとうに焼けた干物を皿に乗せていく。
溶け落ちた脂のせいだろうか。
炭はいやに高く焔を噴き上げていた。
夕餉の間、大ちゃんは俺の横で舟を漕いでいた。
時折俺の肩に衝突してはもう反対の学生の肩に衝突することを繰り返す。
俺と学生の肩が難破船の如くなって来た頃ようやく目を覚まし、目にも止まらぬ早さで皿の上から椀の中身まで腹に仕舞い込んだかと思ったら「寝る!」とだけ叫んで階段へと向かっていった。
「大丈夫かい?」
至極当然のことのように俺の煎餅布団にくるまった大ちゃんは、うわごとのように呟く。
「アオミドロ……吸血鬼め……」
程なくしてゴオゴオといびきが聴こえ、俺は部屋の灯りを消した。
再び階下へと降りた俺は片付けを済ます。
珍しく、一枚たりとも皿を欠くことなく。
「おやすみなさい。」
食堂で寝こけているイヨさんの肩に、仏壇横の毛布をかけた。
部屋は依然として大ちゃんから発せられる轟音で満たされている。
しかし俺は轟音に甘んじることなく布のこすれる音をも許さぬほどに神経を尖らせ、枯草色を脱ぎ捨てた。
そして、夜闇色に五つの金を輝かせ部屋を出る。
着物はたたみ、小卓の横に置いてある。
玄関の下駄は壊れたままだ。
「悪ィな、大ちゃん。借りるよ」
俺は履き慣れぬ革靴で歩み出した。
靴の中でやたらと足が遊ぶ。
ぎゅうぎゅうと紐で縛り上げるとかろうじて真剣みを持ち前へと進む。
あの男のいう通り、空には月はおろか星さえも輝いていなかった。
光のない黝い空を街灯が照らしている。
ズッ、ズッと靴を引きずる不気味な音が付き纏ってくる。
俺は帽子の鍔の先を一心に見据え、ただただ前を目指した。
今再び、鐘が鳴り響き始めた。




