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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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38/43

八角形の硝子天井

──澱みなき蒼穹、我が憧憬。


八つの刻、かまどの薪は燃えていた。

裏庭では早帰りの詩人気取りが(un)(deux)(trois)と竹刀を振っている。


俺は葱と猪口令糖(チヨコレイト)の混ざり合う強烈な匂いに嘔気(はきけ)を催しつつ、「行って参ります。」とイヨさんに声をかけた。

「なんだって急にそんな……どこ行くんだい?」

「学校。」

俺は振り向きもせず、下宿を出た。


前をゆくセキレイに倣って、足早に。


掃き残しの楓の葉がすれ違う巡査の車輪の下で砕ける。

その音に驚いたか細き(・・・)鳥は姿をくらました。

手本を失くした俺の足はもつれにもつれ、親を探す迷い子の如くすっ転んだ。

夕焼前の黄色い太陽の灯る瓦斯灯を見上げる。

その鋳鉄の柱にすがり立ち上がり振り向けば、紺の詰襟が拳銃(ピストル)構えて追いかけてくるのが見える。

遁走(はし)らねば……!


俺は走った。

幾度となく転んでは起き上がり、肺を吐きそうになりながら走り続けた。


──誰か!

そこの学生(・・)を……!


巡査の口は命令の形を示した。

通行人は皆、同じ顔で同じ服を着て迫り来る。


伸び過ぎた襟足は首筋に黒く波打つ筋を作る。

背を冷え切った汗がつたう。


──やめろ!

この三文字は俺の中のみで鳴る。

揺れぬ声帯、凪の空。


再び向き直り走り出そうとした瞬間、肩に衝撃が走った。

気付けば尻を地に打ちつけた形で身体は固まっている。


外套の裾を踏みつけられている。

万事休す……か。

額に当たる冷たく固い金属。

ああ……俺はここで死ぬのか……


「大丈夫け? え? 朔ちゃんかい? おめえ何してんだ?」

「……大ちゃんかい?」

「見たらわかるべ? こんな男前、俺しかい……」

言い切るが早いか笑うが早いか俺の顔目掛けて飛沫(しぶき)が飛んできた。

抱腹絶倒の舞に勤しむ友を前にしてもなお、俺はまだ虚像(うそ)実像(まこと)の判別ができずにいる。


紺の詰襟は、交番の前で少年に朗らかに敬礼している。

道には赤ん坊をおぶった女や、茶色の犬がいて、ボサボサ頭のバンカラが虚ろな目をして歩いている。


「で、朔ちゃん。何してんだ?」

「学校。学校行くんだ。見ればわかるだろうよ!」

俺は学生帽子を指差した。

「もう終わったとこだど? それにおめえ……」

「なんだい?」

「まあ、うん。」

「なんだ? はっきりしねえか、大ちゃん!」

大ちゃんはやや眉尻を下げた後、小指で鼻を掻いた。


「気にすんでねえよ。んなことより今からおめえんとこ行こうかと……」

大ちゃんが俺に触れるたび、赤や黄色の朽ち果てた葉の破片が地に舞い落ちる。

「おめえ一体どこ通ってきたんだい?」

大ちゃんが俺の帽子のてっぺんを払わんとした時、栴檀の金釦が足りないことに気いた。


俺は釦のないところに触れた。

「大ちゃん、おめえこれ……」

「学校着いて気づいたんだけんど……おめえんとこの下宿出た時はあったから。」


背骨の浮き立つ感覚に、俺は振り向く。

何も、ない。

何もないことが、かえって恐ろしい。


「だから朔ちゃんとこ行こうとしてたんだべ? そしたら急に飛び出してきたもんで!」

「いや、だめだ。大ちゃん。学校だ。まず、学校。」

「んだよ……散々渋ってたのに。なんだい?」


怪訝そうな顔の大ちゃんの背を押し、俺は歩いた。

交番の巡査に敬礼して、とにかく歩いた。


学校の大銀杏はてっぺんまで黄色く染まり、黄金(こがね)の雨を降らせている。

大ちゃんと俺は奥へと進み、研究棟を目指した。

建物の前の藤棚もまた、金色の窓帷(カアテン)のように見える。


「え……」

「ん? どうした?」

「これ、本当に研究棟かい……?」

「何寝ぼけたこと言ってんだ? んだべ? おめえだって小村のおっさんの頃来たんでねえのか?」

「……」

確かあの頃は……

廃墟のような、もっと仄暗い灰色で蔦が絡まって……

外階段を十五段登り、鍵のかかっていない扉を開ける。

「なあ、大ちゃん? ここ鍵かかってないん……」

「いちいちかけないべ?」

大ちゃんのごもっともな言い分に、俺の海馬は完全に信用を失った。


研究棟の中へ足を踏み入れた俺はいよいよ首が一回転しかねないほどである。

「なあ……大ちゃん……? なんだい、このカフェーみてえなのは……」

煉瓦や色硝子で装飾された八角形の天井に俺は狼狽(うろた)えた。

「え? 前からこうだべ?」

「もっとこう、しけてなかったかい?」

「おめえ、適当言ってっと叱られんど?」


適当なことであるものか。

俺は不服の顔で大ちゃんのやや後ろを歩く。


「やべ! 朔ちゃん、こっち!」

「え?」

急に腕を引かれる。

「そこ! そこの隙間入れ! おめえなら入れんべよ!」

「え?」

「ぼさっとすんな!」

まさか、無二の親友と信じて止まぬ男の無慈悲なまでの蹴りを喰らうことになるとは。


「……なんだってこんな……」

「シッ!」

大ちゃんは極めて真剣な顔で人差し指を唇の前に立てた。

彼の目は揺るぎなく一点を見つめている。

俺の研究棟にまつわる記憶がおかしいのはさておき、他の学生たちが平然と歩いている中で大ちゃんはなぜこんなにも怯えているのだろう。

そしてなぜ俺を隠して自分は……

ん?

自分は壁と一体化しているのだろう。


ともすればやはり俺は小村教授を……?

この建物の外観や内部構造は俺の妄想が見せた虚像(うそ)であったとて、ここにまつわる血生臭い記憶のみ真実(まこと)なのか?


何もわからないのだ。

その実、俺は小村教授に対し特段なんらかの思い入れがあったわけではない。

彼の研究に関しても、彼自身に関しても。

第一に教授に関して思い出せるのはぶっかく前のぶっかき氷ほど分厚い眼鏡と藤の花について語る声だけだ。

どうしたって顔だけが出てこない。


俺は人の脚の高さの視点から、青緑の背広に中折れ帽の男の横顔を見た。

大ちゃんの身体が壁にめり込みそうなほど下がり、拳が震えている。

「大ちゃん……?」

「アオミドロだ……!」

「アオ……?」

「おめえ忘れたのか?」


思い出した。

あの日、俺の名を読み上げなかった男だ。

それ以上でもそれ以下でもない。


「なんかされたのかい?」

「いんや? ただあいつが嫌いなだけだ。」

「またどうしたって……」

「とにかく嫌いなだけだ。」


アオミドロはくるりと向きを変え、俺たちのいるのとは反対へと向かっていった。


大ちゃんがふうと安堵の息を吐く。

俺は尻をさすりつつ、大ちゃんの脚の間をくぐり立ち上がった。


俺はまた八角形の天井を見上げた。

吸い込まれそうで恐ろしい。


「馬鹿! 朔ちゃん来い!」


俺の右腕はちぎれかけた。

再び身を潜めれば、冷えた靴底の音が脳の奥で響く。


大ちゃんの震えの後ろで俺はまだ、記憶と現実との対照(コントラスト)に混乱しているのだった。

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