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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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37/43

血と塩、そして蘇る黒衣

俺はもう解放されているはずだった。


あの黒衣(くろごろも)の男はとうに去り、散々俺を苦しめたおぞましい黝の瞳の檻も消え失せた。


それが今はどうだ。

ひっきりなしに煙草をふかす放埒(ほうらつ)野郎にがっしりと肩を組まれ、奴の吐き出す重苦しいタールに肺を犯されている。

浅い咳がとめどなく溢れ、呼吸を乱している。


下劣な煙のお縄より、あの檻の方がよっぽど上等だったなどと被虐狂(マゾヒズム)的な感情が芽生えため息をついた。


新たなる我が看守は相当に(いとま)を持て余しているらしく、女子(おなご)が通れば

「ほれ、おめえどんな女が好きだ? ああいうのはどうだ?」

と色めき立ち、小指を立てては、

「こっちの方はどうなってんだ? 間に合ってんのか?」

とにやつき鼻息を荒げている。


「ああ……だから結構だよ!」

俺は肩に回された腕を振り解き、煙の(うず)から逃げ出した。


それでもこの男は性懲りも無く俺の右や左や前、後ろで油を売っている。

そもそも俺はこの男に鐚一文(びたいちもん)くれてやるつもりはないのだから、商売上がったりだろう。


しかしながらこの男、なにやら商売人ではあるらしいが如何様(いかよう)にして食い繋いでいるのかは全くもって謎なのだ。

ひねもす煙草をふかしては道ゆく女を眺めている。

そうかと思えばよもすがら、奴の部屋の障子からは煌々と灯る燈が漏れ()で、中では人影が崩れていたりなんかする。


そして時折洋装でめかしこみ、(ステッキ)を器用に回して出掛けていくこともある。

どこまでも胡散臭く、それ以上に煙草臭い男なのだ。


俺の咽せ込みになど構いもせず、親父は俺の顔めがけて煙を吹く。


「おめえは俺から油を買う。んで、その油をおめえさんがまた誰かに売る。どうだ? いい商売じゃねえか?」

「ああ……」

俺は箒ごと腕を組み、一利、いや七利(しちり)程はあるやもしれぬと小刻みに頷いた。



──ドスッ!


「ううっ……」

鈍い音がして、直前まで滔々(とうとう)と捲し立てていた親父がうずくまっている。

事態が飲み込めない俺は男の肩を抱き、恐る恐る振り向かんとした。

首を半分ほど回したところで、

「ほれ! 純粋な若者をそそのかすんじゃないよ、このたぬき親父!」

とイヨさんの威勢のいい声が男の脳天をぶん殴った。


「朔ちゃん! あんたもあんたですぐ人を信じるんでないよ! 見る目がないねェ!」

不意打ちで俺は額を引っ叩かれた。

(いって)ェな! 何も引っ叩くことねえだろ!」

「そうだ、おめえもっと人を疑わねえとな!」

今度は男が俺の脇腹の小突く。

素っ頓狂な声と共に仰け反った俺を見て奴は大笑いしている。

その拍子に男の口から落っこちた煙草を草履の底ですり潰してやった。

「ああ! おめえ、やりやがったな?」

俺は右の口角だけ上げて鼻で笑った。


やれやれ、といった表情(かお)でイヨさんは俺たちを眺め下ろしている。

朝のまま、紅の残る唇がいやに妖艶に見えた。


草履の下では親父の口から落ちた煙草が(くすぶ)り続けている。

その鈍く立ち昇る残煙に肺を灼かれ、俺は浅く咳をした。


──グゥ……

腹の虫が朗らかに鳴く。


──グルル……

もう一匹の虫は咆吼した。


先程までいがみ合っていた俺と親父は密かに視線をぶつけ、噛み潰した笑いを腹の虫に食わせている。

指で一だの二だのを作っては互いを指さすなどしていた。


──グルル……

親父は腹をさすりやや恥じらいつつにじり寄ってきた。

何やらしきりに指を隠しつ立てつしている。

要領を得ない俺は負けじとしきりに首を右に左に傾げた。

「馬鹿、落ち着け!」

「誰が馬鹿だ、クソ親父!」

「おめえまたそうやって可愛い顔してひでぇこと言う……」

「あ?」


傾げた首をぎしぎしと元の位置に戻し、親父の黄ばんだ爪の向く先をたどった。

イヨさんの胸の辺りに行き着く。


「んだよ、おめえイヨさんに手ェ出したら……」

俺は小声ですごむ。

「お、朔太郎(さくたろう)! やっぱりおめェああいうのが好みかい?」

親父は大きめの小声で返してくる。

「あ? それから朔太郎でねえ! 朔也(さくや)だ!」

「サクラ?」

「サクヤ!」


俺の咆吼が虫の叫びを打ち消した。


「ありゃあ麻布のたい焼きだろうよ……」

「え?」

「イヨちゃん持ってんの。あれ、麻布のたい焼き……」


──まるでそれは残酷な輪唱のやうでした。

僕が先に歌います。

いつの間にやら追いつき、追い越され。

やがて僕は、絶唱してしまうでせう。


「何ブツブツ言ってんだい? 朔ちゃん、お土産だ。あんたこれ、好きだろ?」

イヨさんは腰をかがめ、俺の顔の前で紙袋を開いて見せた。

ふわっと温かな甘い匂いが漂ってくる。

袋の中には羽根を生やした二匹の勇猛な鯛の背が見えた。


途端に横から親父の手が伸びてくる。

ピシャリ!

と音がして、黄ばみの爪は縮こまっている。


「あんたのはあるわけないだろ!」

イヨさんが吼える。

「あるわけないだろ!」

俺はとりあえず便乗した。

「ケチ臭えな、朔太郎(さくたろう)は!」

ふてくされた親父はむくれっつらで火のついていない煙草を口端(くちば)に挟み恨めしく言葉を吐き捨てた。

「朔太郎でねえ! 朔也(さくや)だ! 良い加減覚えやがれ!」

「朔也も朔太郎も変わんねえや……どっちもとんでもねえ野郎だ……」

むくれっつらは急激にしぼみ、哀愁を漂わせながらマッチを擦る。

真ん中から折れて、赤い頭薬が転がった。


なんだか突然、親父が不憫に思えた。

だからというわけではないが俺は、たい焼きを半分にちぎり空にかざす。


ああ……たい焼きが青空を泳いでいる。

はち切れた腹すらいとおしい。


「ん。」

俺は空を見つめたまま、男にたい焼きの半身(はんみ)を差し出した。

「いいのかい?」

「ん。」

「ありがとよ!」


親父が突然、抱きついてきて俺の頭を撫で回した。

「んだよ! 気色悪い!」

慌てて立ち上がったが一向にやめる気配がない。

イヨさんもゲラゲラ笑うばかりで止めてくれない。


「でっかくなったな、朔也。」

「はあ? おめえでっかくなった後しか知らねえだろうよ。」

「ああ……知らない。」


かじる契機(きっかけ)を奪われたたい焼きはすっかり冷めきっている。

いざ、食わんと大口を開けた途端、

「うんめえ!」

と男が叫んだ。

そして、あろうことが俺のたい焼きまで食おうとしている。

強欲な親父だ。

俺は身体を翻し、これ見よがしに一口でたい焼きを詰め込んだ。

男は悔しげに拳を大体の横で震わしている。


「でっかい子どもが二人もいるねえ! おお、いやだ……」

イヨさんは小蠅(こばえ)を払うような手つきで顔前の空を切った。


「ああそういやあ……」

親父は思い立ったように切り出す。

「さっき平八郎より男前なのが来た、なあ?」

「……」

「おめえの知り合いだろ? いやに親密だったでねえか!」

「なんだい、朔ちゃん! 平八郎が来たら何がなんでも留めといてくれっていったじゃないか!」

「あ……いやその……」

「イヨちゃん、平八郎じゃあなかったんだ。平八郎より男前……」

より(・・)だったらなおのことだよ!」

「ほれ、こいつんとこの学生服より上品なの着てたな! ありゃあどこだっけかな……」

「ああ……もしかしてあの子かい? あの背が高くて、髪が真っ直ぐの……」

「切長の目だったな?」


息が吐けない。

膨らみ続ける肺と、脳を蛆に喰い荒らされていく感覚。

久しぶりだ……

心臓は冷静に拍動を繰り返しながら送り出す血潮の温度だけを高めていく。


俺は土間へと駆けた。

そして、塩の入った瓶をつかみ再び下宿前の道へと飛び出す。


蓋を放り投げたところでイヨさんが叫ぶ。

「やめないか朔ちゃん! 勿体無い!」

言うが早いか俺は塩を掴んでいる。


「……っ!」

閃光が飛び散るような痛みに俺はその場でうずくまった。

そしてそれはじわり、じわりと浸食されるかの如き疼きに変わる。


親父は塩の瓶に蓋を乗せている。

イヨさんは俺の背をさすっている。


二人はそれ以上、何も言わなかった。

俺は何も言えなかった。


塩は瓶に入って土間で平然としている。

イヨさんは指の傷に布を巻きつつ麻布の道には蛾が落っこちてないとか、たい焼きを買った店の前のなんとかって花が綺麗だったとかそんなような話をしてくれた。


部屋に戻ると、すっかり埃をかぶっている栴檀の黒衣を引っ張り出した。


俺はするすると枯草色の着物を脱いでいく。

詰襟の金釦をかける指がぎこちない。

それでも最後、学生帽子を目深にかぶるとそこには間違いなくあの頃となんら変わらない自分がいるのだった。


途端に笑いがこみ上げてきた。

なんの笑いなのか、それは俺にもわからない。


笑うのに合わせてずり落ちる洋袴をベルトで締め上げる。


異様なまでに、外套は重くのしかかる。

ささくれ立つ畳に手をつき、肩で息をする。

小卓の前に貼った暦を横目で睨みつけた。


飯沼(いいぬま)……」


特段、変化はない。


「飯沼……」


唇が引き攣った。


大丈夫だ。

俺は大丈夫だ。


窓から差し込む光が妙に強く感じた。


俺は黒衣のまま、途切れ途切れに呼吸を繰り返しているのだった。

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