黝き青年看守
その黝き瞳の青年は、さながら優秀な看守のようだった。
微笑みながら鎖を引く。
あまりに酷たらしい監視の眼。
冷たく重い鉄格子越しに俺はその網膜に捕えられている。
──飯沼太一。
奴の影を前に、俺はしゃがみ込んだ姿勢のまま動けずにいる。
望まぬ無抵抗とでも言えば少しは聴こえがいいのかもしれない。
その実、恐ろしくてたまらないのだ。
骨が軋み、関節の全てが外されていく。
瞳を開けたまま、解体されるかのような恐怖。
指先の傷を口に含んだまま、俺は奴を見上げている。
「ひどいじゃないですか。僕、何度も手紙を出したんですよ。ただの一度だって、君は返してはくれない。」
太陽を背に、飯沼の影は闇を強くする。
黝を鈍く磨いた瞳が俺を見下ろしている。
言葉とは裏腹にその瞳は一切の感情を宿すことはない。
そうだ。
俺はこの男をできる限り遠ざけてきた。
「でもよかったです。読んではくれていたようで。」
飯沼は緩やかに腰を下ろす。
「でなければこんな目で僕をみるはずがない。」
小さな子どもをあやすみたいに小首を傾げると、俺の網膜の奥の方を抉るように覗き込みつつ囁いた。
「可哀想に。」
ふいに背に手が回り、奴の金釦が肩にめり込んだ。
膝立ちになった身体にはもう、自由は残されていない。
俺の慄えを愉しむかの如く、飯沼は動かない。
「臆病者……」
言葉の形の吐息で鼓膜を撫でる。
吐き出したい思いだけが喉の奥で渦巻いている。
ただそれはもう、文字でも声でもなく、音にすらなれない。
睫毛に触れそうな位置でか弱き草の芽が揺れる。
焦点が合わず、均衡を無くした身体を罰するが如く飯沼は俺の前髪を掴んだ。
顎は上がり、傷の指先は唇を離れ、地をなぞる。
「見ろ……よく見ろ……」
不気味に上がっていく右の口角。
その輪郭を捉えようとすればするほど、全てがわからなくなる。
揺らめく緑色らしきものの背後の、真っ黒な瞳にばかり焦点があってしまう。
「栴檀です。いいえ、正確には栴檀草といいます。」
根に絡む土をはらい、飯沼は続ける。
「この草はしつこい。ひとたび芽吹けばあとはもう無尽蔵に大地を食い荒らす。とてつもなく下劣で強かだ。」
奴は顎をひき、試すような目で続ける。
「上原朔也。君は栴檀を脱ぎ捨てたつもりだろう? そう簡単に逃すほどあれは甘くないんだよ。そうだ……」
奴は指先で草を地面に落とし、靴の底でにじり潰した。
そして学生服の右の衣袋からおもむろに金色の釦を取り出す。
黄黒く汚れた指先で、自分の桜の金釦の隣にそれを並べた。
「……栴檀?」
唇は冷え切っている。
「ええ。」
違う……訊きたいのはそんなことではない。
なぜ……なぜお前が……それを……?
俺を慄えさせていた怯えは途端に怒りに変貌した。
「ならば散れ。栴檀の毒の唾、鵯の口移しで枯れ果……」
前髪を掴む指の力が急激に強まる。
「黙れ……」
ある、この男にも感情が。
俺は確信した。
「桜など枯れ腐……」
「黙れ!」
まるで中空で弧を描くかのように仰け反る身体。
そして程なくして墜落する撃たれし鳥。
地面に打ち付けられた俺はその身を、頭を、起こさんとする。
飯沼は手を払っている。
はらはらと風に流れているのは俺の前髪だろう。
「よいしょ……」
飯沼はおもむろに腰を上げる。
そして俺の手を取り、そのまま引き上げた。
立ち上がった途端、目眩に襲われる。
明滅し、途切れ途切れの意識を指先の疼きが繋ぎ止めた。
「痛みますか?」
声を荒げたあの飯沼は淡い希望が見せた幻覚か?
何事もなかったかのように、俺の左手を包み込んでいる。
残酷なまでに優しく。
奴の瞳が捉えているのは紛れもなく、拍動ごとに真紅をこぼす指の傷である。
「気をつけないと。君はすぐ無茶をする。」
飯沼は微笑みを浮かべ、俺の指先をぎりぎりと絞り上げていく。
破壊されていく血潮の道。
その残骸で傷は裂け拡がっていく。
鮮やかな紅は黒に変わりながら肌を伝う。
奴の瞳が動脈をなぞる。
身体の熱が急激に奪われていく感覚に、俺は吹雪の幻覚を見る。
やがてその核心部を黝い視線が貫いた。
心室が身悶える。
苦しい……
臓器のもがきは四肢へと投影される。
しかし、俺の足はあの磨き上げられた革靴の底で痛ぶられている。
あがなえば、よからぬ妄想の通りに瞳を開けたままこの身は解体されてしまうかもしれない。
なぜだろう。
今はそれもまた一興、とは思えないのだ。
なぜだ。
なぜ、「生」を渇望している。
なぜだ。
奴はそれを見透かしたように、容赦なく瞳の黝を網膜に注ぎ込んでくる。
「生」を諦めさせるような黝を。
いやだ……
いやだ……
もう俺の虹彩は模様を失い、黒く沈んでしまったような気がする。
今自分が立っているのか、座っているのか、はたまた眠っているのかすらわからない。
「上原君。いや……朔さん。」
飯沼はやや遠い目をしている。
俺はつい、この男の目線の行く先を辿っていた。
行き交う人々。
皆、顔に笑顔を貼り付けて足早に過ぎる。
ざわざわと人の声や風、虫の音が聴こえているのに、飯沼の声だけが際立って響く。
「あの茶屋、今ちょうど栗ぜんざいを売っているでしょう?」
「え……?」
「いやだな、朔さん。桜の頃に、散々二人で行ったじゃないですか……。あの茶屋ですよ。」
「あ……ああ。」
「朔さんは決まってあんみつだ。それも、あんこは僕の団子の上に乗せてしまって。黒蜜も僕によこした。透明な寒天が黒く染まることを嫌って。」
飯沼は記憶を愛しむかのように続ける。
「僕もつい、通い詰めてしまって。」
「え?」
「少し、きついんですよ。」
わざとらしく洋袴を引き上げて見せる。
「それにしたって、ひどいじゃないですか。近頃は森田君……森田大助君。ほら、大ちゃんでしたっけ? もっぱら彼とばかり遊んで。」
わずかに嫉妬を含ませた、幼なげな表情を見せる。
「君たちが楽しそうに笑うのを、僕は見ていましたよ。あんこの乗っていない三色団子を食べながら、ね。」
「え……?」
通い詰める、というほど俺は甘味で脳を蕩かしていただろうか。
いよいよ砂糖と脳が心中してしまったのだろうか。
「とぼけないでくださいよ。僕との約束、お忘れですか?」
……約束?
「毎週火曜日、かならずここで会おうって。でもたまにはカフェーもいいんじゃないかって。」
わからない。
俺はこの男の存在を自分の中でひた隠しにしてきた。
きっと記憶ごと。
思い出せない……
飯沼は小さく笑い、こう付け足した。
「来週の火曜、栗ぜんざい、ごちそうしますよ。」
「いや俺は……」
「では、いつもの茶店で。学校終わりに。」
飯沼の背を見送る。
その姿が小さくなり始め、俺は安堵の息を吐く。
瞬間奴は振り向いた。
思わず身構えた。
しかし、その男は不自然なまでに整った黒衣で手を振る。
笑顔には邪悪などひとかけらもない。
そして、一礼し再び背を向け歩き始めた。
──ゲホッゲホッ……
仄黒いタールの匂いに思わず咽せた。
涙の皮膜で幻影のように崩れる飯沼の実像。
「ありゃあ平八郎にも負けねェ男前だな!」
斜向かいの家の親父が煙草臭い言葉を吸わせにくる。
肩に回された腕が鬱陶しい。
奴の背はどんどん小さくなる。
「おめえ見惚れてたんでねえのか、そんな……」
親父のしょうもない戯言も消えかけている。
指先の疼きがひどい。
さして大きな傷でもないのに。
ドク、ドクと拍動を続ける。
まるで自らその血を搾り出すかの如く。
乾いた土の上に一滴。
また一滴。
渇きを潤すように、あのおぞましい瞳の色が滴り地を穿つ。
俺はその血が吸い込まれていくのをただ恍惚と眺めていた。
飯沼の姿はもう見えなくて、今は何があったのかすら思い出せない。
俺はまたしゃがんだ姿勢で地面に沈む木犀の香を嗅いでいる。
それは甘く、気怠い、「生」の気力を奪う匂いだった。




