冷えたる朝陽、毒の影
秋の朝、ひんやりとした朝陽をもいだ。
ようやく東の空が白み始めた刻のこと。
鈍銀の盥の水は藍色で、月は風に吹かれ歪んでいる。
勤勉な学生どもの袖は透き通り、竹刀振る声は小鳥を起こす。
夜半、霧雨の降る音を聴いた。
ほとんどは大ちゃんの轟くいびににかき消されたが、庇の色がまだらだから、あれは聴き間違いではなかったのだろう。
襷がけを忘れた枯草色の袖で、もいだばかりの柿の実を磨く。
夜との別れを惜しむ月を、潤朱の釣鐘で隠せばたちまち街に朝が来る。
冷えたる暖の色が蒼ざめた唇の熱を奪う。
月を睨み、その色をかじれば砕けながら歯ごと舌を鈍らせる。
……毒だ。
「何て顔してんだい、朔ちゃん! ……またかい? いつになったら覚えんだ! そこのは渋柿だよ!」
イヨさんが裏庭に突き刺した葱を引き抜いて、まるで教師の如く柿の木を指してがなる。
顔を洗っていた絵描きの学生は袖を絞りながら寄ってきて、「文士様は食いしん坊だね。」と濡れ前髪から飛沫を飛ばして笑った。
法曹のなり損ないだけは曲がり眼鏡のまま、どこ吹く風と空を斬り続けている。
すっかり痺れ、縮こまった舌を噛み、空を向くと本物の潤朱の朝陽が裏庭の釣鐘の色を奪う。
静謐なる雨で浄められたる空の藍は朱と交わり、白となり、やがて薄青へと変わる。
毒の断面は痛々しい歯形に沿って煌めく。
悪食の鵯すら寄り付かぬ釣鐘の実を、俺は涙と共に飲み込んだ。
──胸が痛い。
俺は高台の欠けたところに中指を引っ掛け飯を食っている。
隣では大ちゃんが沢庵をバリバリと噛みながら大笑いしている。
大口を開け米を詰め込んだ大ちゃんは、もごもごと何か言いたげだがいかんせん「はふ、はふ」としか聴こえない。
無用の空也と化す彼の口からは六粒の米がこぼれ落ちた。
「口に入ってる時に喋るんでねえよ! 大ちゃん、おめえそれ父ちゃんか母ちゃんに教わってないのかい?」
大きく喉を鳴らし米を嚥下した大ちゃんは不敵な笑みを浮かべ、
「甘ェよ……朔ちゃん。」
と言うと、「おめえ、俺の家族言ってみろ!」などと試験官にでもなったつもりで腕を組む。
俺は大ちゃんの話を思い出している。
確か餅っこを詰まらすおじじ様と、酔っ払って骨折るおじじ様と……弟と……
「ほい!」
左腕を小突かれそちらを向けば、切羽詰まった栗鼠の如く両頬を膨らませた大ちゃんがまた何か言おうとしている。
「食うか喋るかどっちかにしねえか!」
俺の茶碗の米は一向に減らず、なんなら増えている気さえしてきた。
大ちゃんはゲフと一発かましてから厳かに語り始める。
「餅っこ詰まらすおじじと酔っ払て骨折るおじじは同じおじじだ。」
……ん?
「おめえな、ブツブツ言ってんの聴こえてっからの。」
「……」
「だから、餅っこ骨折れじじいと親父、お袋、兄貴、弟が二人だ。」
いけない。
俺は茶碗をひっくり返し、両手で喉を掻き毟る。
おかしなところで米の粒が遊牧し、激しく咽せ込んだ。
肺に触覚などあってたまるか、と俺はもがく中で叫びつつ、左肺底に三粒、右肺の上がりに二粒吹き飛ばされていて、左の肺の真ん中あたりに一粒……
咽せが鎮まると今度は血の気が引いていく。
「おめえのせいだぞ……大ちゃん。」
「へ?」
大ちゃんは己の大罪にも気付かず、「おめえ大丈夫け?」などと蒼白と化しているであろう俺の顔に話しかけてくる。
「餅っこ骨折れじじいって、おめえ……」
俺は自分で繰り返しておいて耐えられず、長卓に突っ伏した。
相変わらずの大ちゃんはずずっと味噌汁をすすると、
「口に入ってる時に喋るんでねえって俺に教えたのは……」
もったいつけて途中で押し黙る。
今度は沢庵を口に放り込んでから、はっきりと言った。
「弟だ!」
おいおい、大ちゃん。
おめえは弟の助言を無碍にするのかい?
「んだよ、そんな目ェで見るんでねえ!」
どうにも今朝は言葉が上手く出ないのだ。
頭では文字どもが隊列をなして勇ましく並んでいるというのに、どうにも堅固な門の前でこれまた頑固な門番が愚直に頑張ってやがる。
そのくせ耳の方はアバズレが如くなんだって受け入れるものだから真面目腐った文字の兵隊だって誘惑に負けたくもなっているだろう。
とはいえ有難いことに門は堅固、門番は頑固、そして職務は適切に遂行、この下品な例え話すらこの痺れ舌からは滑り落ちることはない。
滑り落ちることはない。
「あ……」
「なんだべ朔ちゃん。」
俺は朝陽を思い出していた。
小梅の漬けたのを茶碗の真ん中に置く。
「なんでもねえ。遅刻すっぞ大ちゃん。今日はあのアオミドロの日でねえか。」
大ちゃんは、チッと舌を打ち鳴らし残りの飯を胃に押し込むと、あっという間に道の自転車乗りを蹴散らして韋駄天の如く駆けていった。
俺は学生たちを全部見送った後、残り三口の米を食い、ふっと息をつく。
空になった皿やら鉢やら椀やらを眺めている。
胃には錘、声なき子守唄にこの身は毒されている。
毒を払うように咳払いを三つして盥に椀を沈めにいった。
──ちゃぽん……
──ゴボ……
「朔ちゃん! 朔ちゃん! いるかい?」
俺は箒片手にまた草を抜いていた。
イヨさんは何か他所行きの気取った着物で唇には紅なんかを差している。
少々目を合わせるのが小っ恥ずかしく、引っこ抜いた草をすり潰しながら「ん?」とだけ声を出した。
「ちょっとばかし、出かける用ができたからね。あとは頼むよ。まあお客なんかはこないと思うけど……」
どうにもいつもより柔らかな口調で俺は拍子抜けしつつも悪くねえな、と鼻の横を掻いた。
例の草が匂う。
「ああ。でも平八郎が来たら留め置いておくれよ? 失礼のないようにね!」
「んだよ! 平八郎なんか来やしねえよ!」
「来るかもしれないだろう?」
一体俺は何をむきになっているのやら。
「さっさと行け!」
訳の分からないまま俺はイヨさんに背を向けてまた草を抜き始めた。
イヨさんにはもちろん罪はないし、平八郎が憎いわけでもない。
ただ出所の分からぬ心の臓の輪郭を撫でられるような苛立ちを覚えていた。
「……痛ェ。」
あの錆針の尖で突いた傷が開いたらしい。
草の芽で黄黒く染まった指先から、鮮紅が溢れては黒く変わることを繰り返している。
べたべたと饐えた匂いをまとう指先を躊躇い混じりに咥えた。
思わずえずく。
すると背後から伸びた影が、俺の身体を隠した。
「それ……全部抜くつもりですか?」
聴き覚えのある声だ。
心臓の輪郭を撫でられるような感覚に襲われる。
どうにも身体が動かない。
ズッ、ズッと靴を擦るような音がする。
磨かれた革靴が俺の左後ろから進んできた。
そして靴のつま先は俺の剥き出しの足趾と向き合って止まる。
指の疼きを咥えたままの俺の目にはしわひとつない黒の洋袴が映っている。
そして桜の花の金釦が一つ……
──肺が上ずる。
二つ……
──息が吐けない。
三つ……
──膨らみ続ける肺が震える。
四つ……
──膨らみすぎた肺は心臓を潰す。
五つ……
──言葉にならない声は、途切れ途切れの喘ぎのように漏れ始める。
穏やかな笑顔が太陽を隠している。
俺はまるで、警戒音を発せないか弱き小鳥の如く細切れに息を吐き出し続ける。
向かいの家の庭から、甘柿をついばんだ鵯が飛び立った。
俺はまだ指を咥えたまま、影に隠され震えている。
襷の結がほどけるのにも気付かずに。




