文士様の針仕事
──西陽に染まる青柿が甘い、甘いと嘯いて、無垢な小鳥を騙しておろう。
冷えたる木犀の香、黄金に輝く狭き部屋。
青年どもは色を違へて笑い合う。
西陽で温まった畳に腰を下ろし、襷を解いた。
「だども朔ちゃん。おめえ、それでいいのけ?」
大ちゃんは、部屋の隅で薄埃を鈍らせている俺の学帽をはたきながら言った。
「仕方なかろう? 今更何か言ったところで……」
軽くため息をつく俺の頭にはくたびれた黒い帽子が乗せられている。
鍔を下げ、やや上眼に微笑んでみる。
「どうだい? まだ似合ってるかい?」
「おう! それでこそ我らが上原だの!」
「なんだい、それ?」
「知らね、今考えた!」
大ちゃんは帽子ごと俺の頭を撫でた。
どうにも彼は時折俺を息子だか弟だかのように扱うが、一体どういう了見なのだろう。
右に傾ぐ影はそのままに、「適当言うんでねえよ。」とたしなめておいた。
「だけんど、家の人らには遅かれ早かれ言わねばならねえよ?」
「ああ。」
解いた襷を左手首に巻き付けてはほどき、ほどいては巻き付けることを繰り返す。
「手紙、出せ?」
「ああ。」
少し、幼少の時分を思い出していた。
正確には特段何も浮かばず、ただ焦点を違え窓の外の西陽をぼかし見ていたに過ぎない。
「朔ちゃん? おめえ人の話……」
大ちゃんが右肩を掴んだ。
心ここに在らずとはよく言ったものだが、俺ときたら心のみならず身体の均衡も失っていたらしい。
沈みゆく太陽が足の方へとすっ飛んでいった。
「なあ大ちゃん……」
「あ?」
「おめえこれ……栴檀ひっくり返ってんな。」
「あ?」
俺は肘をついてわずかに上体を起こし、大ちゃんの学生服の上から二番目の釦をつまんだ。
「脱げ。」
「え?」
「脱げ。」
二番目、三番目と右の指で解放する。
依然として身の重みを俺に預けきっている大ちゃんの表情はうかがいしれない。
釦がひとつ外れる度に俺の腹を潰す圧力が増していく。
四……五……
最後のひとつ、一番上の釦に指をかけたところで大ちゃんは一気に身体を起こす。
「これで満足かい? このスケコマシが……」
未だかつて聴いたことのない酷たらしい声だった。
そして今まさに俺の腹の上で首元の釦を外さんとしている。
「その前にどけ……」
腹の上と部屋の空気の重さとの均衡が均一となった刻、大ちゃんが烈火の如く笑い始めた。
「何だべ、これ! 今のは谷崎に見せてやりたかったな!」
「どけ……」
大ちゃんはしばらく谷崎、谷崎と大騒ぎしていた。
ようやく身体を起こした大ちゃんは白シャツの背を西陽の橙に染めて、ささくれ立った畳の上に座っている。
部屋の気温はわずかに下がってきたように感じられる。
「なあ、朔ちゃん。おめえほんとに直せんのかい?」
「任せろ……」
俺は腹をさすりつつ答えた。
「そしたら俺、イヨさんにアレ、借りてくっから。」
「アレ? アレってなんだべ?」
「アレはアレだ! アレ!」
なぜか言葉が出なかった。
頭にはしっかりと銀色で頭のところに頭の空いた細い尖ったものと、厚紙に巻かれた細長い紐の画が浮かんでいるのに。
「で、部屋ん中のもんいじるんでねえよ?」
「なんだい、朔ちゃん。おめえ見られてまずいもんでもあんのけ?」
「いんや? 別に……」
「なんだべ? 言うてみ?」
「なんもねえよ!」
「何をそんなむきになってんだい? なんも俺、おめえの正体が蛾ァだとか閻魔の息子だァとか言われてもなんも思わねえど?」
大ちゃんの比喩はいよいよ雑を極めていく。
「おめえだって見られてまずいもんくらいあるだろうよ!」
「そりゃあ、ある!」
「スマコとか!」
「スマコはそんないかがわしいもんでねえよ!」
俺は小卓の上がひたすらに気がかりだった。
扉を閉め切る間際までその隙間を睨みつけ、閉めた後も何も後ろ歩きを続ける。
「っぶね!」
踵が階段を踏み抜きかける。
ちょっとした悪戯心で部屋の扉を勢いよく開けてみた。
大ちゃんは袋の中の豆大福を覗き込んでいるところだった。
「ひでえや朔ちゃん! そんなに俺が信用できねえか!」
「あ……いや……」
俺が言い淀んだのは、自身のあまりの浅はかさに瞬間絶望したからだ。
「ごめん……」
「んだよ、冗談だ! おめえだめだど? 俺ごときの演技くれえ見抜けねえと。」
「うるせえや!」
明るく言ってのける大ちゃんに、俺は謝ったり強がったり忙しかった。
「なんだべ、朔ちゃん。ご機嫌斜めでねえか。」
何も答えなかった。
答えられなかった。
名前の思い出せなかった「アレ」を借りに階段を降りる。
「イヨさん! アレ、貸して!」
「アレってなんだい?」
しばらく立ち尽くしていた。
「それよりあんた……」
「あ……」
「いいよ、その代わり……」
イヨさんは土間の鍋に目をやり、縁側の先の物干に目をやり、最後部屋をぐるりと眺めてから、
「まあ、いいよ! せっかく大ちゃん来てんだ。」
と言う。
「いんや、だめだ。皿は任せろ!」
「いやだよ、朔ちゃん! あんたに任せたら明日には歯っ欠け婆婆だらけになっちまうよ!」
「言ったな? イヨさん、まだ俺を認めねえんだな?」
「お天道さんが腐ったって認めてやんないよ!」
イヨさんがブッと笑いを爆発させた。
「自分で言って自分で笑うんでねえよ!」
俺もつられて笑う。
そして、イヨさんは木箱を漁り
「ほれ!」と何かを差し出す。
「え?」
「なんだい? 見当違いだったかい?」
「あ、いや……」
「朔ちゃん、あんた騙されやすいだろ? 気をつけな! 頭ん中のことが手に出るんだよ。全部!」
「ああ……」
「今、真っ白だろ?」
図星を突かれ、へなへなと階段へ向かう俺の背中を
「ほれ! しっかりしんしゃい!」というイヨさんの言葉がグイと押す。
階段を踏む俺の手には、針山に刺さった縫い針と木綿の黒糸、それから糸切り鋏が乗っている。
部屋へ戻ると、甘い匂いが漂っていた。
「朔ちゃんすまねえ、あんまりにも遅ェもんで……」
口いっぱいに好物を頬張っている。
右手には食いかけの大福。
そして、左手で薄汚れた封筒をひらつかせている。
「大ちゃん……おめえ、やりやがったな……」
俺は立ったまま渾身の冷酷な視線で見下ろす。
大ちゃんは腕で口を押さえ、大きな音を立て飲み下す。
そして封筒の裏をまじまじと眺めて言った。
「おめえ、気をつけろ。こりゃあ男の字だど?」
──長田桜
「ほお?」
「まあいいべ? 恋文の一通や二通、痛くも痒くもねえべ? おめえにはいっぱいいるだろうよ、これが!」
大ちゃんは小指を立て意地悪く笑う。
「またスケコマシかい!」
「自分で言うんでねえよ!」
取っ組み合う気力はなく、俺はもう大ちゃんの学生服の釦付けに取りかかっていた。
針穴を黒い糸がくぐると大ちゃんは、嘆息した。
「おめえ、なかなか器用でねえか!」
だろう?と言いたいところだが、あいにく餌付けされた大福に口の中を占領されている。
ふご、ふごと妙な音が漏れるのみ。
すると大ちゃんはおもむろに文芸誌を開いて叫んだ。
「ほれ、見てみろ!」
見ればそこには俺の詩と名が記されている。
──面影分かつ少年へ百の空蝉を与ふ。小窓に釘打ち、空取り上げて我は叫ぶ
この釘にて、我が手掌を打て!
光を嫌い、愛を疎み、夢を忌む。
砕け舞ひ散る、濡れし翼よ……
「朔ちゃん、こりゃあいい。人間の汚ねえとこ……」
声にならない声で「やめろ」と言った。
「ん? 照れてんのけ?」
俺は大いにうなずいた。
「なんだべ、あんまり素直だとかえって気色悪ィな!」
ようやく大福を飲み込むと、俺は恨めしく問いかけた。
「おめえ……忘れたのか……?」
「ん?」
「とぼけるんでねえ!」
「あんまり褒められると俺……」
「身体中ナメクジが這うんだべ?」
「わかってん……」
「特に、左腿の裏!」
「わかってんならやめろ? 人が悪ィぞ、大ちゃん。」
「特にこの夢を忌……」
俺が足の裏を畳に擦り付けたのを見てやっと大ちゃんの言葉は止まった。
そして再び俺の口の中は豆大福で満たされている。
──打つ背に宿る栴檀よ 胸にたたえし栴檀よ
俺は大ちゃんの学生服の釦の向きを見る。
栴檀の実は勇ましく襟元へ伸びている。
──気高き文士の口元に
漂う薄紅、薄黄金
針は往来し、黒糸は栴檀を捕らえている。
──芒の撫でる夢の枠
秋桜咲き果て泪する
喉が詰まるのは大福のせいだろうか……?
──転げ落ちたるその先で
笑へ笑へや黒衣
針で指を突いた。
思いの外、深く。
──詠ひ詠へや黒衣
指先で紅は黒く色を変えながら球となる。
拍動は胸を去り、傷口へと宿る。
舌の上に広がる鉄と餡。
視線の合わぬ友は恍惚とし、唇は緩みきっている。
西陽は去り、冷えた畳の上ぽたりと音を立てたのは一体何色だったのだろう。
──飯沼太一
指先から熱が失われていく。
脳は真空に閉じ込められてしまう。
薄暗い部屋で、恍惚と絶望とが混じり合っている。
空はもう間もなく藍を深くするのだろう。




