栴檀草の憂鬱
季節は徒競走が如く目の前を走り抜けていく。
その風寒く、木犀強く、吹きて香りて深まる秋にくしゃみをひとつしたところ。
俺は鼻をひとすすりして残り一枚のシャツを洗い上げた。
固く絞り上げれば五色を優に通り越し、七色にも十色にも輝く雫が盥の縁で砕け飛ぶ。
倍に、倍にと色を増していく。
鼻唄混じりに朝の裏庭を勤勉に動き回る。
「朔ちゃん、随分とご機嫌じゃないか!」
手を糠だらけにしたイヨさんが笑っている。
俺は季節外れのまっさらな鯉が心地よさげに泳ぐのを指さして見せた。
右脇の蝶結びはまだ不恰好ではあるが、襷がけのたびに艶かしい浮世絵と化すこともなくなっていた。
盥の水を捨てようと屈んだ時のこと。
視界の隅で、極めて小さき緑色がちらりと揺れた。
借物の草履をザリ、と鳴らして近寄ると西洋の紋章の縁取りに似た草の生えているのを見つける。
摘んで引きあげる。
「なんだこれ……?」
随分と呆気なく抜け出た柔らかな根には乾ききった土がまぶさっている。
元来、植物でも虫でも「命」を摘むことを嫌う自分がなんの躊躇いもなくこの草を引き抜いたことに身慄いした。
とはいえ身慄いしたそばから小さき草を左拳で握り潰してまた一寸ばかし先に同じ形を見つけて引き抜いた。
その度、「何だ、何だ」と呟いた。
気づけば赤橙の痩せ柘榴の実をつけた生垣に額を突っ込んでいた。
「痛ェ……」
左の手は黄黒くベトベトと青みの臭さを漂わせる。
もうこれ以上は握り込めぬほどに集めた草どもに辟易としていたが、また視界の端で奴らの残党が手招くものだから俺はまたしゃがみ込んで引っこ抜く。
「しつけえな……」
根無草、一本抜けた。
ビョウッと音を立て、通りすがりの不遜な秋風が左頬をぶん殴っていった。
土間横に立てた箒が倒れている。
「ついでだ。」
一体誰に話しかけているのやもわからないが、箒を引っ掴んで土間を通り、かまどに左手の草を投げ込んだ。
「ちょっと朔ちゃん! 何だい? 今、なんか入れなかったかい?」
「へ?」
俺は咄嗟に左手を後ろ髪の中に突っ込んだ。
「すっとぼけてんじゃないよ!」
「あ! 平八郎!」
裏庭の方を指さして叫んだ。
平八郎を囮に俺は土間を貫き表へ出た。
無論、はったりである。
こんな辺鄙な所に海軍士官様が足を踏み入れるはずなどない。
それも学生どもの、洗ったところで落ちやしない煤けた春臭いシャツの泳ぐ裏庭に佇むなど海がそっくり返って空が出てくるよりも想像し難いことだ。
「これ! 朔ちゃん! しょうもない嘘つくんでないよ!」
イヨさんの声はまだ裏の方で響いている。
あの草はすっかり灰燼と化し、俺はもう表でほくそ笑みを噛み潰しながら砂埃を立てていた。
玄関先に紙巻き煙草の死んでいるのを見つける。
頃合いよく斜向かいの親父が同じ柄のをふかしてやがるので返してやろうと鼻をつまみつつ指を伸ばしたその瞬間。
「またか……」
あの草がいじらしく芽吹いている。
俺の指は引き返し、性懲りも無く草の芽を引っこ抜いている。
今度は右手で抜き、そのまま握り込んでいく。
左の箒は杖と化し、穂先は俺の重みを支えてひしゃげている。
抜いたそばから生えているのか?
しゃがんだままぐるり一周、俺は草との死闘に目を回していた。
途端、俺の空は真っ暗になった。
ついに草の野郎も本気を出してきやがったらしい。
「しつけえな!」
よく見るとそこにあったのは砂にまみれたつやのない革靴であった。
随分と情けない姿勢のまま、目線だけ斜め後ろに移した。
俺を覆う影は微動だにしない。
恐る恐る見上げると、郵便屋の青年が固まっている。
体勢からすれば、よっぽど俺の方が不利だというのにどうにも敗北したような空気を漂わせている。
「あ……」
見上げ、見下ろし、同じような間の抜けた顔で同じ文字を漏らした。
「あの……その……し……失礼しました。」
俺は立ち上がりつつ、「いやあ、どうにも草がすごくって……」と頭の後ろを掻いた。
足元に萎れた草が散らばる。
「上……原、朔……上原朔……也さん宛に……」
「あ。」
「あ?」
「俺です。」
「あ?」
「俺です。」
青年が差し出しす封筒に手を伸ばす。
するとヒョイと上へやってしまった。
「あ?」
俺も手を上へやる。
すると郵便屋は今度は右へグイとやってしまう。
負けじと左手を伸ばす。
互いに息が上がって来たその一瞬をついて俺は彼の眼前で手を打ち鳴らした。
相手が怯んだ隙にぶんどる算段だったのだが、掌同士がべったりとくっつき、どうにも気味の悪い音がする。
こちらの方が怯んでしまった。
青年は肩で呼吸をしながら封筒の裏を見つめ頷く。
そして今度はそれをこちらに向け頷く。
「ご武運を。」
と囁き、俺の懐に文を差し入れて去って行った。
小さくなっていく後ろ姿をしばし眺めていた。
俺はようやく箒を拾い上げることにして、身をかがめる。
カサリ……
乾いた音がした。
拾い上げ、懐に突っ込む。
「あ! お前ら……」
封筒を退けた処には案の定、あの芽が頭を出している。
それも二本並んで。
奥歯をギリギリと鳴らしながらまとめて引き抜いた。
はあ……
俺はあらかじめため息をついておく。
やはりだ。
豆腐屋の撒き散らした水の横、冷やかし親父の足の下。
草、草、草、草……
──一本抜けば文転げ、二本抜いても文転げ。
拾う度に草生えて
生える度に罪嵩む
我が手よ、我が指よ!
赦し給へよ!
再び砂埃を巻き上げる。
なんとなく胸の辺りがむずがゆい気がする。
懸命に懐を首だけで覗き込む。
なるほど、差出人の名と心の臓とが皮膚一枚のみ、の隔で垣間見なんぞしているからいけないのだな。
ひっくり返してまた懐に捩じ込んだ。
それはそれで、気色が悪い。
結局、あの草は小菊の鉢にまで侵食していた。
「しつけえな!」
──パサ……
少々重い音でまた文が落ちる。
「しつけえよ……」
俺は玄関前に箒を立てかけた。
足に合わない草履を脱ぎ揃える。
すっかり黄黒く、青い匂いにまみれた封筒を自室の小卓に放った。
締め切った窓越しに聴こえるくぐもった鳥の声が意識を濁らせた。
頭の上の暗い電燈と一緒になって、ぐるりぐるりとぶんまわしの如く回る。
その実、おそらく身体も電燈も回ってなどいなかったはずだ。
──おーい! ……ちゃん!
ぼやける鳥を掻き分けて、聴き覚えのある声が弾んでいる。
──おーい! 朔ちゃん! いるんだべ?
俺は窓を開け放ち、顔を出した。
学生帽子を大きく振っている。
「大ちゃん! おめえそんなに跳ねると転……」
言い切るよりも先に尻もちをついている。
気づけば部屋は、金木犀の匂いでいっぱいになっていた。




