虎喰らい、学びたまえ
──月を見る間も無く眠っていたやうだ。
われはまた枯草色の着物を着て、今朝は夜も明けやらぬうちから卵を炒っておる。
雪平の鍋底の黒、卵に移ろいて虎の如く勇ましくなれり。
「やい、文士。貴様、我らが朝食に没食子酸にて漫ろ言書き連らぬとは何事ぞ。」と咆吼掻き連ねし黒衣どもに我が心憂さ深まれり。
小卓の上の白紙原稿はまだ、朝の光を浴びていない。
万年筆はそのまっさらなマスをいくつも使って贅沢に睡を貪っている。
今朝も俺は枯草色の着物を着込むと、襷の一端を咥え階段を駆け降りた。
「おはよう、朔ちゃん。よく寝たかい?」
「へ? はあ……」
まだ暗い中、かまどに火を入れるイヨさんは背中だけで言ってのける。
「朔ちゃん、あんたね、見かけによらず足音でっかいんだよ!」
「へ?」
俺は自分の足を眺め下ろしつつ、胸の高さに上げた左腕に紐を絡めていた。
「さっきから何だい? その気の抜けた返……」
突然振り向いたイヨさんに俺はたじろいだ。
「今日はなんだい? 渓斎英泉かい? 朝っぱらから艶かしいことだね!」
そう言いつつ、やはり瞬く間に俺を健全に縛り上げた。
「ほれ、できた! ボサっとすんでないよ、この天下のスケコマシが!」
「あ、イヨさん、それはよくねえべ?」
「やめないかい、朔ちゃん! 笑わせるんでないよ!」
イヨさんは昨朝までの居候を、俺は無二の親友を想い笑い合った。
シュウシュウと音を立て、カタカタと暴れる蓋。
「ああ!」
「いけない!」
二人で勢いよく土間へと駆け出した。
とは言え走るほどの距離もなく、転げ落ちるように進んだに過ぎない。
白黒写真の四十男は今朝も朗らかに微笑んでいる。
少しずつ外は白み始めた。
俺の火吹竹の吹き方がなっていないと音大の奴が熱心にやって見せるものだから、仕事がひとつなくなった。
持ち上げた漬物石を足の甲に落としかけたのを法曹の成り損ないに救われる。
あまりの情けなさに絶句した。
そして俺は今、雪平鍋に溶き卵を投じんとしている。
「朔ちゃん、あんたそれいつまでそうしてるんだい? 火噴くよ?」
「え?」
掴まれた左手首はひるがえり、ジュッという音と共に卵は固まり始めている。
「え! え?」
「右手! 右手しっかり動かすんだよ!」
俺は四本の菜箸で必死に鍋底を掻いている。
しかし、卵は焼けつきこびりつくばかりだ。
「朔ちゃん、なんだい? その屁っ放り腰は! もっと腰! 腰入れる! しっかり立つ!」
「痛ェ!」
「料理は命! 命懸けてやるんだよ!」
これじゃいくら命があったって足りねえや!
という叫びを飲み込みながら、痛む尻にも構わずがむしゃらに右肩ごと動かす。
「ほれ! 左手! 左を振るんだよ!」
右だの、左だの、腰だの、一体俺はどうすればいいのだろうか。
身の振り方……否、もはや言葉の意味合いすら朧げになるほどに混乱している。
「朔ちゃん、あんたどうにも左手が怠ける癖があるね……」
かろうじて出来上がった炒り卵のつもりのものを皿に盛る。
黄色、褐色、黒色、黒色、黒色、黄色、褐色……
雪平の底をこそげる俺の背後で皮肉屋の腹っぺらしの黒衣が唱えている。
妙に腹が立ったのは、その実況があまりに的を射抜きに射抜いていたからだ。
「文士様の作ってくれた飯なんざありがてえな。」
などと嫌味ったらしく笑っている。
「嫌なら食うな!」
皿を取り上げんとしたところ、奴らは涎を垂らしてすまぬすまぬと詫びてくる。
土間ではイヨさんが鍋底のこびりつきをこそげ摘んでひょいと口に放り込んだ。
「全く物書きの先生たちには参っちまうね! 叶わぬ恋に現を抜かしてる暇があったら、蒲公英の天ぷらの作り方のひとつでも書いといてくれたらいいじゃないか!」
瞬間その通りだ、と思った。
しかし、同時に人生の春に悶々とした青年が校舎の庭の黄色い花に手間をかけるなんてものは不毛な恋よりよっぽど虚像だとも思った。
ともすれば、あの茎の粘っこい白汁にも構わず食っちまったと言う方が余程現実だ。
「なにぶつぶつ言ってんだい!」
途端、口の中に黒いものを突っ込まれた。
「こういうのを物書きの先生方は、なんて言うんだい?」
イヨさんはおちょくったような顔で見上げてくる。
「我が青年の日の焦がし胸の匂ひ! 過ぎたる哀しき情欲の味……」
「いやあ、けったいなもんだ!」
「おお! 苦い! 苦い!」
下宿の朝は騒がしい。
舌の付け根の苦味に心を歪めながら、俺は腕を組みしばらく黒衣どもの笑うのを眺めていた。
昨日までの金木犀の予感の香は何処へ……?
俺は焦げ鍋を盥へと沈めた。
ちゃぽ……と泡がひとつ、穏やかに砕ける。
あくびを堪えて、つんと鼻が痛む。
──物憂げなる朝の陽射し。
秋の日に蒲公英を思ひて胸の苦々しきを叫ぶなど、愚、極まれり。
されど黒衣、虎食ひて勉学に励むなど、愉快哉。
愉快哉。




