青年、胸元に菊花を
朝も早くから俺の頭はぐらぐらと揺れている。
首ごともげて、季節外れの椿と化す妄想で嘔気を誤魔化している。
「行かねえ! 行かねえど!」
大ちゃんは俺の胸ぐらを掴み、前後左右、斜めと容赦なく揺らす。
「やめ……大ちゃん、やめねえか……」
脳は頭蓋の中を廻遊、攪拌されてゆく。
水飴にでもなってしまいそうだった。
「行かねえかんな! おめえ行かねえなら行かねえど!」
夜着のはだけるのも構わず喚き続ける。
「行ったって仕方なかろう?」
「だども……」
言い淀むその瞳はあまりに幼く、あまりに哀しげだった。
揺れがおさまり、俺は目線を落とした。
大ちゃんの目はそれを追いかけた。
行き着いた先ではあの、しわひとつない綿が静かに眠っている。
「なあ、大ちゃん……」
襟元から一本、また一本、指が離れていく。
俺は綿の眠りを覚まさぬよう厳かに持ち上げ、目の前の泣き顔に差し出した。
「俺、あっち向いてっから。ほれ。」
綿を介して大ちゃんの震えを感じる。
「今度こそ本当に見るんでねえど……?」
「おめえそれまだ言うか? ありゃあ事故だ!」
大ちゃんはようやく笑った。
やっと笑ったかと思えば勢いよく夜着を脱ぎ捨て始める。
「おい大ちゃん! 見んなっつって見せるんでないよ!」
「見たいべ? 本当は見たいべ?」
「ないな……」
俺は窓の外、向かいの家の瓦に弾かれた太陽に目を細めていた。
「どうだい、朔ちゃん!」
シワひとつないシャツに身を包んだ大ちゃんは誇らしげに見えた。
「だども、やっぱり餅っこの匂いしねえか? ほれ。おめえも嗅いでみろ。」
屈んで腕やら裾やらを俺の顔に近づける。
「あ、朝飯の匂いだろうよ!」
俺は立ち上がり、さっさと詰襟を羽織らせた。
「ああ! 腹が減った! なあ、大ちゃん。おめえも、減ったべ!」
「何だい朔ちゃん、俺の真似かい?」
こうしてまた二人で並んで朝飯を食べた。
白飯に、焼いた鯖だった。
学生服に囲まれる夜着のままの俺に大ちゃんは言う。
「おめえも着ろ?」
「着ねえよ。シワだらけだ。」
俺は真っ白な米と大ちゃんとの間で視線を行ったり来たりさせていた。
やはり今日も見事な秋晴れだ。
玄関先の小菊も心地良さそうにその頭を小さく揺らしている。
「いってらっしゃい!」
俺は大ちゃん左手を肩の辺りで振った。
「何がいってらっしゃいだ、あんたもお行きよ!」
イヨさんが俺の背中を弾くように押す。
よろけて膝を掴んだ。
立ち直って着物の裾をはたきつつ、厳かに宣言する。
「いんや、今日は皿洗って、玄関掃いて、飯を炊く。」
しかしこれで納得するような相手ではない。
「何言ってんだい? 万年筆より重いもん持ったことないじゃないか朔ちゃん!」
「んだな、おめえこんな細い白っこい指で……」
大ちゃんは俺の手首を掴んでいる。
「大ちゃん……おめえのそのシャツ、伸ばしたの誰だい?」
「おめえだ……」
大ちゃんは悔しげに、恨めしげに睨みつけてくる。
その間に他の学生たちは各々の目指す方へと歩き去っていく。
「まあ俺、落第してっからな。」
頭の後ろで手を組んで、足元の小石を蹴飛ばした。
「何ヘラヘラしてるんだい!」
「そうだべ? 落第してたっておめえまだ横光の『馬車』、図書館に返してねえべよ!」
イヨさんは俺の額を引っ叩き、大ちゃんは腕を引っ掴んで引っ張る。
そして、イヨさんはグイグイと背中を押す。
「やめろ! やめてくれ!」
「ほれ! おめえも行くんだ!」
「そうだ、行っといで!」
この押し問答を、道ゆく人がどう思ったかは知る由もない。
「あれ、大ちゃん、あんたボタンどうしたんだい?」
俺はしゃがんで黄色の小菊を人差し指で突いていた。
「ああ……今朝とれたんですよ。ずっととれかかってたもんで。」
「そうかい、帰ったら縫いな。」
「そしたら……」
学校の方向を向きかけた大ちゃんの、ボタンのないところに小菊を挿した。
大ちゃんはその黄色を抑えて言った。
「行ってきます!」
颯爽と歩き出す。
しかしすぐ振り向いてしまう。
俺は「早く行け」と口を動かした。
「変な気起こすんでないよ!」
そう叫んでる大ちゃんはまっすぐに歩いて行った。
もう、彼が振り返ることはなかった。
角を曲がり、姿が消える。
未だ咲ききらぬ木犀の香りが焼き餅の匂いと混じり合い、秋晴れの空の下、薄雲の如く残っていた。




