月燈の帝大生
花茄子色の夕陽は紺衣を濃藍色へと染めかえた。
相変わらず声を揃えて「空財布の唄」を歌っている。
すると、見慣れぬ黒衣の学生たちがのろのろと、泥濘の中でも歩くようにこちらへ向かってくる。
彼らの背は西陽に灼かれ、その影が紺衣を飲み込んでいく。
「……ちゃん?」
薄らと屍肉の、青い匂いがする。
コバルトだ……
振り向けば一人、季節外れの外套を靡かせている男がいる。
その裾はべったりとコバルトで濡れている。
「朔ちゃん!」
立ち止まっていた。
足を泥濘にとられたかの如く、動けなかった。
なんとなく、頬に筋状の痛痒さを感じる。
「泣いてんのか?」
言われてみれば今、去り行く赤き楕円が二つと、右目には残陽が見えている。
割れ流れる光の様子からすれば泣いているのかもしれない。
ただ心には恐ろしい程、無が降り積もっている。
「なあ、見れ!」
大ちゃんの指のさす先を見る。
蝙蝠の群れが、濃藍に染まり始めた空に舞っている。
一、二……一、二、三……四……
優に百は超えていそうだ。
「なあ、大ちゃん。」
「ん?」
大ちゃんは金ボタンの揃った襟元を整えつつ、ちらとこちらを向く。
「おめえ納言と式部どっちが好きだい?」
俺は照れ臭くて学生帽子を目深にしてぼそぼそと訊ねた。
──パンッ!
「何言ってんだ? おめえ忘れたとは言わせねえど?」
紺衣を纏った大ちゃんは悪戯っ子の目で、手を打ち合わせた形のまま俺の瞳孔を貫いている。
「納言を取り合った仲でねえか!」
大ちゃんは俺の周りをぐるり、ぐるりと歩き回りつつわざとらしい涙声で続ける。
「そんでおめえは悪びれもしねえで納言と夏の日没に染まってたでねえか……あの晩の俺の枕の味……」
「枕の味?」
「枕の……味……」
俺は肩の骨の震えるのを懸命に抑えた。
大ちゃんはすでに咽喉を引き攣らせ、夕焼け色の地面で身悶えている。
「立てっか?」
「立てるわけねえべ?」
俺は大ちゃんをおぶさって歩いた。
初めてかもしれない。
温かくて重たい、命だ、身体だ。
「おめえのあの日の枕はたいそう良い味だったんだろう?」
「まだ言ってんのかい……」
「で、どんな……」
唐突に噯気が飛び出した。
「やい! スケコマシ! 今おめえ思い出してんだろ!」
「ええ?」
「今! 腹いっぺえの虫が鳴いたど?」
大ちゃんは俺の背中から飛び降りて肋骨の辺りを摘む。
「ここか? ここにいるんでねえか?」
もう、完全に少年の顔をしている。
多分、俺もそうだろう。
あの後歩いた記憶がない。
その証に、濃藍へ変化せし紺衣は元の紺に戻り、仄灰の砂を纏っていた。
「勝負だ!」
階段下で大ちゃんが叫ぶ。
「俺の方が脚が長いの、忘れたかい?」
恐らくそんなことはない。
「おお? 言ったな?」
次の瞬間にはダンッと互いに大きな音を立て二段、三段と駆け上っている。
「朔ちゃんかい? ここ壊したら、あんた羅生門行きだよ!」
奥の方からイヨさんが叫んだ。
大ちゃんと俺は顔を見合わせて、
「京都か……いいもんだ。」
「じゃあ、おめえ本気でやるんだど! 俺の宇治金……おい待て! 卑怯だど?」
俺は大ちゃんが腹の虫と一緒になって、空想の甘味に舌鼓を打っている隙に十段目まで駆け上がった。
「おい、朔ちゃん! 今でねえだろ! 今はたくんでない!」
大ちゃんが咽せている。
ごめんと言いかけて、その言葉が宙に浮く。
代わりに振り向いて、顔を覆う腕を引っ掴んで「ほれ、先行け!」と大ちゃんを先に行かせた。
「っぶねぇ!」
不規則な音を立て、前に出た大ちゃんの背中をグイと押した。
「あ……」
瞬間俺は、己の愚かさに絶望した。
右の爪先が地上を離れ、背骨は腹の方に向かって彎曲を極める。
瞳はあの埃まみれの電燈をぼんやりと包み、鳩尾がふわふわと消息を断つ。
望まぬ墜落ほど恐ろしいものはない。
大ちゃんが伸ばした手を掴みそびれた。
時点で俺の目に映っていたのは、丸めた文芸誌片手に「行きな!」と凄むイヨさんの顔。
彼女の指はあの門とは真逆を向いていた。
「痛え……」
俺は万年筆の青黒インクを垂らしながら頭をさすっている。
「おめえ馬鹿なのかい? どうにも朔ちゃん、昔っから頓珍漢だの。」
大ちゃんが肩書を増やす。
「んだよ……頓珍漢だかスケコマシだかどっちかにしてくれ。」
「頓珍漢のスットコドッコイのスケコマシの……」
窓の外はすっかり青と黒が澱みなく混ざっている。
栗色の月の光が、小卓の上の原稿を煤けた黄みに染め上げた。
──月燈の詰襟たちは、予鈴に怯えて門をくぐる。
至極真っ当に広げた翼をぶつけ合い、内に流したる潮の魂を音波に乗せ闘わせておろう。
群れし中では埋もれよう。
外れし地では浮かれよう。
朔の晩には己の瞳……
よもすがら俺は青黒き声を紙に落とし続けた。
──今頃、蝙蝠帝国大学の黒衣たちはどうしているんだろうかね。
座ったまま崩れるように眠る大ちゃんの頭を枕に乗せた。
「食うんでないよ……」
鼻先に手の甲をかざしてみる。
周期的に温かな風が当たる。
俺はあくびをひとつ、窓の外に顔を出してみる。
蝙蝠が二匹、夜だというのに庇で仲良く逆さまに眠っている。
「遅刻するぞ。」
そう言って、俺はペン先で月の形をなぞるとまた原稿用紙のマスを夜空の色で染めていった。
相変わらず、蝙蝠の影は風の吹くたびに揺れた。
月は悪戯な顔をしている。
朝はまだ遠そうだ。




