狂喜斉唱
朝陽を背に浴びる青年がうつらうつら、左右に頭を揺らしている。
俺はつい、ほんの少しばかし驚かせてやりたくなって彼の膝の辺りから大きめに囁いた。
「おはよう……」
次点で俺は右目を押さえ、部屋の端まで転げていった。
「痛ってえ……」
「ああ! ごめんな朔ちゃん! だども驚かすんでねえよ!」
悶絶する俺に大ちゃんは平謝りだ。
頭を掻いたり、土下座をしたり忙しない。
騒がしさの中、束の間ぽっかりと空いた静寂の間に彼の目の下に残る夜空の色を見た。
ただそれは、逆光のせいだ。
今朝、俺ははなから身なりを整えるつもりなどはなかった。
鞄の底では相変わらず横光利一の馬車が足留めをくろうているが、構わない。
大ちゃんの腹の虫は今朝も調子良く鳴いている。
俺の腹の虫もつられてひと鳴きした。
「輪唱でねえか!」
汚れた学生服の男と俺は笑い合う。
そして指を鳴らし、彼は気取って何やらくちずさむ。
「なんだい、それ。お経……?」
「ひでえや! スマコだ、スマコ!」
「誰だい?」
「スマコだど? 朔ちゃん……おめえスマコ知らねえか?」
「スケコマシなら知ってけど……」
「朝っぱらからそんな言葉言うんでねえよ!」
もう一度腹の虫が歌う。
斉唱だ、斉唱だ、と手を叩いて大いに笑った。
顔中の筋肉という筋肉はほどけ、代わりに肋は木っ端微塵の様相を見せる。
右目の痛むのもすっかり忘れてしまった。
いよいよ虫も息も絶え絶えだろう。
「腹減った。」
そんな言葉は、久しぶりに発した気がする。
「腹が減った!」
なぜだろう、小気味のいい台詞じゃあないか。
「飯を食おう!」
空腹というのは実に心地の良いものだ。
前頭葉の靄も天高き秋の空の如く吹き去ったように思う。
建て付けの悪い引き戸を弾き飛ばして、俺は階段を駆け降りる。
「おい馬鹿! 落っこちっど!」
衣紋を掴まれ、尻を打つ。
「なあ、大ちゃん……おめえは俺を殺す気か?」
恨めしく振り向いて、徹底して暗黒のような声で訊ねた。
「逆だ、逆。」
シワだらけの袖を見る。
カフスの薄黒。
なんとかという草の棘。
シワごと、薄黒ごと、棘の上から引っ掴んで階段を降りた。
棘は砕け、足裏に貼り付いている。
離せ、離せと騒ぐのを知らぬふりをして引きずった。
陶器に箸の当たる軽やかな音、平たい英語、新聞紙の擦れる音……
大ちゃんと並んで、豆腐の味噌汁をすする。
正しい朝食というものを学生服に囲まれて、見よう見まねでかきこんでいる。
「大ちゃん、あんたそのシャツ……ひどいもんだね! 洗っとくから、それ食べたら脱いでもっといで!」
イヨさんが手拭いで手を拭きながら笑っている。
水はほとんど俺の頬の辺りに飛んできている。
「大丈夫だ。俺の着物、着たらいい。」
「んだども朔ちゃん、それはありがてえんだけどな。」
茄子の糠漬けが奥歯でキュウと音を立てた。
「人参、食え?」
大ちゃんの皿は人参の山になっている。
俺はただ微笑んでまた正面を向き、キュウ、キュウと音を鳴らした。
左の肘を右の肘で小突かれた。
視線もぶつからぬまま、また大いに笑うた。
すっかり腹の虫も満足して微睡んだであろう頃、俺は大ちゃんに揃いの着物を投げ渡す。
「大ちゃん。ほれ、これ。」
紺色を抱きかかえて大ちゃんは言った。
「そしたらこっち向くんでねえど。あっち! あっち向いとけ!」と窓を指さしている。
「言われなくたって興味ねえや! どこの乙女だ。」
「朝っぱらからスケコマシだなんだ言う男は信用ならねえからな!」
そう言ってもうボタンをはずし始めている。
慌てて窓の外を眺めた。
また蜻蛉だ。
重なり重なり蛇行の飛行。
今にも墜落しそうで見ていられない。
カタカタと何かを立てるような音がする。
「大ちゃん? 部屋、壊すな?」
返事がない。
ただ紐を縛る音が聴こえた。
「大ちゃん?」
振り向くと、俺のと同じ着物を着た大ちゃんが壁の方を向いている。
その先に薄ら黄色がぼやけている。
「あ、おめえ見たな! こっち見んなって言ったべ?」
「遅えからだろうよ!」
「これだからいやなのよ、スケコマシは……」
訳の分からないおふざけの嫋やか喋りが俺の横隔膜で跳ねている。
「失礼な。そんで、ちょっとこっち、こっち!」
「なに?」
「帯、直し……」
「やめて! やめておくんなまし!」
大ちゃんの悪ふざけはまだ続いていた。
もうすっかり板についている。
せっかく眠った腹の虫も揺り起こされそうなほどに笑い、気づけばまた俺は部屋の中を転げ回っていた。
俺と交代に窓の外を見ていた大ちゃんが身を乗り出して叫んでいる。
「いってらっしゃい!」
もういよいよ息ができない。
「おんめえやめろ?」
振り向いた大ちゃんは言う。
「なあ、ぜんざい食いに行くべ! 今なら……」
「栗か?」
「お目が高い!」
革靴と下駄の音は、東へと進む。
大ちゃんは芒を咥えてお経みたいな鼻歌を飛ばしている。
蜻蛉の重なったのが地面に墜落した。
「あ……」
「大ちゃん……」
背後から迫り来る、日常の輩を堰き止めてまで俺たちはそれを見つめた。
「滅びの唄だ……」
じわりじわりと嫌な視線が這い上がってくる。
「言ったな! 朔ちゃん、おめえそれはいけねえよ!」
しゃがみ込んだ頭の上に白い影。
「君ら、何をそんなに……」
「蜻蛉だ!」
声が揃った。
巡査は苦い笑いで「斉唱かい。結構だね。」と去っていく。
「ほれ見ろ。俺らが滅びるところだったでねえか!」
大ちゃんは全部、俺だけのせいにして歩く。
甘い匂いが漂ってくる。
茶屋は近い。
さっき朝飯を食ったばかりだというのに、餡の炊ける匂いに涎を垂らしている。
紺衣は揃って暖簾をくぐる。
「ぜんざい二つ……あ、栗、栗入ってます?」
「ああ……ええ……栗……」
店の娘さんが言い淀む。
無理もない。
暖簾を額にかけたまま言うのだから奇妙奇天烈もいいところだ。
「ごめんよ、悪気はないんだ。」
「あ! 朔ちゃんおめえ抜けがけはよくねえべ? さすがスケコマシだ! な! お嬢ちゃん、気をつけなばいけねえど? こういうくだらん男……」
「くだらん?」
「悪ぃ……悪ぃ……天下のスケコマシ……」
茶屋の入り口で茶番だ。
あまりにもあさましい。
しかしまた俺たちは、壊れ井戸の如くゲラゲラと笑うた。
こうしてようやく甘味にありつく。
栗の入ったぜんざいが二つ、甘い湯気で秋の朝を温めている。
丸窓の外、見たような黒い学生服どもと目が合う。
頬杖をついて、言う。
「なあ、大ちゃん。なんだってみんな忙しないんだろうな。」
「生き急いでんだべ。感性の鈍りだのなんだのって。」
栗をひとつ、大ちゃんの方へ飛ばす。
「急いだって鈍ったもんは鈍ったまんまだ。」
もうひとつ、飛ばした。
「むしろ鈍った方……」
大ちゃんは目を閉じている。
その隙に、俺は全部の栗を大ちゃんの腕に入れた。
そして目を開けた大ちゃんは言う。
「それ栗ぜんざいでねえ。ただのぜんざいだど?」
「ただでねえ! 十銭だ!」
「屁理屈言ってるんでねえど!」
まだ、朝だ。
甘い湯気の向こう、学生服どもが恨めしそうにこちらを見ている。
これ見よがしに匙を傾け、声もなく「食うか?」と問うては顔を見合わせ大いに笑った。
この日、俺たちは「生」を謳歌していた。
そう、信じていた。




