桃花心木の瞳に映るもの
鈍い光が揺れている。
電燈の傘はいつも通り埃かぶりだ。
「蛾……」
わずかに水気を含んだ塵の匂い。
左肩の温みは続いている。
漂う光は砂のように瞼を掠めていく。
煌めいて、煌めいて、意識ごと霞ませていく。
「っぶね!」
均衡を失った身体はだらしなく墜落を試みた。
しかし……
「朔ちゃん、また痩せたか?」
不揃いの前髪の奥で、桃花心木色の瞳が揺るぎなくこちらを見つめている。
彼の疑問の意図がわからなかった。
だから、黙って首を傾げた。
見慣れた階段。
その三段目に俺は座っている。
……サクチャン?
確かにそう呼ばれた。
目の前の青年は向かい合うように二段目に座る。
そして俺の帽子を膝につっかけて「こりゃあひでえ」なんて言いながら襟足の長いところを引っ張っている。
一体、何をしているのだろう。
ただ、これだけはわかる。
彼は、優しい。
気付いたら目を閉じていた。
指先がジンと痛んだ時、目の前が真っ暗だったから。
真っ暗は、怖い。
曇った光で痛みを照らしてみる。
血の滲んだ痕を見つけた。
俺は目の前の……目の前の大ちゃんに向かってその傷を近づける。
手首を掴まれるまで執拗に近づけた。
「大丈夫だ。すぐ治っから。」
そう言って疼きを包んで俺の膝の上に戻した。
その手は冷たく湿っていた。
真っ直ぐな視線に真っ直ぐな視線をぶつける。
──大丈夫だ
この言葉を幾度となく反芻しながら、俺は大きく頷いた。
目頭に、頬に、布が当たった気がする。
鼻をかんだ気がする。
丸めたちり紙を俺は彼に向かって投げた。
彼は投げ返してくる。
俺はまた投げた。
同じことを繰り返した。
俺は腹を抱えて笑ったが、ボタン足らずの学生さんはただ微笑むだけだった。
「大人だね。」
確かにこの唇から巣立っていった言葉だが、妙に澄んであどけなく聴こえた。
頭の後ろを手すりに押し当てる。
首の曲がりが安定しない。
「どうした? 朔ちゃん。どこか痛むか?」
「首……」
首の後ろがじんわりと湿る。
今度は温かい。
俯くような形になった時、階段下に落ちた一枚の絵を見つける。
「ん? どうした?」
「あれ。」
「ああ、あれか?」
その絵を指さし、大きく頷いた。
「ほれ、これ。」
そうだ、これだ。
俺はそのキャンバスに描かれたものを瞳になすりつけるように見つめる。
枯れた向日葵、向日葵の屍、夏の亡骸。
あの青空の下、勤勉な太陽の下、お前は翻弄され死んでいったのか?
何もわからない。
今、頭の中に流れた言葉は何だろうか?
あぐらをかいて煙ふかした誰かの言葉だろうか?
──水の中で硝子玉の砕ける音がする……!
階段の上に目をやった。
──おびただしい数の硝子玉の砕ける音がする……!
「死してなお温かい……綺麗だ。」
そう言って俺はその絵を抱きしめた。
屍が学生服の隙間から心臓を撫でてくる。
その幻触に身震いした。
俺はしばらく、虚ろなまま電燈を眺めていた。
思い立ち階段を這い登ろうとして腕を掴まれた。
「それ、持ったまま登れねえべ?」
俺は首を横にぶんぶんと振った。
棘のようなものが一つ、飛んでいった気がする。
「だども、這ってくならその向日葵さん可哀想だど?」
確かにそうかもしれない。
固い階段に打ち付けられ引き廻される。
俺は彼に屍を渡した。
両手で、だいじに、だいじに。
部屋はいつもの通りだ。
屑籠は溢れ、生活の空間を冒している。
違うことといえば……
「なあ、隣の人、大丈夫だろか?」
「……」
「咳が……」
そんなこと、俺にわかるはずもない。
咳が酷いのならあの毒の方がまだましなくらいの水飴でも喰って身体を騙しておくより他はない。
こんな冷たいことを思う自分が嫌だった。
あの毒瓶に、何とも判別の付かぬ露草の腐りを放置している自分自身に苛立っている。
「ああ!」
大ちゃんの突然の叫びに尻が浮いた。
「朔ちゃん! おめえ座ったな? あれほど座んなって言ったべ?」
そういう大ちゃんもべったりと座っている。
顔を見合わせ、大声を出して笑った。
あの喘鳴を隠すように。
やがて月灯のみとなった部屋の窓、俺はあの白い光を掴んでやろうと手を伸ばしていた。
「やめんかい。寝れ!」
その度に伸ばした手を布団の上に戻された。
「俺この間……」
「寝れ!」
「小村教……」
「寝れ!」
「手紙……」
「ほれ、朔ちゃん、寝ねえと変なもんくっからな? 厠怖えって泣いても着いてかねえかんな?」
それは困る。
そんなことを思った気がする。
睫毛越しに、桃花心木色の瞳が揺れるの見た……のかもしれない。
ただ穏やかに、背が沈んでいった。
そう、記憶を後付けしておいた。




