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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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誘蛾灯に沈む天使

瓦斯灯(がすとう)の蒼白い光に手を伸ばした。

(とお)の指全てに灯蛾を(たか)らせる。

鱗粉が肺底に積ってゆく。


「綺麗だ……」


ちょうどイヨさんが誘蛾灯の油を持って玄関から出てきたところだった。


「あらやだよ朔ちゃん! あんたこんな時間から酔っ払って……」

「だども酒は飲んでねえですよ。」

「え?」


どうにも膝に力が入らなくて俺は大ちゃんにこの身の全てを預けていた。


「ああもう二人してこりゃひどいね! 薮ん中でかくれんぼでもしたのかい?」

「やだな、イヨさん……王子様はそんなはしたないことは……」

「朔ちゃん! わけわかんないこと言ってっと夕飯抜きだよ! 抜き!」


イヨさんはそう叫んで俺の背中を叩いた。


ああいやだ、おおいやだ、と大きな声で指先から何かをつまみ落としている。


「ほら、イヨさん! 金色の冠……」

「それはオンボロの黒い帽子だよ!」


もう一発叩かれて、俺は大ちゃんの洋袴を掴んでいた。


「おい、馬鹿か! 丸出しになっぞ! やめねえか!」

「興味ねえや。」


見上げれば、少し気の早い街灯が明々と灯っている。


「朔ちゃん、おめえはよくわかんねえことだけはまともに返事すんのな!」

「ほんとに困った人だよ!」


二人があれやこれやと言い合う間、俺はまた光の境界に当たる羽根を眺める。

粉っぽい砂がわずかに湿っている。


油には蛾が二匹と、棘のようなものが浮かんでいた。



「ほれ、朔ちゃん。階段、わかっか?」


途方もなく長い、薄灰色の薄暗い階段が見える。

でも、嗅ぎ慣れた埃の匂いがする。


俺は這いつくばって昇る。


「朔ちゃん、おめえ部屋入ったらな、すぐ座るんでねえど!」


そう言って俺の尻を叩いた。


「んだよ、痛ェ!」


叩かれたところに手を当てる。


触れてすぐ、反射的に指を撥ねた。


「っ……」


指先がドッドッと脈打つのを感じる。


鼓動を得たその指は血を滲ませている。

暗がりでも分かる。

鮮やかな紅の血だ。


ふっと嘲る声が漏れた。

気づくと舌の上に錆臭い薄ら塩の仄甘さが広がっている。


自分が剥がれ落ちていく。


「なあ、大ちゃん。俺の背中……羽根……」

「前見れ。」


睫毛がいやに重かった。


「大ちゃん……羽根……」


(うつつ)が鼻奥から抜け落ちる、おそらく俺にしかわからぬ感覚に襲われて、誰かの吐息に乗っていたはずの言葉がわからなかった。


ただ刹那に、見慣れたいつもの木造りの階段を見る。

すっかり混乱している。

記憶と現実の明滅、俺が俺であるうちにこの違和に名をつけるのならばこれが精一杯だった。


──水の中、泡の弾ける音がする。


骨を失くしたような、不思議な軽やかさに胸が躍った。


片翼の俺に、空を翔けることは叶わない。

失意に暮れ瞳を濡らす時、毒油のヒヒル()(はふ)る時、ついに俺は見つけた。


我が空は、水だ。


水中ならば翔べるのだ。


失くした……否、生まれ落ちた瞬間から折れていた左の翼。

ずっと、ずっと冷たかった左の肩も今は温かく軽い。


──翔べる。


足の裏に、地を踏む感覚が戻っている。

棘で傷ついた爪先で軽く大地を……


(よう)たる水底へと翔んでいく。

爆ぜる(あぶく)が羽根を包み、どこまでもどこまでもこの身を運んでいく。


澄んだ瞳で空の深淵を掴む。

振り向けば青い光に透けた無数の玉がきらめきどよめき堕ちていく。


しかし、片翼はわずかに蒼さを掻き損ねた。

途端に光が傾ぐ。


それでもまだ、舞えると信じていた。

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