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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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嘯く万華鏡の瞳

鐘の()の残りが耳の奥で響いている。


俺の心臓は、(だんま)りを決め込んでいる。

まだ視界の下でぼやけている赤色の向こう、セキレイが一羽、小刻みの足で駆けている。


「ほれ、帰っど。」

小さく、低い声。

赤は大ちゃんの指先でわずかに震えていた。


脳が頭蓋の中で揺れる。

その度に重心が崩される。

世界が、時間が、輪郭を失くし溶け合っている。

瞬きのたびに、見える光の色が変わる。


「俺の目……万華鏡……!」


なんだろうか、えもいわれぬ恍惚によく似たうわずり。

膝が均衡を失い、地を打った。

そのままのけぞり見上げた空はどこまでも青い。

しかしその手前、熱っぽい雲が邪魔をする。


泳ぐように、もがくようにかき分けてもかき分けても、それはそこに居座り続けた。


「ふふ……」


右の口角が引き攣る。

誰の笑いかもわからないものが唇からこぼれ落ちていく。


「ハハハハハ!」


腹を抱えて身を捩り、地を転げた。


「……ちゃん……朔……」


空が隠された。


上転しかけた眼球が正面に戻り、大ちゃんと目があった。


「朔ちゃん、行くど。ほれ。手ェ。」


ああ、大ちゃんか。

その場に座ってぐるりと見回すと、また脳がぐらぐらと揺れ出した。

目を閉じ、首を折り、掌で額を冷やす。


その甲に、冷たく湿った指が重なる。


「もういいんだ、朔ちゃん。もう、いい。」


一体なんのことだろう。


「大ちゃん、寒いのか?」

「いんや、暑い。」


頭も背も全てを預けているはずなのに、その声は途方もなく遠くから聴こえていた。


おぼつかない足で進む。

地を踏む感覚などないのに、下駄の触れる音がする。


「大ちゃん! 見ろ、浮いてんのに音がする!」

少し進んではひざまずき、ひざまずいては立ち上がりまたひざまずき……


その度見えない力に起こされて、少しはまともに歩んだけれど、またすぐ身体は地を這った。


俺は黒い布の上の金色のボタンを鷲掴んだり回したり、自分でも全く見当のつかぬことを繰り返してはヘラヘラと笑っている。

手の甲はじっとりと冷たく包まれて薄気味悪い。


ついに一つ、金色をもぎとった。


──……ステイラ……く…………い。

──ひと…………………円だ……。


そして、甘い匂いが余計に思考を曇らせた。


「お代は? なあ、大ちゃん。こないだこれおめえに渡しそびれたんだ。俺に払わせ……」


俺は金貨を白い服のぼやけた男に差し出した。

その手はまたじっとりと包み込まれた。

金貨ごと。


見上げると、その青年はどこか遠くを見つめて頷いていた。


四角い塊が甘い匂いを撒き散らしている。

俺はその四角に続いて舗道と草を交互に踏んでいる。


手には相変わらず金貨を握りしめて。


右手にぼんやりと秋の桜が広がっているのが見える。


「ああ……」


この紅色に飛び込めたなら……


そんな妄想の間に俺は自分と同じ制服の奴を見つけた。


そうだ、あの後ろ姿は大ちゃんだ!


「なあ、秋桜、見てかないか?」


嬉しくなって大声で叫んだ。


「今、見頃だ!」


大ちゃんの背中に飛び乗った。

瞬間、脳が揺れた。


ぐらりと身体が右へ傾いた。

反発しようとする力を打ち消し、重力を支配する。


卵と砂糖の甘い匂いが鼻先に当たる。


土と草の匂いが混じる。

身体は打ち付けられるような衝撃を幾度となくくらうのに、痛みのひとつもない。


途方もない時間に思えた。

落下が止まる。


水の流れる音が心地よい。


思わずため息が漏れそうになる。


目を閉じていたことに気付く。


左手の上に泥だらけの手が乗っている。

相変わらず湿っていて冷たい。


俺はもう一度目を閉じて言った。


「どうだい、大ちゃん。綺麗だろう?」


返事がない。


「なあ。大ちゃん。秋桜、好きかい?」


乗せられた左手がガクガクと震えている。


あんまりにも美しいものを前に、言葉という手段を奪われてしまったのだろう。


俺はまた、秋桜の畑の中眠ってしまった。


「朔ちゃん……朔ちゃん……」


学生服のボタンの一つ欠けた男が座っている。


まだ抜けきらぬ微睡(まどろみ)の中、その男に身体を起こされた。


ぼやけた視界の先、少し崩れたカステイラが置かれている。


「大ちゃん?」

「ほれ、食え。美味いど。」

「なあ、大ちゃん。おめえそれ、ボタンどうした?」


カステイラを口に入れるか入れないかで、俺はふと世界のおかしさに気づく。


「秋桜は……?」


大ちゃんは押し黙っている。


「大ちゃん、秋桜は?」

「食え!」


彼は乱暴にカステイラを引っ掴んで俺の口に突っ込んだ。


瞬間、生きた心地がしなかった。

否、生きている感覚を覚えた。


ざらめが喉を引っ掻く。


咽せている。

もがいている。

「生」にしがみついている!


甘い、すごく甘い。

脳も舌も胃も全て溶け切って消えてしまった。


「ごちそうさま。」


俺は大ちゃんにあの金貨を渡した。


「おう。」


大ちゃんは金貨をしばらく眺めてから、大事そうにポケットにしまった。


この時、冷たい風が襟足ごと首筋を撫でた。

妙に(ふる)えた。

ただ、その一回きりだった。


だんだんと陽が落ちてくる。


「朔ちゃん、今度こそ帰っど。肩、掴まれ。」


その声はカステイラの甘い匂いがした。


俺は砂糖まみれの指で大ちゃんの肩を掴む。


すると、大ちゃんは、

「こりゃあしつこいど! 洗ったってだめだ……」

と俺の背を払いながら言った。


そして、帽子からはみ出している襟足を摘んでは

「おめえ今日はちゃんと頭洗え?」

と言うので、

「臭えか?」と聴いた。

「そんな意味でねえ。」

とだけ言って、ズイズイと進んで行った。


「待ってよ大ちゃん!」

「待たねえ! ノロノロしてっと置いてくかんな!」


俺の下宿に行くのに俺を置いていくのか?


「そんなに怒らなくてもいいだろう!」

「怒ってなんかねえ!」


売り言葉に買い言葉。


「なあ、大ちゃん。知ってっか? 俺、王子様だぞ。」


小さな女の子がすれ違いざまに俺を見上げた。


「俺は、西瓜の馬車に乗った、秋桜の国の王子だ!」


大ちゃんはくるりとこちらを向いて走ってきた。


そのまま背後に周り、手で俺の口を塞いだ。


「そしたら話は別だ。悪く思うな、俺は芒の国の王子! お前をひっ捕えて幽閉してやる!」


言っていることは冗談なのに、ギリギリと首を締め上げる腕の力が冗談ではない。


俺は完全に脱力し、その場に崩れ落ちた。

そして、大ちゃんもその横にへなへなと崩れてきた。


また大ちゃんは俺の背中をはたいている。


「いって!」


大ちゃんが人差し指を俺に向ける。


「見れ。これ栴檀草(せんだんぐさ)……しつけえんだこれ。」


そう言うと大ちゃんは、栴檀草なるものの棘とも種ともわからぬものを爪の先で粉粉にすり潰すと、ふっと息をかけて風に葬った。


しかし、彼の腹にも腕にもその尖ったものはまだびっしりと突き刺さっている。


俺はまた、心臓の軋みを聴いている。


街灯がひとつ、またひとつ、明るくなっていった。

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