還りし名、逆さ曼珠
──燃ゆる手前の曼珠沙華
一輪折りて天地無用の掟破れば、美しきかな
散りし地の花、十四の晩
我が命とて惜しからむとぞ、二十一の晩
まだ緑の残る銀杏の下、隣で大ちゃんが腹の虫に餌をやっている。
薄汚れた木造りの長椅子に昼飯を、膝には文芸雑誌を乗せながら。
「朔ちゃん、刀は一本だ! 今からおめえに刺すからな。覚悟!」
突然の果し状に返事を書く隙もなし。
飲み込み切らない焼鮭がこちらに遡上してくる。
大ちゃんは箸をお侍の如く構えてこちらを睨む。
しかし途端に脱力し、すすり泣く。
「切ねえ……切ねえよ……」
弁当箱の角を突きながら大ちゃんは荒波に耐える小舟のような声で続ける。
「七年もだ……七年も想って……十四ん時から!」
「あれか? あの……でっけえ財閥んとこの娘さんかい?」
俺は指折り、彼の言うでっけえ財閥とやらを数える。
薬指を折ったところで涙をこぼしながらささやかな慟哭を上げる。
「好き合ってんのに叶わねえってのも辛えよなあ……」
訳もわからぬまま、俺は大ちゃんの背中をさすっていた。
「シェークスピヤだろ……? そりゃあもう通い詰めたんだろう? 飛び出し窓に……」
冷えた風が話の筋ごと大ちゃんの太腿下にかろうじて引っかかっていたボロ紙を拐わんとする。
「いっけね!」
──バサッ
乾いた音を立て、下駄と革靴との間に雑誌が落ちた。
拾わねば……思うは咄嗟、けれど身体が動かない。
前屈み、首を垂れて、腕を伸ばした形のまま目の前を降下していく学帽を眺めていた。
右目尻の外れに曼珠沙華の赤を見つける。
馬鹿げた格好で固まっている俺を大ちゃんが突く。
「ほれ、ほれほれ、起きれ? 目回すど? また。」
依然として足元でうつ伏している雑誌をよそに大ちゃんはボロ紙と胸を撫で下ろす。
俺は妙な身体の向きのまま視線と声をできる限り大ちゃんの方へ向けた。
「なんだい、それ。」
「嫌だな朔ちゃん、忘れたのかい!」
──英文 第一学年 上原朔也
不恰好な椿の花が描かれた茶色く焼けた紙切れ。
「大ちゃん、こんなもんまだ持ってたのか!」
「当たりめえだろ! 朔ちゃん、俺はな、おめえが好きなんだ。それはもうずっと変わんねえかんな!」
若干の間があって、相当な慌てようで「変な意味でねえ! 変な意味でねえから!」そう言って大ちゃんは「何を言ってんだ俺は!」と頭をかいた。
「わかってるよ。」
この時、心拍の走りが彼と同調しなかったのは、名を奪われていた身体に名が還されたからだろう。
ひた隠してきた破綻の一つが塞がった気がする。
ようやく大ちゃんの膝に戻ってきた雑誌は相当にくたびれている。
俺がすがった安息は、記憶の底のたらいの中。
額とくすみ銀の衝突。
肺が満たされぬまま再び空色に浸される恐怖。
束の間の許しに過ぎなかったのだ。
あれほどまでに落ち着いていた心臓が突如として身悶えし始める。
装丁に掻き乱され、どうにもまともな息づかいのできない俺は絶え絶えに声を絞り出していく。
「あ……あの……あ……れ、は……」
思考に声帯がついていかれない。
このまま行き逝きて帰らぬことすら祈ってしまう。
なのに、確かめずにはいられない。
「あれ……は……読ん……だ?」
──行きはよいよい……
大ちゃんは壊れた人形のように首を捻っている。
「あれ……? あれってあれかい?」
──帰れはしない……
すっかり心拍数の数は形勢逆転している。
──行きは……
「飯沼……太、一……」
久しぶりだ。
口から吐いた蛆が耳から這い上る。
頭蓋内から蝕まれるこの感覚。
今、確実に身体は震えている。
しかし、それすらも認識できずにいる。
大ちゃんの声がしない。
頼む、頼むから何か。
何か言ってくれ。
またあの喰われる瞬間のおぞましい予感のようなものがすぐ側まで来ている。
だから声を……
「ああ……あれな、俺には合わねかったんだ! あの小説は……」
「え?」
「流行ってたやつだべ? 天使がどうだとか。俺は好かん。おめえの詩ィだけでいい。」
この瞬間、懊悩する青年としての自分と、あまりに単純な内包せし少年の自分とが戯れあって、少年が表に出てきてしまったらしい。
「クッセェこと言うな!」
悪態にも似た照れ隠しを大ちゃんはうずくまり、震えながら聴いている。
俺はなんだかもう耐えられなくて、曼珠沙華の首を折っていた。
全ての動きが脳を通さない、身体だけで全てが進む。
青く苦む舌先、鼻先を、頬をくすぐるぼやけた赤。
あえて自分で焦点を外している。
意識ごと飛ばしたかった。
苦みが喉元まで流れた時、後頭部に衝撃が走った。
「やめろ馬鹿! やっぱりシェークスピヤでねえか! ロミオだなそりゃ!」
気づけば今度はまた俺は大ちゃんの背をさすっていた。
曼珠沙華の首は、傍で微睡んでいる。
前髪を風が撫でていく。
死んだ肉のような青い匂いが風伝いに鼻につく。
薄汚れた画架を肩につっかけた男が重々しくこちらに向かってくる。
凍てつく大動脈が熱の全てを消し去っていく。
唇の青ざめていくのを感じた。
大ちゃんはまた弁当の続きを頬張っている。
その間も彼は海の向こう国の哀しい恋の行末を想い、次から次へと並べていく。
コバルトやカドミウムにまみれた手はあの雑誌をめくっている。
大ちゃんのより、もっと古ぼけて見える。
その男は画架をおろし、目の前に跪いた。
文字と、俺とを見比べる。
「長い睫毛……」
目尻から目頭へ、そして涙丘で止まり、ぬめるように下眼瞼を視線でなぞっていく。
まるで目縁を舐めとられるような感覚に咽喉がだらしなく開いた。
「薄墨に空を映したような瞳……」
奴は自分の真っ黒な虹彩で俺の瞳を塗り潰した。
「薄い上唇とそれよりは厚い下……」
死んだコバルトの匂いが濃さを増していく。
手掌の下で曼珠沙華がひしゃげている。
わずかに痛痒い。
「おめえ、これやるよ、うめえど! 栗おこわの丸めたやつ。」
コバルトと包み込むような甘さが混じり合っている。
おそらく今、この場の全員の視線はぶつかり合ってなどいない。
実際、我が視界は水膜に閉ざされ筆洗の底から水面を見上げたような状態なのだ。
耳を閉ざしたくなる音から逃れることもできず、幻触に終りし暴力に錯乱し、それでいてもがく意識を脱力した器に閉じ込めている。
ただ、青ざめていた唇に色が戻っていることだけは神経で理解できた。
鼻先と頬がむず痒い。
ぼやける赤の向こう、黄色混じりの冷えた温みがコバルトの手に包まれている。
もう苦くない。
俺は毒を制した。
きっと、そうだ。
また鐘と、下駄と革靴の音が遠巻きに鳴っている。
──屍肉去り、濁り眼が降らすもの
わずかに早い秋霖に濡れし睫毛の重きこと
我が名戻りてまた還り
行きて帰らぬ……逝きて帰らぬ……




