芒、乾けば秋
──硝子玉咥えたカラスに紛れ
鶸、湿り芒の穂を持って……
「なんだい、君。草まみれでねえか!」
突如として肩を越した声に俺はつまずいた。
「朔ちゃん!」
振り向くと、だいぶ夏と戯れたであろう大ちゃんが朗らかに笑う。
「悪ぃ悪ぃ! まあ夏風邪は拗らせるわ、休暇は爺様が餅っこ詰まらして、酔っ払って骨折って……」
俄かには想像のつき難い、話の脈の見えないまま俺は突っ立っている。
「だもんで豆大福も持ってけなくてな。悪く思わんで!」
頭の中では年老いた大ちゃんが豆大福片手に小石にけっつまずいて倒れている。
下瞼が不規則に引きつる。
「朔ちゃん?」
研究棟の方向から、青緑の背広に中折れ帽を合わせた男が歩いてくる。
「んでな、弟がな……」
「あ……あの……」
顎関節に杭でも打ち込まれたように上手く言葉が出ない。
身体もどうにも錆びついた真鍮の如くぎこちない。
肘ごと変な角度に持ち上げて握り込めない中指より後ろを震わせながら目線を上げる。
「ん? どうした?」
下から覗き込む大ちゃんは、瞬間的に全てを嗅ぎ取ったらしい。
「朔ちゃん……行けっか?」
途端、本鈴が鳴り響く。
急く学生の下駄や革靴もろとも落ち葉までもが焦り転がる。
掴まれて初めて気づく、手首のひどいやつれに小指の外側だけが妙に冷えた。
無音の「無理だ」は唇の後ろで震えている。
「あいつは血も涙もねえ男なんだ! 小村のおっさんが泣くど!」
あいつ……?
俺はずっと思い出せずにいた小村教授の面影をひとつ、掴む。
「分厚い……眼鏡……藤……の花……」
「なんだって?!」
言わなくてもいいことだけはするすると這い出してくる。
曲がる余裕のあった肘は次第に伸びていき、押し上がる肺に追いやられた気管が潰れている。
足はもつれ、脛で地を這った。
喘ぎにもならず、気管を追いやった肺が自分から生まれる汚いもので膨らんでいく。
引き攣り、上ずる呼吸はもはや生命活動の体をなしていない。
大ちゃんの肩にもたれかかり、わずかに白檀が香る講堂の前で俺は足を止める。
進み続ける彼に引かれ、さらに濃くなる冥冥たる香にすっかり怖気付いている。
久しぶりの木造りの床は相変わらず軋んでいた。
開け放たれている前の扉を通れば空気の湿り気が一段と増す。
ムワッとくる脂と綿の混ざり合う匂い。
俺は俺の席を見つけられないでいる。
衆の顔もわからない。
騒めきの音のあることを網膜で理解する。
音は真空管の中、遠ざかっていく。
鼓膜に靄の張り付くような妙な感覚の中で、不規則に速度を落としていく心拍だけが輪郭を持って頭蓋の内で鳴っている。
「ほれ、こんなとこ置くんでないよ!」
大ちゃんの声が片隅で聴こえる。
「これ、おめえのか? オノトでねえか! ブルジョワかい!」
「ハハ! この夏にな。 すまんすまん。」
埃すら被れない机の端を見つめたまま、標本の虫の如く立ち尽くしていた。
「帽子とれ?」
戻ってきた大ちゃんが背伸びをする。
行ったり来たり忙しないこと。
俺より先に席についた帽子。
身体から離れていったものは、途端に他人事に変わってしまう。
あれは本当に俺の……?
「邪魔だ。」
廃墟の一番奥で響くような冷たく、蔑む声に俺は振り向くことができない。
ただ、曇りの窓に映る青緑のぼやけた影が無抵抗な視神経を締め付けた。
肩甲骨のやや左寄り、心臓の背後を何か鋭利なもので押されている。
胸を見下げれば、その先端から滴り落ちる最期までを焼き付けられそうでたまらず視界を闇とした。
「自席につきたまえ。」
まだ自分たちとさして変わらぬような声に鞭打たれ、俺は恐らく自分のであろう空席へと身をおさめた。
──起立!
一拍分、出遅れた。
──礼!
十五度深過ぎた。
──着席!
二拍、遅かった。
俺は押し黙って木目を辿っている。
行き止まるたびにまた左の隅から始めた。
そうだ、迷路だ。
やめよう、やめよう、やめろ。
──相川、赤平、秋谷……
しかし止まらなかった。
──石川、伊丹……
止められなかった。
──植松……
音も意識も遠のいていった。
それでも椅子は不自然なまでに均衡で、机は……
身体より先に自分を自分たらしめるものが飛び出していった。
その後ろ姿を空になった身体で追いかけた。
そうだ、俺だけが空白だったのだ。
世界は……俺以外は、塗りつぶしていたのだ。
日常というマス目を。
はみ出そうが裏移りしようが、掠れていようが取りこぼすことなく。
藤の滑らかな足元を風が吹き攫っていく。
生なき蔓が揺れている。
どこで重なったのだろう。
ひと塊りになった俺と俺は研究棟の前、猛烈な白檀に肺胞を潰されている。
渇きの中で溺れていく。
目尻の側が細かく明滅する。
睫毛につく雨粒にも似た透明が一粒、土の中へ引きずり込まれていった。
示趾の長い、不気味なまでに白い足がだらりと垂れ下っている。
しかし、次の瞬間には土を踏む下駄の足を見る。
そしてまた垂れ下る足を見る。
しまった喉からは呻めきすら漏れない。
喉を掻きむしる。
喘鳴は妄想を拭い去り、俺はふらふらとまだ緑の残る銀杏の巨木を目指した。
──拝啓 小村教授
先日は書きかけにて失礼しました。
すっかりと季節は進み、講堂前の大銀杏も脳天あたりは黄色く変わっております。
先生はもう、あちらに到着なさった頃でしょう。
書物は棚に納ま……
終鈴が分厚い雲の下でこもり、濁りながら土に染み込んでいく。
「朔ちゃん!」
解けた靴の紐を踏んづけている大ちゃんは危うくひっくり返りそうになって笑っている。
「おめえ、そらなんだい?」
「え?」
ふと手元を見て俺は面食らう。
「鳩みてえな顔してっと、そこの椋になめられっぞ!」
確かに頭の上では椋鳥が警戒音を出して怒っている。
「督促の裏に字書くんでねえよ。おめえ前も怒られたべ?」
俺の代わりに大ちゃんの腹の虫が相槌を打っている。
彼はへなへなと俺の横に座り込んで、嘆く。
「俺、あいつ苦手だ。」
「あいつ?」
「見たべ? 小村のおっさんの後釜……いんや。釜に失礼だ! あのアオミドロ!」
俄かにはアオミドロが思い出せず視線は蜻蛉のあとを追いかけた。
「なんだんべ、あのォ……イタミィ、ウエマツゥって! ウエマツゥってな!」
唇を尖らせては人差し指を空に向け、「つ」を釣り上げる大ちゃんに俺はついに声を出して笑った。
「ウエハラァ!」
「なんだい?」
「ウエハラァ! 小生、ハラァが空いて仕方がねえ!」
大ちゃんは顔を真っ赤にして呼吸をおかしくしている。
「ほれ、朔ちゃん。後ろ見てみ! 福が大行列してやがる!」
俺には何も見えなかった。
「また調子のいいことを……」
督促状を鞄の奥底に押し込んだ。
「みつ豆、食いに行かねか?」
大ちゃんの手は鞄の中で冒険している。
「だども今……ぜんざいに栗でも入ってるんでねえか?」
二度と何も食えなくともかまわない。
どうか我を牛にしてください。
そして、この幸福を臼歯で食むだけの命をお与えください。
仏の前で神に祈った。
隣からは、炒り卵の香ばしい匂いが漂っていた。




