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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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宙舞う蜜柑に歪む冬

他人の匂いのせんべい布団で目を覚ます。

身体はすっかり冷え切っている。


ぐちゃぐちゃに丸まった紙屑などひとつも見当たらないこの部屋は一段と寒い。


窓枠で、鮮やかな色をした蜜柑が空を眺めている。

残りわずかな桜の葉が一枚、風に攫われた。


「すまない……! 申し訳なかった……! かたじけない……!」


思いつくだけの謝罪の言葉をかき集める。

もう、何度目かの知らない痛みが頭蓋を取り囲んでいる。


「ああ……。起きたのか。ほれ!」


掛け布団の中に残した太腿の上、大ぶりの蜜柑がぼとりと沈んだ。


「ハハッ。やっぱりまだ残ってんのな! どうだ、代返(だいへん)しといてやろうか?」

「いや、いい。行く。」


外套を羽織ろうとして、そこからムンと昨夜の出来事が匂ってくる。


「お前、飲む顔じゃねえな。」


あの男の言葉を反芻する。

胃から戻ってくる生温い後悔にウッとえずく。


咄嗟に蜜柑を鼻にくっ付けていた。

わずかながら、胸が落ち着く。


二人してドカドカと足音を立て階段を降りていく。


「ほら、大ちゃん! これ持ってきな!」

「いつもありがとうございます、すんません……」

「そっちの学生さんも、これ。握り飯。口に合うかわからないけど。お昼にでも食べて!」

「あ……」

「気にしない、気にしない! いいのよ、うちの旦那なんて酔っ払って肥溜めに落っこって……グフッグフフ……」

「フクさん! じゃあ、いってきますよ!」

フクさんと呼ばれた女性はすっかり思い出の中で笑い転げてしまっている。

いつものことだから気にするな、と肩を二回叩く。

まだ少しぬくみの残る竹皮の包みをそっと鞄にしまった。


歩くたびに脳が揺れる感覚が不快だ。

朝の陽射しが眼球から脳を射抜いてしまっている。


鈍器で殴られたことなど今の一度もないのに、頭の痛むのを「鈍器で殴られたように」などと曰うのは一体どういう了見なのだろう。


下駄に引っかかる小石の如き言葉に悪態をつく。


「またなんだっておめえは貝ひもで首吊って死のうだなんて思ったんだい? 寂しいじゃねえか!」


大ちゃんは小石を蹴り蹴り拗ねて見せる。

声の奥に身震いを感じる。

嘘偽りのなさそうなその言葉に、水仙でも芽吹きそうな感覚を覚える。


「にしたって、随分ひでぇ顔だ!」

「大ちゃん、そりゃあんまりだぜ。」

「こりゃあ逆お岩さんだな、季節外れの肝試しか……ハハハ。」


ありったけの前髪を集めてきて右眼にかぶせてはいるが、隠し切れない。

ああ……昨日の学生崩れめ……

奴は今日ものうのうと……

一度うんと頷いて、想像することをやめた。


疲労した(はらわた)は煮え切らぬ。

鍋肌に当たっても音の出ないほどにしか。


「おめぇなあ、歩く時くらいその鈍器みてえな本やめらんねえのか?」

「本は身を救うって言うだろう?」

「ん。聞いたことねえな……まあいいさ、いい、いい!」

わずかに早歩きになり、半歩くらい前を歩く大ちゃんの外套に雪虫がくっついている。


俺のため息は白くて、この世の終わりの臭気を纏っていた。


大学の門を通ると、唾が湧き上がってきて止まらない。

ああ……「生」を諦めちまったような匂いだ。

それは図書館の横から流れてきている。

俺はなるべくそちらを見ないように、例の本で顔を隠すようにして歩いた。


「なんだい、それ防弾用だったのかい?」

茶化しながら大ちゃんは絵の具にまみれた輩と俺との間を平然と歩く。

「堂々としとけ!」

呼気だけで力強く背中を正された。


つい申し訳なさそうに眉を下げ、会釈なんかしてしまう。

言葉を発しているわけでもないのにしどろもどろしていると、途端に頭を引っ叩(ひっぱた)かれた。

「なんだって頭なんか下げてんだ! おい!」


──ドブ臭い教室の窓は放たれている。


俺は大ちゃんの後ろに隠れるようにして教室に入った。


「おん? 朔、おめぇどうした? 辞典の宣伝かい?」

「いんや、こいつ今銃で狙われてんだ。な!」

「あ……ああ……」


すると右後ろからヌゥっと伸びてきた手がなんなく身を守る術を掻っ攫っていった。

露わになった右眼は好奇と憐れみと蔑みに曝され、瞬間カッと熱くなる。


ぬたりと笑いながら植木輝男(うえきてるお)先輩が言う。

「いつになったら俺の家の柱を食いに来るんだい? 待っているというのに、ひどいんじゃないか?」

桜の花びらのまとわりつく感覚がよみがえり、奥歯のあたりが苦くなる。


すっかり自分というものに辟易していると、大ちゃんが口を開いた。


「憂さ晴らしに、今夜どうだい?」

「こう煮詰まってちゃなあ……」


紙束をパラパラと忙しなく繰りながら、困り顔の後ろで喜ぶ村井。

わかりやすい。


「朔ちゃん、おめえも行くだろう? そのアザのこともな、飲んで忘れちまえばいいんだ。」

「あ……いや、俺は……」

「昨日のお代、払ってないんだろう?」

「ああ。うん……」

「このまんまじゃあ食い逃げで、これ、だど? これ!」


肘と手首とをくっつけて唇を尖らせながら言う。


正直、そこがつかえていた。

そして、金さえ払ってしまえばあの男の記憶もこのアザも全部清算できるとさえ思っている。

同時にそれが人の指に摘まれし雪虫の命と等しいことも、哀しいほどに……


植木先輩はパンパンッと手を叩く。


「よし、(ワタクシ)ウエルテル、可愛い後輩たちのために一肌脱ごうではないか!」


俺はこのあと教壇に立つ教授が不憫でならない。

自分だけは一言一句聞き逃すまいとする。

……聞き逃すまいと、した。


心だけは朝っぱらから暖簾の内側にあった彼らは浮足どころか腰までもが浮いている。

終礼の鐘の()など鼓膜さえ揺らしていないのではないか。

と、ウインストンミンスターの尖り屋根に思いを馳せる。


跳ね馬の如く進む彼らに引かれて、昨日はひとりそぞろ歩いた道をゆく。


ぬめるようなゆるやかさで大動脈を血潮が逆流していくような気の遠のくようなふらつき。

足はもつれ、おぼつかない。

小石と呼ぶには大きくて、石には足りぬものに足元をすくわれた。


いやに哀しい!


暖簾をくぐるのにどうも屁っ放り腰になってしまって進めない。

大ちゃんにグイと押され、敷居に躓き転ぶ。


今日もグラスとグラスの当たる音が軽快だ。


「いらっしゃ……ああ。あんたね……」

「あ……あの、昨日は……」


肋の間に小刀を刺し込まれるが如く、斜め下から向けられる視線が痛む。


「本当にすみませんでした……」


昨夜自分が座っていた席では真っ当そうな勤め人が酔い潰れている。


女はこちらを見向きもせずに「はいはい」とうけあった。


なんとも居心地の悪さを覚えつつ、注文をとりにきた彼女に「ラムネはありますか?」と聞く。


「ええ。」


酒とラムネとが卓に並ぶ。


乾杯を済ませ、カラカラとビー玉を瓶の中で転がす。

もくもくと重たいタールの煙が流れてくる。


「お前も吸ったらどうだ。」


肺にドス黒いものがしんしんと降り積もっていく。

今にも咳嗽と共に噴き出しそうなもどかしさを弾ける甘さで押し流している。


「飲め。」

そう、耳打ちされた。

目の前にはなみなみと、無害の顔をした透明がほんの少しべたつきながら座っている。


その透明の形をそうたらしめるものをギリギリと握る。

いよいよその薄ガラスが砕けんとした時、大ちゃんがとりあげて一気に飲み干した。


腫れに腫れた右眼もバチリと開くほどに驚いている。


「俺は今日は飲みてえ気分だったんだ!」


赤くもない頬と、虚ろではない目で大ちゃんは言っている。


俺は残りのラムネを飲み干す。

先輩の瞳と声の熱が上がってきた頃、俺は店の中を赤ん坊の如く這い帰路に着いた。


途端に言葉がシトシトと心を湿らせる。

──急がねば。


足を急かす。


シトシトからザンザンに変わる。

──心臓が跳ねる。


──街灯に群がる蛾もまばらだ。

「寒かろうに。」

「構うものか。」


ダン、ダンと踏めばキシ、キシと答える階段を登り切り引き戸を開ける。


カサ……

踏み入れた瞬間に月灯りで浮かび上がる床の上の残骸たち。

広げたところで、文字同士が抱き合った末に溶け混ざり生みの親すらその顔がわからぬのだ。


帽子すら取らずに、机に向かって筆を動かす。

墨を削る時間すら許せない。


──憂さは相も変わらず我が空を曇らせてゐるのです。

瓶の中のビー玉の、瞬間踊り時折唇に触れるのを舌で押し返しながら飲むことは生のように難しい。

跳ね返さなければ、喉を詰まらせ死んでしまうらしいので僕はこうして無我夢中でいるのです。

夜だというのに、我が空は曇天だというのに、瓶では、ラムネの瓶の中では僕たち、絶へず笑うておるのです。


小っ恥ずかしくなって、くしゃりと丸めた。

屑籠めがけて投げた。

しかしそれは、日焼けた畳の上にぽとりと落ちる。


広げた手には、墨の跡が掠れたようについている。


敷きっぱなしの自分の匂いのせんべい布団は、今日もお役御免になりそうだと、とうに深く深く眠っておられる。


右眼はいまだに疼いている。


「おめえ、その実暴れたいだけだったんだろう?!」


ああ、でも今夜は違う。


──窓枠の蜜柑は夜の月に、何を思う。

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