肺の中の花火
相変わらず、肺に張られた蜘蛛の糸で囚われの蝶がもがいている。
膿と月灯りの垂れるのを、時が過ぎ去るのを待つだけの物憂さを、一夜の間に味わい尽くした。
──桜の顔した楠がおすまし声で言うものだから、昨夜は上手に眠れませんでしたよ。
否。
俺は便箋で鼻を黒くした。
まるで泥まみれの少年だ。
蓮のお池の周りをぎこちなくスキップしていく麦わらのよく似合う……
睫毛が朝陽を拒絶して、夜闇に背中を撫でられる。
どっちつかずの静けさにうつらうつらしていると、意識は蓮池の底に沈んでいる。
泥水が肺に染み込み、光がすっかり消えた頃。
鬱積した感情を吐き散らかすが如く、気管支が叫ぶ。
バリバリと張り裂けながら、咽頭を破っていく。
息つく間もなく急く、急くと背中を丸め、いよいよまたあの毒とも思え始めた重たい水飴に手を伸ばす。
勢い余ってインクの瓶をひっくり返した。
書きかけの便箋の端が黒く染まる。
甘き泥水に左脳を潰されて、痺れる唇はやや開き、放心で黒の行先を見つめている。
頭の重みを引き受ける左腕が痺れ始めた。
すっかり霞んだ桜の文字をなぞれば、まだ指はぼんやり青黒くなるけれど、陽にかざしたとてもうこの身はほどけてなどいかぬ。
「夢など見ている場合か。戯け者。」
向かいの瓦で弾けた光が枯れ花の小瓶に反射し虹彩を殴る。
俺は眼を瞬かせながらまっさらな紙にインクを滑らせていく。
──お天道様にたしなめられて、そろそろ顔など洗いに行こうかと。
紙の上ではなんだって言えるのだ。
無論、顔など洗ったところで伸び過ぎた横髪が濡れるのみでみっともないのだから夜と地続きのまま、生活を繋いでいけばいい。
誰に見せるわけでもなく、自分で見るわけでもないのだから。
──嘘も方便なんてことがあるものか。
ふと、聴き覚えのある声が耳石を打った気がする。
万年筆も、そろそろ焦ったいと暴れかねぬ頃合いである。
マス目だけの原稿用紙と、端の黒い便箋とが乾き始めた風に揺れた。
ズン、と右眼が重くなり触れてみる。
トク、トク、と波打つ。
コロ、コロ、と指の腹から逃げる柔い球。
特段、変わった様子はない。
ただ、何かを忘れたことを忘れたような不明瞭が喉元につかえている。
気付けば下駄を引きずっていた。
肺底で花火が弾けるのでその度うずくまっていたものだから、空は刻々と色を濃くしていった。
──齢二十一にもなろう学生さん、場末酒場でラムネとは……事実とすれば、随分と童心なのですね。
この言葉がひたすらに万年筆を跪かせた。
夏空を翡翠越し覗きみるようなあの瓶で真正面からぶん殴られたような感覚が蘇ってくる。
どこかつかみどころのない、偽物の記憶。
咳き込む度に、肺から溢れたガラス玉が夜道を濡らす。
地面に落ちた泡に街灯の薄橙が映る。
酒場は目と鼻の先。
平静を装う心臓の強がりをどうにか叶えてやりたいと、祈るように顔を上げた。
古びた寫眞から抜け出してきたような色の蛾がバタバタと街灯を叩き回っている。
ああ……
空が狭まっていく。
ひとつ、またひとつ、街灯りが消えていく。
瓦斯灯の揺らめきは子守唄だ。
人の群れが遠ざかる。
砂をはたいて、束の間の眩暈。
すれ違いざまの酒の気配を吸い込めば、まるで酩酊。
自分ごと。
けれど肝は清らかで、思考だけが焦がされていく。
自家中毒の成れの果て、千鳥足で街を背に帰りゆく。
半欠けの月を指で囲んでみたが、俺には随分と贅沢に思えた。
身の丈に合うようにと瞼を下ろす。
生垣の奥、日に焼けた向日葵が長い居眠りをしている。
──逆さ向きの彼岸花燃ゆれば、鼻の奥を痛めながら月を眺めることでしょう。
僕はまだ少年の夏を瓶の中で演っているのです。
もう、二言三言は万年筆が飲み干してしまった。




