鞠菊の月と肺
──桃の種を五、六……
裏のお庭に埋めたところです。
湧き立つ言葉に急かされて、僕はもう粉々の肋骨と自由になった肺とで大いに笑うております。
万年筆を置き、身体を伸ばす。
途端に胸が笛のように鳴り、その終わりには肺が泡の如くパチパチと弾ける感覚がある。
胃が重くなるばかりでその実、そろそろ毒だとも思えてきた水飴をまたひと舐めし、床につく。
窓の外、鞠菊のような月が浮かんでいる。
その手前、薄霞が滑る。
鈴虫も過ぎたるはやかましく、下の瞼を黒くする。
開けっぱなしの窓からは、夜香木が仄甘く追い討ちをかけてくる。
──長田桜
「おさだ……さくら……」
封筒の裏の文字を指でなぞる。
うつらうつらしながら幾度となくなぞる。
桜が指先を青黒く染めた。
儚くも強く、強くも寂しげな筆跡に翳りの瞳を見てしまう。
どこか闇に怯えるような、掴みどころのないような、それでいて逃げようにもその術を持たぬような、えもいわれぬ哀しみを。
人差し指の黒いのをあの鞠菊にかざしてみれば、俺の身体は指先から少しずつほどけていく。
まるでリボンのように。
夏の夜に、睫毛の先で薄紅が散る。
ちぎれていく意識の中、見覚えのある後ろ姿が震えている。
一番近くて一番遠い場所にいる。
「桜の姫様……」
物心ついた頃からそう呼んでいる。
顔も、声も知らないけれど。
依然として青黒い闇に紛れていく指先を懸命に伸ばす。
とうに砕け散ったはずの肋が疼く。
彼女の姿はない。
夜香木の香が無情にも肺を痛ぶる。
内から外から、嘲笑う。
やめろ……やめろ……
霞に隠れた空の菊を睨みつけ、犬歯をギリギリと鳴らす。
広い広い空の下、俺はあまりにもちっぽけだ。
あまりにか弱い狼だ。
右から溢れる怒りは左の瞳を傷めつけ、その傷から流れ出る寂しさは枕を染めていく。
瞼で世界を閉ざそうとすれば妨げられるのに、留まろうと試みれば連れ去られる。
身の丈に合わぬほどの分厚く大きな物語を抱え、はらはらと舞い落ちる一枚の薄紅を虚ろに追いかける瞳は、割れ硝子の如く潤んでいる。
気づけばまたその後ろ姿を追っている。
伸ばした指先の、曲がりの無さに「これは夢か」と落胆する。
そしてまた肺に瞼をこじ開けられ、菊色の月が映れば、いたけき狼は枕を噛んで唸るのだ。
喉に絡む蜘蛛の糸に悶えながら。
夜の帳は一重なのに、我が睡の掛布は幾重にも折り重なっている。
横たえた身体は、震えることなく凍えていた。
その傍ら、滲んだ桜が揺れる。
再びそれをなぞれば、指と紙の擦れる音が嗚咽と混じり合う。
そしてその後は鈴虫にかき消された。
微かに動く唇から漏れた「置いていかないで」の言葉は少年のように澄んでいて、異様なまでに叫びだった。




