空蝉の少年の瞳
夕立が紙の中の空蝉を濡らし、少年の涙を隠す。
俺は雷鳴に耳を塞ぐ。
建て付けの悪い窓硝子を風が殴りつける。
歪んでいく空想の檻の中、空洞の言葉が生まれては死に、死んでは蘇り、蘇っては腐ることを繰り返している。
──或る学生は、幼少の時分の面影を分つ少年に百も空蝉を与えたといふ。
光を嫌い、愛を疎み、夢を忌む。
小窓に釘を打ち、空を取り上げ暗闇に閉じ込め……
喉から掠れた息が漏れた。
少年の開き切った瞳孔が網膜の裏にべったりと貼り付いている。
俺は慌てて原稿をグシャリと握りつぶし放り投げた。
白み始めた畳の上、蘇ろうとするそれを首でも締めるが如く押さえつける。
呼吸が荒い。
瞼は重く、思考は上ずる。
自分の左口角が引き攣るのがわかる。
「あと……九十七……」
妙に低い声でそう言ったことは覚えている。
感覚のみをこの身に残し、欲望に締め殺された理性の囁きとでも言えば納得がいくだろうか。
俺は自分が何を考えているのか今、皆目見当もつかない。
考えれば考えるほど、前頭葉が霞む。
眼球がひっくり返った。
何事もなかったかのように差し込む朝陽に怯える。
前髪を掴み、額を机に押し付ける。
布と汗の混じり合う、生温かい匂いに咽せ返る。
ああ……生きてしまった。
目線を上げれば小瓶で秋明菊の白が穏やかに揺れている。
「悪趣味だ……」
ふいに揺れた声帯に驚く。
蝉のぎとぎととした声に、風鈴の捲し立てあう音。
微かに混じる白檀の匂い。
紛うことなき夏と対峙しながら、俺は原稿用紙の右上、「あ」の一文字に頭を抱えている。
黒の尻軸で白い花を小突いた。
白が黄色く汚れた。
ただ、それだけだった。
色のついた炎が紺色の空で玉砕していく。
一糸乱れぬ統率で、同じ高さまで昇っては揃いの色で破裂する。
──ドォーン……
まるで断末魔だ。
見えぬ糸に吊り上げられ、覚悟も躊躇もないままに。
未練も記憶ももろともに。
美しくってたまるものか。
所詮命は他人事。
この世は醜い。
空を眺め、半笑いを浮かべる。
「可哀想に。」
俺も所詮は浅はかな悪魔だ。
空の花を見下して、まだ自分は正気だと信じている。
あの少年はいくらでも空蝉を集めては服に貼り付けてくる。
一体どこから外に出ていっているのやら。
逃げたなら逃げたまま、どこかで生きればいいものを。
わざわざ俺のところに戻ってきては目も合わさず、喋りもせず、虚ろな目をして空蝉を摘み上げている。
俺は奴の後ろに周り、その指を包み込み、空蝉を砕かせる。
また俺の目も虚ろだ。
「九十六……九十五……」
──その無抵抗に腹を立てた男は空の見えない部屋に閉じ込めた少年に命じる。
「この釘で、我が手掌を打て。」
虚ろなまま怯える瞳。
小さな手は震えている。
その手に錆釘を握らせ……
「俺の目で怯えるな!」
ムンと生き物の匂いのこもった部屋に俺の声だけが響く。
至極むごい、下品な行いだ。
悪魔の中でも殊に残忍冷酷である。
妙に淡々と自身を罵った。
どこか他人事なのだ。
しかし紙の上には罪の告白が残されていて、あの華奢な手を握った時の痺れも覚えている。
指先から熱が消えていく。
罪は少しずつ黒く滲み、輪郭を失っていく。
朝陽はまた、当然といった顔で降り注ぐ。
地続きの日々はよくもまあ腐らないものだと変に感心する。
蝉はいつまでも鳴いていて、風鈴は夜毎に音色を増していく。
今日はひどく暑い。
窓を大きく開けたところで入ってくるのは下宿人たちの浮かれ声だ。
「ほれ! もっと左! いや右! 右!」
小石を棒切れで撥ねる音がする。
「いいぞ! あとちょっと左! そこだ!」
鈍い音が響く。
俺は耳を塞ぐ。
後頭部でもぶん殴られたような衝撃に脳が揺れた。
脳から鼻の奥に仄暗い甘さが滴る。
わずかに鉄の匂いがした気がする。
「ちょっといいかい? 入るよ!」
言い切らぬうちにイヨさんはズシズシと部屋の真ん中まで入って来ている。
西瓜の匂いを連れて。
俺は窓を背に壁にもたれかかったまま、「ああ……」とだけ言った。
否、声が漏れた。
ぬるまった西瓜の甘ったるい匂いに脳が蕩けおちる。
「あら、やだよ朔ちゃん! あんたこれ……」
俺はまた何かおかしなことをしてしまったのだろうか。
半開きの目を動かし部屋を見回す。
特段おかしなことはない。
強いて言えば右奥の畳の縁が浮いているような気もする。
「全く、のぼせたのかい?」
そう言って、いつも首から下げている手ぬぐいで俺の鼻の下をこすった。
「落ちやしないね! まあいいね。ちょっとマヌケなくらいにした方が人間らしくて……」
湯気越しの如く、声がくぐもって聴こえる。
本当にのぼせているのかもしれない。
「朔ちゃん! 朔ちゃん!」
俺は右中指にできた胼胝を親指の爪で擦る。
目を閉じるたびに名を呼ばれ、名を呼ばれるたびに目を閉じる。
そんなことを繰り返していると、刹那に前頭葉の靄が途切れた。
俺はスゥっと一気に息を吸う。
痛む気がする後頭部を撫でるが何もない。
砕けた西瓜の向こう側、眼鏡をかけた女性何やら熱心に読んでいる。
「起きたかい?」
イヨさんの声だ。
しかし……
俺は目を擦り、限界まで眉間に深い谷を作り、その顔を眺めた。
イヨさんだ。
間違いなくイヨさんだ。
しかし……
「いやだね、そんなに! ああ、これかい?」
眼鏡を外して見せる。
いつものイヨさんだ。
「朔ちゃん、今あんたが思ってること当ててやろうか?」
この悪戯っぽい目、やはりイヨさんだ。
だが、このつかえは何だ?
夏祭り、屋台の灯りの反対側で声も出せずに闇を飲み込んだ時のような胸の重みは何だ?
──イヨさん、あんた文学なんて興味ねえだろ?
俺の声だ。
動いたのはイヨさんの口元だ。
でも、俺の声だ。
「ほれ、ここに出てくる学生さんがあんたにそっくりなんだよ……髪が……」
目の奥がズンと、重く熱い。
目を閉じたい。
閉ざしたい。
光が沁みる。
痛い……痛い……
何か言いたい、それなのに顎がカタカタと不規則に震えるだけ。
頬を熱が通り過ぎるたびに痛痒い。
膨らみ続ける肺が苦しい。
「とにかく、西瓜食べ! あとそれ、読んでいいから! あ、でも西瓜の手ェで触るんでないよ!」
彼女がいつ階段を降りたのか、否、降りたかすらも俺は知らない。
俺は急き立てられるよつに雑誌に覆い被さり、背中で光を奪った。
そしてバラバラとめくっては戻し、まためくっては戻すことを繰り返した。
核心をつけず、焦らされているような、嘲笑われているような苛立ちを覚える。
俺はただ、確かめたかった。
自分がそこにいる、ここにいる、感覚としてではなく現実として。
──長い睫毛……
右の中指の先で、左の睫毛の束を目頭から目尻に向けて撫でた。
──薄墨に空を映したような瞳……
秋明菊を挿した花瓶を手に取り顔に近づける。
薄い上唇とそれよりは厚い下唇を親指でなぞった。
ほんのわずかに湿っている。
最後、ガラス玉のように透明な声……
喉が詰まって声が出なかった。
ぬるまった西瓜に蟻が群がっている。
夕刻、ひぐらしの鳴く頃のことだった。




