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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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片翼の天使は墜落の夢を見る

──堕ちることすらできぬ天使。

翔べない天使は墜落への憧れを捨てきれず、折れた片翼を引きずり白い階段を昇っていく。

その虚ろな瞳は今、何を映している?


濡れた左肩を壁に沿わせ、俺は昇っていく。

たったの十五段が途方もなく遠い。


五段昇っては跪き、這い上っては腹を打つ。

また零から始めても、頭が揺れてしゃがみこむ。

幾度となく足を踏み外す。

その度に、上へ上へと急かされる。


否、可視化不能の鎖に首を引かれている。

はなから身体の均衡など保たれてはいないのだ。


そうだろう?

俺の左の翼はこの世に生まれ落ちた瞬間からへし折られているのだから。


天界への最後の一段。

きっとまた堕ちられる。

身体のふわりと浮く感覚に憧れて、俺は意図的に焦点をぼやかした。


気づけば木造りの床に膝をついている。

湿気でべとつく生温さに両手をつく。

左手の下に水が溜まる。

その水たまりに右の人差し指を浸す。

まるで筆尖(ひっせん)にインクを吸わせるように。


夢中で指を動かした。


──上……原……朔……也……


新月の雨降りに、それはあまりに残酷だった。


──…………………………………………


初めから俺に名前などなかったのだ。


重々しい引き戸を開ければ空っぽの虫籠がせんべい布団の上で口を開けている。

まるで帰りを待っていたかのように。


──透明な天使には名を授けてやらなければならない。

さもなくば好き勝手に翔び回り、愚かしくも人間を翻弄する。

(もっと)も、あの片翼ときたら地を這いつくばって美しさを損なってしまう。

では、早急に契約者の名のもとに与えてやらねば。


左手の指先が紙束の角を濡らしている。

いつから触れていたのだろう。

だが、この中に自分の名があることに俺はとうに気づいていた。



──上原朔也君

読みました。

酒場とラムネ、成年と少年の(はざま)のきらめきを紙の中に閉じ込めるのは君の巧いところですね。

飯沼太一──


端と端を折り合わせ、目の高さから落とした。

音もなく、無抵抗だった。


──上原朔也君

平安の女流文学者との逢瀬はいかがでしたか。

沈みゆく夕陽を奪った君の瞳はさぞ美しかったのでしょうね。

飯沼太一──


小さく、小さくたたみ飴でも食わせるみたいにぽとりと放り込む。

わずかに音を立てながら(ほど)けていった。


──上原朔也君

指の傷はいかがですか。

血の滲むときの疼きに触れてみたかった。

飯沼太一──


そのままの姿を人差し指でグイと押し込める。


このままひと思いに蓋を閉めてしまえばよかった。

でも俺は()らしてやりたかった。


鮮やかな紅が穢すのを、忍び込む街灯が怪しげに浮き上がらせた。


指の疼きがひどい。

氷のように冷えた指先から滴り落ちる心臓の熱がまとわりつく。

まるで自分ではない誰かに包み込まれるようで気持ちが悪い。


ささくれ立つ畳の上はまだ、白が重なり合っている。

それらをかき集め、腕を天に伸ばせばその白は舞い上がり薄暗い部屋を満たしてゆく。

まるで、抜け落ちた天使の羽根の如く。


一枚が左肩を掠める。


──君の翼は折れていてこそ美しい。羽ばたきを阻まれ、悔しさに潤む瞳。そこに映る僕の微笑みが頬を通り、顎をつたい、その傷へと落ちる。そしてもがくのだ。暴れれば暴れるほどに血は失われていく。叫べば叫ぶほどに、その喉は歌を忘れていく。でも、それがいい。穢れきる前、澄んだ少年のまま……


物語の続きを求める唇と、俺のではない声とが重なる。


窓の外、蝉の声が止んだ。

左手で作った望遠鏡を睨みつけたとて、見えるものは曇った青黒い瞳だけ。


頬に触れる指の冷たさが束の間、身体中の枷の重みを忘れさせる。


──片翼の天使は、月のない空を虚ろに見上げ、墜落の夢を見ている。

空の色を奪った瞳で。

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