紺衣の天使、雨に唄えば
たらいの中の青空に足を浸せば、趾の間を白雲が流れていく。
澄まさずとも聴こえる風鈴の音が心地良い。
俺は縁側で西瓜を食っている。
浴衣の袖をベタベタに汚しながら。
イヨさんは竹竿に洗い立てのシャツを着せつつ、
「どうだい、朔ちゃん。美味いかい?」
と背中で聞く。
俺は首がもげるほどうなずいた。
彼女の隣ではもう幾日かで咲きそうな向日葵が頭重たげに揺れている。
「朔……」
振り向いて俺の顔を見るなりイヨさんは手を叩いて大笑いし始めた。
「やだよ! そんな詰め込んで! 子どもじゃあるまいし……」
頬張り過ぎてもごもごとする俺の背中を叩く。
残りの洗濯物をかごに残したまま。
傍らでは陶器の豚がぶうぶうと煙を吐き出している。
「そうだ! 種、飛ばすんじゃないよ!」
そう言ってイヨさんは慌ただしく部屋の中に戻っていった。
そこから俺はまた西瓜を頬張った。
たらいの水をぱしゃぱしゃと蹴飛ばし、豚の口の中の渦巻きの灰を吹くなどしていた。
ついでに種の二、三粒は出来心でぷっと飛ばした。
すっかり腹も膨れ、ふいに睫毛が視界を阻む。
心地よく降参し、「うーん」と腕を広げながら身体を倒していく。
西瓜でベタベタになった手を空にかざす。
指の隙間を風が抜ける時の爽やかさは、まるで自分が空から降りてきたかのように錯覚させる。
あくびをひとつした後で、俺は束の間夢を見たような気がする。
──ギィ!
緑の濃くなった垣根の向こう、郵便屋の自転車が停まる音がする。
目を開けると、腕の上で腹を真っ赤に膨らませた蚊が微睡んでいる。
もう一度、夢の扉を叩こうというところで、イヨさんがドタドタと駆けてくる。
「朔ちゃん! 朔ちゃん! あんたってのは本当に!」
イヨさんの顔は西瓜のように真っ赤だ。
──督促状。
赤く掠れた三文字が、俺の名前に重なっている。
そう言えば、横光利一の本を返していなかった。
封を切らないまま、俺はまた目を閉じる。
西瓜の皮の歯形の上、蟻が行列を作っていた。
晩になり、激しく雨が降る。
自室の窓から街灯に照らされる傘の花を眺める。
俺は傘を学校に置いたままにしていることを思い出す。
久しく開けていなかった鞄に、しわになった開かずの封筒を突き刺しそのまま眠りについた。
風鈴の音で目を覚ます。
──リーン、リーン、チリーン、リーン……
いくつか、おそらく三つほど。
仲良く歌っている。
音の出どころを探ろうと、窓に向かって立ち眩む。
机の角にぶつけた小指はジンジンと痛む。
じんわりと瞳に膜がかかり、目尻から耳につたい落ちる。
次に目を開けた時にはもう随分と陽が高く畳と俺の腹とをジリジリと灼いていた。
汗ばんだ寝巻きを脱ぎ、紺の麻の浴衣を肌に重ねる。
学生服は部屋の片隅で行儀良くしている。
「行ってきます。」
イヨさんがドタドタと走ってきて、
「何だい洒落ついて!」と肘で小突く。
「ちょっとそこまで。」
俺も気取った風に返す。
「気をつけんだよ!」
右手だけで返事をして、下駄で地を打った。
もう昼も近い。
道中、味噌汁だの魚だのの匂いが押し寄せて鼻の中だけで俺は定食を十は食ろうた。
凹んだ腹をさすり、「満足、満足」などと呟いていると、川っぺりの道まで来ていた。
葉桜の色の濃いのが影を作り、心地の良い風が吹いている。
しばらくその風に当たっていると、三、四歳ほどの子どもの泣くのを見つける。
子どもは苦手だ。
そろりそろりと身を縮こめて下駄を引きずっていると、がっしりと袖を掴んでいる。
顔中鼻水だらけにして、この世の終わりとでも言わんばかりにおんおんと叫んでいる。
困り果ててしまって俺は眉を下げ辺りを見回すが、ちらちらとこちらを向いてはひそひそと口元を隠すご婦人たちに、幾度も振り向いては訝しむどこぞの親父ととりつく島もなし。
俺はしゃがみ、叫ぶ子どもの目を見上げる。
「おめえ、どうしたんだ? 迷子か?」
答えはないが、かわりに俺の髪を撫で虚ろな目をし始める。
「眠いのか?」
問いかけるとまたおんおんと泣き出した。
この子があまりにも泣き止まぬので、思いつきで西瓜の馬車で舞踏会に行く話をしてやった。
話し終えた頃には、幾人もの子どもに囲まれており
「もう一回! もう一回!」
とせがまれる。
もう何度目かの同じ物語を始めんとした時、
ふいに虚ろな瞳の少年に気づく。
彼の首に下げられた虫籠には、蝉の抜け殻だけが詰められていた。
散々泣いていたあの子はすっかり笑顔になり、父親に手を引かれて帰っていった。
すっかり遅くなってしまった。
なぜか気が急いている。
微風の中の化け物に背骨をグイと押されるように、
開け放たれた門の端に腕をぶつけながらあの廃墟と化した研究棟へと走る。
緩急のある構内の道は、陽射しも相まって身体にこたえた。
湿った風と吐息とが混じり合い、吸えど吐けど脳の溶け落ちる感覚に眩暈がする。
額から落ちた汗が睫毛に弾かれ視界の端で砕ける。
紺の浴衣はすっかり青黒く、背中にべったりと貼り付いている。
陽に見張られぬ死角。
研究棟の窓枠は苔に縁取られている。
クチナシが藤の根元で黒く息絶えている。
その傍ら、傘が閉じられ立てかけてある。
まるで、朝陽を待つ朝顔の蕾のように。
──朝露のこぼれぬように、そっと。
傘を手に取ると風は止み、背後の得体の知れぬものも去った。
聴き慣れた鐘の音が聴こえる。
俺はまたあの緩急に喘ぎ、陽の眩しさに顔をしかめる。
白と黒の正しい学生たちがばたばたと建物に傾れ込んでいく。
彼らとは行き先を違える紺色の俺は流れに逆行している。
一人の学生が通りすがりに会釈をした。
その視線は足から頭までをすーっと撫で上げた。
彼の隣の学生が閉じた傘を不思議そうに眺めた。
その後ろの学生は指をさしてそっと何かを囁いた。
──見えるのですね、僕の影は戻ってきたのですね。
彼らの瞳の奥の怯えすら愛おしい。
ただただ嬉しかった。
俺はここにいる。
鞄から西瓜の汁で汚した督促状を取り出す。
──上原朔也
ちゃんと、いるじゃないか。
気づけば駆け出していた。
鼓動の乱れ打つのも、肺がひっくり返りそうなほどに息が荒いのも今はどれも
太陽をからかいながら俺は走る。
あの本屋の前まで来た。
あの日見た檸檬は勿論、ない。
文学雑誌が目につく。
迫り来る文字にたじろぐ。
しかしその文字のほとんどは俺に致命傷など与えられぬまま崩れ落ちていく。
勝った!
俺は勝ったのだ。
あの呪いを克服し、透明な檻から飛び立ったのだ。
形勢は逆転している。
覚悟を決めろ。
その、白い世界で身を横たえている者の名は……
──飯沼太一
戦士の残党のごとき文字を読み上げた。
脳の奥、蛆の蝕む音がする。
心臓を貫くが如き痛みに跪く。
「あの子は生まれた時から翔ぶ羽根をへし折られてるんだ。それも左だけ。そこが美しいんじゃないか。苦痛に歪み、震える睫毛の奥の澄んだ瞳。あれが曇っていくのが……僕はたまらなく愛しいんだ。」
──ボツ、ボツと乾いた砂に真っ黒な穴があく。
次から次へとボツ、ボツ……
ボツ、ボツからザアザアに代わり、俺は焦点も合わぬまま傘を広げようとした。
骨が折れ、歪に開くその傘で降り出した夕立の中を踊り歩く。
左肩ばかりを濡らしながら。
向日葵の咲く前の夕立は生温く、腕をつたうのは雨か血か。
今ばかりは痛みですら美しい。
朦朧に酔いしれて、地を這う天使はどこへ向かう。
夕刻色の衣では、もう誰にも気づかれぬ。
中身の抜かれた封筒は濡れることなく書店の軒下でわずかな風に揺れていた。




