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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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主人なき虫籠

物理的に肺が潰れる苦しさに、左目だけで目を覚ます。

瞬間身体がぶるぶると震え出した。

右頬が湿っている。

枕は部屋の隅にすっ飛んでいる。


睫毛の影の先には空っぽの虫籠があって、その中でいくつも人参が干からびている。

それを食らう主人(あるじ)もいないというのに。

俺はまたほのかな希望なんかにほだされて毎日せっせとご馳走を届けていたのだろう。


頭が割れるように痛い。

喉は灼けるように痛い。

溺れたあとのような怠さと得体の知れない焦燥感は続いている。

それでも腹の虫が鳴く。

(から)の虫籠の前で。


──トントン、タタン、トンタタン……


足音が階段を昇ってやってくる。

この跳ねるような拍子はイヨさんだろう。


こんな時でもいたずら心がはたらいて、天井を向いて寝たふりをした。


すーっと扉をひく音がする。


案の定、騙されてくれたイヨさんは抜き足差し足音を立てぬよう歩く。

茶碗の中で木の匙がわずかに動くのが聴こえる。

盆の底が畳を擦る。


ああ……

粥の温かな匂いだ。


瞳を閉ざした分、耳と鼻の神経が研ぎ澄まされている。


カサリと紙をおく音がする。

これは少し遠くだ。

きっと窓の下、机の上だろう。


瞼越しにイヨさんが顔を覗き込んでいるであろうことがわかる。

きっと、すごく近い。


布団の中、鳩尾に住む虫を親指二本で黙らせる。

口の中に溢れてくる唾液を飲み込めず、今にも溺れてしまいそう。


機は熟した。

勢いよく目を開けると案の定イヨさんは驚いて

「イヤアアアアア!!!!」と大声を上げてひっくり返る。


頭の痛いのも忘れてイヨさんのひっくり返っているのに笑ってしまう。


イヨさんは、怒りながら笑っている。

「死んだふりするんでないよ! 私ャ熊か!」

そう叫んで、とんでもない勢いで俺の舌下に体温計を突っ込んだ。


一分と経たぬというのに彼女はそれを引っこ抜く。

「ほれみろ!」と印籠の如くズイと顔の前に近づけてくるが、俺には銀色が見えなかった。


起きあがろうと肘を下げた途端、猛烈に咳き込む。

イヨさんは俺の身体を起こし、背中をさすってくれた。

少しばかり骨に擦れて痛かったが、その丸く優しい手の(ぬく)みにしばし身も心も委ねる。


「朔ちゃん、あんたもういい加減食べねえと死ぬ。食べ!」

イヨさんのあまりの剣幕と勢いに怯む。


土鍋の蓋が開けられる。

ムンとした米の匂いに嗚咽する。

蓋の裏の温かな雫が、穏やかに沈んでいく。

椀へと注がれる時のわずかに重い音が妙に心地よかった。

拒絶と渇望の間を泳ぐ。


匙に乗せられた粥がいよいよ唇の前に差し迫ってくる。

きらきらとして、匙から垂れ落ちる重湯は艶かしい。

それを見ているうちにおのずと唇は開き、品なく舌が前のめり気味に求めている。


しかし、まだ身体は拒否している。

本能は欲しがっている。

本来逆だろうと我が身ながらに呆れ果てる。


理性が本能に犯されて、身体を奪われていく背徳感。

匙が唇に触れ、肌よりわずかに熱の高い煌めく白が下の上に流れ込んでくる。

喉を通る時には、温度を分け合って滑らかに過ぎていく。


心音が、脳で鳴る。


イヨさんはとにかく食わせたいのかひと匙がいやに大きい。

それに応えるように本能は無我夢中で唇をこじ開ける。

依然として抵抗を試みる身体を俺はもう認識できない。


口の端からはずっと重湯が垂れてきて、顎をつたい胸元に落ちる。

その感覚にすら恍惚を覚えてしまい、嫌になる。


最後の一滴を飲み干した時、ふとあの呪いの言葉が意地悪く攻め立ててくる。


──君の言葉はみずみずしくていい……


途端になりを潜めていた蛆が暴れだす。

震える手で耳をおさえれば脳を貪られる。

胃から食道、喉までを凄まじい速さで喰らい這い上がる蛆ども。


目の奥が痛む。

折重なる蛆の蠕きに視界を閉ざす。


この破壊の動向は閉ざせば閉ざすほど、研ぎ澄まされてしまう。


粥が形を変えた優しい毒だとて、俺は優しさの方を信じていたかった。


だから祈るように口をおさえている。


蛆ならば、毒ならば、腑ごと、いいや、考えてしまうこの忌々しい脳ごと吐いてしまいたい。

優しさなら、どうか……どうか……


それでも、優しい毒になら殺されたって構わない。


蛆の音が束の間遠ざかる。

音のない世界で心臓の不規則な刻みを聴く。

細切れにしか吸い込めない空気に肺が震えている。


指の間をすり抜け、手首、上腕、肘をつたい浴衣の袖を湿らせる。

強く、強くおさえつけても閉じ込められない。


また激しく咳き込む。

イヨさんの柔らかな手が背中をさすっている。

睫毛が濡れている。

視界が滲む。


苦しい……苦しい……


俺が吐き捨てたのは優しさだった。

何の穢れもない、ただただ白い優しさだった。


──でも、聞きたかったな……

──君の声で。


あれから、どのくらいの時が過ぎたのだろう。


せんべい布団に預けた背中が軽やかだ。

ただ、身体はもう浮かんでいなくて穏やかに重力と溶け合っている。

外では気の早い蝉が歌うのが聴こえる。


空っぽの虫籠は真に空になって、窓辺の机の紙束の上で新しい季節の風をとらえている。


「おはよう。」


そう呟いた声はまだ掠れていたけれど。

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