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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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雨が穢す白き夢

傘を打つ雨音が、痛いほどに静寂を呼び寄せる。

閉ざされた廃墟の如き研究棟の前の藤棚の下、俺は佇んでいる。

抱えたクチナシの花は俺のシャツの白と溶け合いながら甘く香る。

その香りはいとも簡単に、麻酔に落ちる二秒ほど前の恍惚へと俺を誘ってしまう。


──埃だらけの床の上、壁にもたれかかり、前髪の隙間からわずかに差し込む虚ろな光をとらえている。


指先がベッタリと嫌に生温かく濡れている。


──君、藤の花は……が……見ま……死んだ……か?


二つの声が重なり合った瞬間、俺はうっかりその指で前髪をかきあげた。


あの日、本当は藤の花を見たのかもしれない。

背後から、冷えた指先で頬を撫でられている。

耳元で何か密やかに語られる。

わからない。

ただその何者かの息遣いだけは妙に鮮明に感じられた。

肺は膨らみ続ける。

苦しい。

吐き出せぬ苦しみに悶えた。


平たい豆鞘を垂れ下げた藤の足元に、花を供える。


目を閉じても、何故か彼の顔だけが思い出せない。


場違いなまでにヨレた学生帽をとり、手を合わせ頭を下げた。


嘘だ!

誠実であればあろうとするだけ、このシャツの白はあまりに白々しい。

お前は穢されなければならない、罰を受けなければならない。


研究棟のひび割れた壁に、水が染み入っていく。

全てが閉ざされたそこは、灯ひとつ、ついていない。


この中で、きっと俺が眠っている。

教授を手にかけた後の忌々しい悪魔がここで眠っている。


傘を投げ捨て、痛々しいひびを撫でる。

指先から身体の熱を奪われていく感覚に後退りした。


漏れ出るはずもない煙草の匂いが肺を掻き乱す。

激しく咳き込み、視界が滲む。


水もないのに溺れるような、もがけばもがくほど沈んでいくような、途方もない苦しみが見せる世界は美しい。


──夏の日の、金魚の泳ぐお池でね。

僕は水からお空を見てた。

赤いお魚、小石の上で跳ねていた。

君が僕で、僕が君ならよかったね。

苦しかろう?

苦しかろう?

やっとの思いでお魚掴み、ぶくぶく泡をあげたけど、

一緒になって空を見るだけ。

あの空は……


穢れと清廉の混じった風では湿った肺は乾かせない。

鼓膜のもっと奥の方、脳の少し下あたりで自分の心音を聴くようなあの気色の悪さに俺はまたえずく。

耳を塞がれた時に似た、こもる音。

ザーと聴こえる血の駆ける音。


全てが雑音に聴こえる。

脳がざらつく感覚に頭を抱える。


助けてくれ! 助けてくれ!


髪から垂れる雨水に、首筋を撫で上げられている。

脳と身体の感じる温度の差に気が狂いそうだ。

寒い、それでいて頬は火照っている。

胸元の汗ばみは埃っぽい雨と混じり合い、シャツにうつり、身体にまとわりついている。

曖昧な罪のように仄暗くじっとりと。


嘘つきはどっちだ?

黒はおろか、灰にすらなれない俺は穢された白になるほかない。


跪き、赦しを乞うように天を仰ぐ。


その周りには無数の傘の花が咲き乱れる。


花の下の顔がわからない。


無関心に足が生え、互いの花と花とが当たっても何食わぬ顔をして歩いている。


──なぜ、裁かぬのです?

目の前に、人の形をした罪が両手を挙げて情け無く全てを認めているといるというのに。


不感症か、さぞ鈍感なのだろう。


もう、悪態は飽きるほどついた。

その度に身体がちぎれていった。

宙に浮くように怠い。


気付けば足は図書館の方へ向かっていた。

無論、今は本など読みたくもない。

ともすればそこへ行く理由はひとつ、あの死んだ肉のようなコバルトの香りに意識を飛ばされたかったのだ。

もしくは毒を煽るが如く、奴の懐のウイスキーを飲み干してやりたかった。


この身を包む、中途半端に失われた清廉の全てをあの間違ったべとつきで塗りつぶして欲しい。

重くるしい扉の裏、あの埃に塗れたあの場所で。

鍵など二重にでも三重にでもかければいい。

その中でお前のその歪んだ望みとて、叶えてやっても構わない。


こんなにも無防備なのに、奴はいない。

俺は灰色の空を睨む。


頬をつたい落ちるのは、ただただ透明な雨だった。

そのことがなぜこんなに悲しいのかは、考えたくもない。


だのに、脳はまざまざと見せつけてくる。


大ちゃんたちが歩いている。

特段喧嘩をしたということもないのに、何となく気まずい。

睫毛で視線を隠した。


そのくせ俺は大ちゃんが、いつもみたいに手を振りながら駆けてくるのに期待していつまで経ってもこの場所から眺めている。


笑い合う彼らの中に、何の違和感もないのに気づく。

村井が一瞬、こちらを向いた気がする。

否、視線の先に奴が見たのは俺ではなくその後ろかその手前の何かしらだろう。

もしくはここにはいない、誰かしら。


雨だというのに傘の中、文字を貪る本の虫たち。

ケラケラと笑う。

まるで気の早い蝉のようだ。


しかし彼らの「生」は力強く、尽きることのないように見える。


よっぽど俺の方が蝉だ。

光を求め、暗い場所から這い出してきて、いざ蛹の殻を脱がんとする。

しかし、脱ぎかけて気づく。

あまりに未熟な己の身に。


けれども熱い風は早く、早くと急き立てる。


どれだけ身を捩っても、はだけたそれは戻らない。


蟻たちはもがく身体をめざとく見つけ、乾ききらぬ、濡れたままの渇いた身体を貪り出している。


虫取り少年たちが固唾を飲んで見守っている。

その実、彼らはどこかで蝉のなりかけの死に胸を躍らせている。

どこか他人事の死に甘美な憧れを抱きながら。


真っ逆さまに墜落する。


黒に変わりゆく空が開ききった瞳孔にいつまでも、いつまでも垂れていた。


未だやまぬ雨の中、傘もささず俺は走り出していた。

足はもつれもつれ、幾度となく身体を倒した。

地に打ち付けられるたび、わからなくなった。


「俺はどこだ?」


俺の実体はあの研究棟の中にあって、今も曖昧な罪に揺蕩うているのか?


「俺は誰だ?」


右の鼻緒が切れた。

(ゆび)の股が紅く滲んでいる。


そこの角までクチナシの白い香りがしていた。


下宿が近い。


そのほんの少しの道が、途方もなく続く荒野のように思えた。

片膝を立て、疼く傷口に触れる。

沁みる痛みに何を求める?

幾度となく傷に触れた。


痛むたびに漏れる呻めきを含んだ吐息に、酔いしれている。


──雨の上がった六月の夕のことでした。

小さなお庭の隅っこでクチナシの花が咲いています。


あまりに美しかったので、まっさきに、あなたの哀しい横顔を思い出したのです。


僕はこっそり忍びこみ、ポキリと一枝折りました。

お花はこんなに白いのに、僕はなんて汚いのだろう。


あなたの隣に並ぶには、あまりに穢いその白を僕はどうすればよかったのでしょう。


月灯りの下、その清廉に拐われて僕は土の上で眠ります。

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