序章
──グラスのぶつかる音に笑い声。
すし詰め状態の居酒屋で、半分しか開かない目で帆立のバタ焼きを見つめている。
ドンッ!
肩に衝撃が走る。
「うおおっ……悪ィな兄ちゃん!」
そう言いつつも声の主は俺の方なんか見ちゃいない。
指先から血の気が引いて、代わりにこめかみあたりが熱くなる。
一発お見舞いしてやろうと卓に手をつく。
しかし、腹は立っても足が立たない。
人の背中とバタ焼きとがぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
「で、お前それで何杯目なんだ?」
「……」
「お前、飲む顔じゃねえな。」
鼻だけで笑い、まるで水でも飲むかの如く、これみよがしにグラスを空けていく。
恥ずかしくなって、ちっとも減っていないグラスを左手の甲でずりずりと端へ追いやった。
しかしその顔も赤らんで、目も虚ろだ。
「大将! 同じのもう一杯!」
「おいおい、秀ちゃん……おめぇももうやめとけ……」
「いいや、もう一杯だ。」
あきれ顔の若い女がゴトンっと乱雑にグラスを置く。
俺は何処へいくともなく漕いでいた舟を停めた。
「で、またなんでこんなところにいるんだ? おめえ学生か?」
なぜこいつは左斜め上から見下ろしてくるんだ?
自分だって酔いがまわってやがるくせに舌が回るからって好き勝手言い腐る。
いけすかねえ!
「あ?」
「真っ当な勤め人ってツラ構えじゃあねえからな。」
どの口が言ってんだ。
お前こそ何なんだ。
「何だ、テメェこそ……テメェ……」
「何なんだ、か?」
続く言葉を左端に追いやったグラスごとぶん取られた。
空になったグラスをガンッと鳴らし、
「おめえ、いくつだ?」とすごむ。
「二十……一……」
「ほお。俺は二十二だ。うん。」
腕を組み、誇らしげに頷いている。
クソッタレが!
ここで俺は額を卓に打ち付けて目を閉じる。
春、花見の席で葡萄酒を煽り先輩の説教に「お前んちの柱、全部貝柱になっちまえよ! そんで俺が食ってやる!」などと意味不明の暴言を吐いた挙句散りゆく桜と共に池に落ちたことを思い出す。
夏の時分、竹に素麺流して食ろうた。
勧められて麦酒をひと舐めする。
その時に至っては隣の大学の校舎に戻り図書館前にたむろしていた美術部の連中に
「ばーか! ばーか!」と叫んだ挙句、奴らの巣窟に身体ごとぶん投げられた。
油絵の具にまみれ、すっかり酔いの醒めた俺は青ざめていた。
「出してくれ! 出してくれ!」とムンと熱い倉庫で懇願するも遠くで笑い声が幻聴の如くわずかに届く程度。
暑い……暑い……
汗に溶けているのは水彩絵の具だろう。
白いシャツはじんわりと妙な色のシミを作っている。
いよいよ小便が耐えられなくなり、
「頼む! 俺が悪かった! 出してくれ! もう耐えられん! 膀胱がダメだ!」
と降参する。
ようやく扉が開いた時、目の前にいたのはウヰスキーの小瓶を傾けた野郎だった。
「……ちっとは反省したのか?」
その酒臭い尋問の前に再び酔い潰れた。
──おねんねかい?
卓に押し付けた額以上にその上のもげそうな毛根が痛い!
力も入れていないのに首が上がり、いけすかない帽子野郎の虚ろな表情が歪みながら視界に入り込む。
「おめえ、まさか早稲田じゃあねえだろうな?」
奴は俺の前髪をギリギリと掴んだまま続ける。
「そのヨレついたシャツ、タックの死んだ洋袴、歯のすり減った下駄……」
嫌な記憶が後ろの方から早馬に乗り駆けてくる。
あれは十八になりたての二月のことだった。
今にも雪に変わりそうな冷たい雨が、全ての生命を包み殺さんとする朝。
俺は高田馬場駅に降り立った。
勇み足の連中が皆同じ顔して同じ方へ歩いているのがどうにも気色悪く感じられ、横道にそれてやった。
方向音痴の気がある俺はすっかり迷子になる。
これではシャレた例えでもなくただの仔羊だ。
終わりだ。
泡食って元の道を走った。
傘などは、ささない。
びしょ濡れの俺を、受付の人間は訝しげに二度、三度と舐め回すように観察する。
「どうぞ、中へ」と通される。
しかし、意地悪心が働いて振り返るとまだそいつが見てやがる。
特段何か言ってやることも思いつきやしないからそのままにしておいた。
同じ顔をした奴らはてんでんばらばらにそこかしこの建物に吸い込まれていく。
しばらく進んでいくと何やら角帽を頭に乗っけた黒灰色の爺さんが雨に打たれていた。
「おめえ、重信か?」
「……」
「そんなところで寒かろう? 中へ入ったらどうだい?」
物言わぬ大隈重信の身を案じてやる。
「何とか言ったらどうだ?」
「なあ?」
「おめえ、俺が誰だかわかるか?」
「わからねえだろうよ……」
頭上から落ち続けていた雨が突然止んだ。
「君!」
腕を掴まれる。
振り向くとやたらと背の高い詰襟の男が立っている。
襟には稲穂の紋様付きのバッヂがついている。
「君、急ぎたまえよ! もう国語の試験が始まっている!」
「おん?」
「ついてきなさい!」
白いダンゴムシみたいな奴らがカリカリカリカリ音を立てている部屋にぶち込まれた。
試験監督は憤慨しつつ無言で試験問題を置いた。
……なんだいこんな問題。
休憩時間、懲りずにまた重信のところへ行く。
次の英語も遅刻をした。
最後の科目の直前、俺は小便が耐えられなかったがあの詰襟の男に「行くな」と釘を打たれ、断念する。
その春、俺は他人の桜で花見をした。
──鼻の奥がツンとする。
わさびなど舐めてもいないのに。
奴はようやく俺の前髪から手を離すと、パンッパンッと払った。
だいぶ、抜けたのだろう。
再び卓に額を打ち付けた俺の頭を、奴はあろうことかグラスの底で一発ぶん殴った。
「何すんだ!」
鼻の奥の方が鉄臭い。
気づいた時にはもう奴のシャツの胸ぐらを掴んでいた。
「……どうやら俺とおめえは同志みてえだ。」
一体何のことだ。
「いつかわかる。」
男の視線は俺の目のずっとずっと後ろに向かっている。
その瞳には何も映っていない。
「貝柱で首吊って……吊って……死にたい……」
奴の胸ぐらから離れた手はブルブルと震えている。
右手で懸命に鎮めようとするも止まらない。
「……来い!」
無理矢理に肩を組まされ店の外へ連れて行かれる。
「おい! お勘定は!」
「つけといてくれ! しけてんな! ケッ!」
ピシャリと店の引き戸を閉まる音を聴いたのとほとんど時を同じくして、ぼやけた意識の中に青白い光を見た。
それから、クサヤのような嗅ぎ慣れぬ異臭に襲われる。
「おめえ、その実暴れたいだけだったんだろう?!」
奴が俺の腹の上で腕を振り上げた。
──忘れるための酒もあれば、記憶を呼び起こすための酒もある。
同じく、解決するための相談もあればそれを求めない相談もある。
詩人は今日も酒場に沈んでいくのであった。




