クリチャーの誕生
言葉少ない宝田を助手席に乗せて、水沢が運転する搬送車の荷台には、今も心臓が鼓動しているマモルの裸体をストレッチャーに横たえて乗せ、少年の安否を見守る永井を荷台の座席に付き添わせて、3名は一路、つくば市の学術都市にあるタカラダ生化学研究所へと帰還していった。
そして生化学研究所に到着すると、宝田は、永井に育ての親であるアキラにマモルが死んだと伝えさせ、近くの墓地に少年の墓を立て、アキラに出席してもらって簡単に彼の葬儀を済ませるようにとの依頼をした。
次に宝田は、ベッドを1台購入して、研究所の一室をマモルの容態を見守るための病室に変えた。並行して古くから懇意にしている聖マリア病院の五十嵐和彦医師に、世界に非公開にしている少年の誕生の理由と今回起きた事件の経緯を出来るだけ細かく説明した。そして少数だけに秘密を保って、肺呼吸が無いのに今も心臓が鼓動を続けている少年の現状を詳細に診察してもらえないかと要請した。
それを聞いて五十嵐医師は、少年に施した遺伝子操作は、世界の多くの者たちに望まれている研究かも知れないが、それは人道に反する行為でもあると強く心を痛めていた。それでも医師は少年を診察することを承諾してくれた。
深夜、病院までは、永井と水沢を付き添いにして、マモルに簡単な衣服とサングラスを着けさせて、車椅子に乗せて、5ドアの大型バンで移動していった。救急口では、五十嵐医師が1人で出迎えてくれていた。そして深夜の内科の彼の診察室で、医師はマモルの現状を診察した。診察室に入って、水沢がマモルのサングラスを外すと、医師はそこで初めて両目を失った、呼吸は無いが心臓が鼓動している幼い少年を目の前に直視にして、愕然となった。それでも努めて冷静に少年の身体に対峙した。
それから医師に案内されて、人気のまばらな病院内の暗がりを移動していって、2階にある放射線科に降りて、MRIとCTスキャンの撮影を慎重に済ませた。医師は少年の秘密が漏洩しないように、2つの場所で撮影した映像を彼個人のハードドライブにコピーして、それぞれのPCに保存されていた少年の撮影記録をすべて削除した。
医師は続けて同じフロアにある処置室に移動して、採血器を使って彼の内腕から血液を採取して、心電図や筋電図、脳波計と言った一通りの検査を物言わぬ少年に受けさせた。少年の心臓や筋肉や脳の検査には、彼独自の内的な動きが見られていた。医師はそれらの検査の解答をその目にして、自らの目を信じられない様子だった。
何をどのように考えても不可解だが、少年は肺呼吸をしていないのに、脳や心臓や全身の筋肉は今も辛うじて生きている様子だった。・・・それは通常の人体では起こり得ない反応だ。人類は呼吸をしなくなれば、脳にも心臓にも全身の筋肉にも血液が行き渡らなくなる。それは同時にその個体が『死ぬ』ことを意味する。ところが今回の検査の結果は、少年は肺呼吸をしておらず、体には微動以外に動きが無いものの、個体は少なくとも現時点では『遺体』には分類されないことが医学的に明らかにされた。要するにマモルは今も死んでいないのだ。
そして引き続き、放射線撮影の解析は五十嵐医師が後日に詳細にすることになる。加えて、採血したマモルの血液は、永井が研究所に持ち帰って、少年の遺伝子解析と並行して詳しく分析することになった。
その部屋は『検査観察室』と名付けられていた。通称を『マモル部屋』と言う。マモルは体に起こるかも知れない微妙な変化が分かりやすいように室温と湿度を快適に保ったその部屋でトランクス1枚の姿にされていた。そして脳波計と心電計と筋電計をその体に取り付けて、ベッドに力無く横たわって、いつ目覚めるとも分からない長い、長い眠りを貪っていた。
週を跨いで、次の週の金曜の仕事を済ませたその夜に、五十嵐医師がマモルのMRIとCTスキャンの解析結果を携えて、研究所を訪れてくれた。宝田は五十嵐のために、つくば市内にある馴染みの高級寿司店に特上コースを4名分注文した。そして、それを寿司屋に配達してもらって、所内の会議室に永井と水沢を同席させた。
宝田たちは4名でテーブルを囲み、日本酒を酌み交わし、サザエの壺焼きにイカそうめん、アワビと車エビのお造りなどに各々に箸をつけ、リラックスして少し遅めの夕食をとりながら、医師による検査結果の報告に注意深く耳を傾けた。
医師が会議室のコンピュータとプロジェクターに映像を映しながら語るには、検査した少年には、肺や気管だけでなく、通常は粘膜に覆われて体液で潤った食道や胃や腸やその他の臓器にも、2週間の間、石油液化ガスのその中に溺れて沈んでいたことによる恐ろしい影響が表されていた。すべての臓器の表層が、古びてボロボロになったスポンジのように酷く乾燥してヒビ割れている状態だったそうだ。それらに伴って体液にも石油の成分が混じっていて、体細胞が部分部分で癒着して、かなり壊れているらしい。
脳は頭蓋骨と髄膜に近い大脳皮質の所々にわずかな炎症が起きている。また、それに関係してかしないでか、いわゆる旧皮質と呼ばれる部分が、大脳皮質の内の系統発生的に最も古い、哺乳類では古皮質とともに大脳辺縁系を形成して、食欲や性欲などの本能行動や怒りや恐怖や不安などを司る情動本能に関係する領域が、腫れて膨張している様子だ。
心臓は、死を近くに感じて機能が弱くなるどころか、なぜか筋膜が強くなって、通常の1・5倍ほどの大きさにまで肥大して、確かな鼓動を刻み続けている。
全身の筋肉は筋繊維が強靭にしなやかに連結していて、各部の骨はその影響を受けてかどうなのか、骨組織がしっかりとしていて奇妙に青く変色して見えている。
医師が診断した少年は、肺呼吸が無く、内臓の各部位が大きなダメージを受けて機能していないにも関わらず、さらに宝田博士が加えるには、発見されて以降、少年は水も食料も一切摂っていないらしく、今なお、脳と心臓と全身の筋肉がなぜか力強く生きている。栄養が足りなくなって痩せ細ってもいない。このマモルという少年は、2週間の間、石油液化ガスのただ中に溺れてもなお、命尽きてはいないのだ。こうした現実は、生物学上の大きな謎以外の何ものでもない。キリスト教的に例えるなら、これは『奇跡』と呼ばれる類である。こうした生命の状態は、人類の長い歴史をもってしても、きっと、この少年以外には起こり得ないものだろう。
そうして五十嵐医師は極上の日本食と日本酒を楽しんで、マモルの現状に関する医学的知見を宝田たち3名に分かりやすく話した。そして、おおよそ2時間後に食事と報告を済ませ、3名が見送る中、五十嵐は迎えのタクシーに乗り込んで研究所を後にした。それは少年の生死を理解する深刻な会議ではあったが、宴会のような快活さを備えていた。
宝田と永井と水沢の3名は、食器をそのままにしておいた会議室へと戻ってきた。永井と水沢が手分けしてテーブルにあった食器をシンクで水洗いして木製の番重へと片付ける間、宝田はポットの熱湯を急須に入れて、3名分の湯呑みに緑茶を注いでいた。そして永井と水沢に話した。
「マモルの体内では、強靭化した免疫システムが死を遠ざけて、彼の生命を維持させているようだな。マモルは今、生命の理論を超えたところにいる」
永井が、水沢から水を切った食器を受け取って、番重にそれらを丁寧に重ねながら、宝田へと頷いてみせた。そして「血液検査の結果からは様々な事柄が分かっています。マモルは石油液化ガスの中に溺れて間もなく、彼の意志に反して、肉体が反射的に生命を維持するために肺呼吸を止めていた。血管は強く、柔軟性があって、サラサラの血液を体内へと運んでいます。心臓が強く脈打って、全身に血液を巡らせて、体内だけで二酸化炭素を酸素に変換して、生命循環を機能させているようです」と返した。
水沢が高価な食器を水洗いして、その水を切り、同調して「白血球では、遺伝子操作した免疫システムが彼の生命の危機を感知して、延命しようと、ガードを堅く、胎児の時代に戻ったかのようです。マモルの生命力は新たな次元へと到達しています。これは哺乳類では起こり得ない状態です」と続けた。
宝田が椅子に腰掛け、湯呑みのお茶を飲み、2人の見解に耳を傾けて慎重な眼差しになった。そして、マモルのこの先を予見して「眼球はナイーブ過ぎて、もはや元には戻らないかも知れない。しかし、体内に残った内臓や体細胞のダメージは、時間をかけて安静にしていれば、彼に備わった回復力で何とか修復できるかも知れない。少年はふたたび食事を摂って、自身の脚で歩けるようになるかもな」と意見した。
それを聞いて、永井が水沢とその顔を見合わせた。2人は、純粋で心が美しかったマモルが眼球を失ったことを、とても残念に思っていた。2人は、生まれて間もなく人類の夢を一身に背負うことになったマモルには、年老いて朽ちるまでは完全な健康体でいて欲しいと望んでいた。そう思って永井は、宝田に目をやって「そうですね。その可能性は大いにあり得ます。・・・今回、マモルが引き起こした不幸な事故は、偶発的に新たな人類の誕生を促したかも知れません」と返した。
それに続いて、水沢が陽気に微笑んで「上手く行けば、人類は今後、ガンを恐れなくても済むようになりますよ。マモルの免疫システムを培養して、希釈して、少し操作して、ワクチンと同じように人々に投与するだけで、ガンを完全に制圧できるようになります」と話した。
マモルが『マモル部屋』に移送されてきて18日目の、早朝の午前7時18分。マモルは枕に頭を預け、横を向いて呼吸を忘れて眠り続けていた。この部屋にやって来て18日にもなると、両目を失った異様なマモルの姿にも所員たちの目が慣れて、不思議と違和感を感じなくなっていた。そんなマモルが、不意にわずかに肩と両腕を動かした。そしてその後、小さくため息を吐き出すと、静かになってそれから数秒後に、マモルがゆったりとして間隔の長い肺呼吸をふたたびゆっくりと始め出した。
マモルが始めた呼吸を心電計が感知して、誰もいない早朝のオフィスのデスクのコンピュータが警報音を鳴らした。
オフィスから少し離れた場所には宿直用の仮眠室があって、その夜、順番のために、偶然その部屋で眠っていた水沢が、そんな警報音に驚いて目を覚ました。Tシャツにトランクス姿のままの水沢が慌ててオフィスにやって来た、そして、デスクのコンピュータに、『マモル部屋』の心電計が感知しているマモルの肺呼吸を確認した。
水沢は裸足で廊下を走って『マモル部屋』に向かった。すると、その部屋のベッドでは、マモルが深くて間隔の長い寝息を、スーッ・・・スーッ・・・スーッ・・・スーッ・・・と立てながら、いつもように静かに横向きに眠っていた。水沢はそんなマモルを注意深く見つめて、やがては安堵して微笑んだ。この後、マモルは目覚めるかも知れない、と。
水沢からスマホに「マモルが肺呼吸を再開した」とする報告を受けた永井は、愛車のランドローバーを運転して、少し早めに研究所へと出勤してきた。そして出勤途中に近くのスターバックスで買ったカフェラテのMサイズを両手に持って、出迎えた水沢の手にその片方を渡した。水沢が「ありがとうございます」と言って、それを受け取り、一口を飲むと、永井は「で?それでどうなんだ、マモルの様子は?」と、水沢へと尋ねた。
水沢はそれに「静かに寝息を立てて眠っています。・・・このままマモルの部屋に向かいますか?」と質問で返した。永井はカフェラテを一飲みして頷いて「そうだな。マモルを診に行こう」と答えた。
永井と水沢が『マモル部屋』に行って、ベッドのマモルの様子に目をやると、まずはマモルがふたたび始めている肺呼吸よりも、少年の全身の皮膚を覆っている少し黒茶色い、艶めいて感じる油分が目に付いた。それを見て永井が「何なんだよ、マモルの全身の皮膚に浮かび上がっているのは?」と、水沢に問うた。
水沢が首を傾げて、それを見つめて「何でしょうね?朝に肺呼吸を始めた時には、まったく無かったものですよ。回復に至った肺呼吸に伴って、全身の皮膚が皮膚呼吸を始めているのですかね?汗腺が機能を始めているのかも知れないです」と話した。白いシーツのマモルの裸体の周辺がわずかに部分的に黒茶色く、そのまた周辺へと、油っぽい黄色いシミが薄っすらと滲んで広がっていた。トランクスにも部分的に、わずかに茶色っぽい、あるいは黄色い汚れが滲んでいた。
その場で水沢は、永井の指示に従って、その部屋に用意したキャビネットから清潔なシャーレとヘラを持ち出してきて、マモルの表皮に薄っすらと浮かんでいる奇妙に茶色い油っぽい汚れを、ヘラで集めてシャーレへと採取した。
水沢はデスクに戻ると、マモルの表皮から採取した異様にベットリと感じる彼の汗らしき体液を少量、生化学自動分析装置へとかけた。これは血液や尿などの体液成分を検体として、糖やコレステロール、タンパク、酵素などの各種成分の測定をおこなう装置である。現代では一般的な生化学項目だけでなく、血液血清や腫瘍マーカー、凝固検査の一部の項目など幅広い分野の測定が可能で、検体検査において大きなウエイトを占めている検査機である。
すると簡単に、その成分を明らかにする分析結果が出た。それを見て水沢はその首を捻った。分析結果は常識的には考えられないものだった。
同じ時、永井は、出勤してきた宝田に会いにゆき、マモルが今朝方、肺呼吸を取り戻したことを宝田に伝えた。そして、宝田に誘われて2人で所長室へと入っていった。永井はデスクに着いた宝田の隣へと立ち、彼のコンピュータに『マモル部屋』に設置してある4個の監視カメラの録画映像を呼び出した。永井と宝田は4個の録画映像を早送りに、昨夜のマモルの容態の変化をコンピュータのモニターに確認した。午前7時18分までは、少年の手や肩や頭の角度がわずかに動いていただけで、何事も起こらなかった。午前7時18分からは通常再生にした。すると午前7時18分34秒になると、明らかに分かるように少年の肩や腕が動いて、その後、小さくため息を吐き出したように見えた。それから静かになって午前7時20分48秒になると、マモルが間隔の長い肺呼吸をふたたびゆっくりと始め出した。そして数秒遅れて、心電計が警報音を鳴らした。
水沢は分析結果の個々を改めてコンピュータに確認して、所長室にいる永井に電話連絡を入れた。すると永井が数分後に宝田を同伴して「それで?予想を上回る結果って何だったんだ?」と言いながら、宝田直属の『アンチ・キャンサー・プロジェクト』のオフィスへと戻ってきた。水沢がそう言った永井の顔を見て、その部屋にデスクを置いて2人のアシスタントを務めている若手女性研究員の林香澄へと目をやった。
永井はそれを見て「おはようございます、宝田所長」と、恐縮して挨拶した林に頷いてみせ「香澄ちゃん。所長にコーヒーを淹れてくれ」と告げた。林はそれに「はい」と返事して、キッチン・ダイニングへとその部屋を出ていった。
そんな彼女を見送って、永井が「それで?」と、水沢に尋ねた。
水沢が分析結果の一覧を、デスクの前にやって来た永井と宝田に見せた。それには赤ペンで、丸印とダッシュと三角で成分が分類分けされていた。そして、こう説明した。
「赤丸はマモルの皮膚組織と皮下組織と体液です。これらはマモルの遺伝子とも合致しています。と言うことは、物質が汗腺を通って彼の体内から排出されていることを意味しています」
分析結果の一覧に目をやった宝田と永井が、それを聞いて頷いてみせた。水沢がその目を丸くして説明を続ける。
「ダッシュを入れておいた成分を見てください。プロパンとブタンという炭素と水素の化合物は、マモルが2週間、沈んでいた石油液化ガスの主成分です。これに含まれる成分の中には、人に対する毒性が認められているものも多く、特に揮発性の高い低分子成分には強い毒性があることが分かっています。飽和炭化水素より芳香族炭化水素の方が毒性が強く、三角を記した単環芳香族のベンゼン、トルエン、キシレンといったBTX化合物には特別に強い毒性があります」
マモルは再開した肺呼吸に伴って皮膚の汗腺が復活したらしい。そして、全身の表皮にわずかにベットリとした石油の成分を滲み出させているようだ。宝田がそれを知って、その顔に驚きを浮かべた。そして「今更ながらだが、マモルは2週間の間、そんな毒物の海の中に溺れていたのだな。・・・遺伝子操作が彼の肉体を想像以上に強靭にしているのは理解できるが、それにしても、よくもこうして生きていられたものだな」と、感嘆の言葉を漏らした。
永井がそれに頷いてみせた。それから「マモルは今、肺呼吸と一緒に皮膚呼吸を活性化させて、体組織に取り込んでしまったそんな毒物を少しずつ体外に排出しようとしているようです」と続けた。水沢もその言葉を聞いて同調し、両目を失ったマモルのさらなる回復を祈って頷いてみせた。
とは言え、国内随一の先駆的生化学者で、国家の援助を受け、ガン細胞を死滅させる遺伝子操作の実行の責任者である宝田には、今回のマモルの回復は、彼の体内で強靭化した免疫システムが暴走を始めたのではないかとする懸念を感じていた。それほどまでに、ガンの死滅を目的とする遺伝子操作は生命倫理に反していて、なおかつ、マモルの生命維持とその回復はあまりにも規格外だった。そして博士は、こうした奇跡的なマモルの回復はやがてどこかで限界に達するのではないかとする、先の見えない焦燥感に苛まれていた。
その日、宝田と永井と水沢は、マモルの肺呼吸が安定していることを確認して、これなら胃と腸も動きを始めているのではないかと考えて、鼻腔から食道まで管を通して、マモルの胃の中に流動食を入れてみた。ところが翌朝、『マモル部屋』へとやって来ると、マモルの胃はそれを受け付けなかったのか、そのほとんどを口から吐き出していた。
それから3ヶ月の間は何も起こらなかった。マモルは『マモル部屋』のベッドで、水も食事も摂ることなく、ゆっくりとした間隔の肺呼吸を静かにくり返して眠り続けていた。そして時おり、何の予告もなく、マモルは体細胞に深く染み込んでしまっている生命に有毒な石油の成分を全身の汗腺から排出して、身体中を油っこく黒茶色く濡らしていた。
ただ一つ、マモルの体の変化と言えば、髪の毛だけがボサボサに伸びていた。そして石油の成分を体内から排出している影響なのか?マモルの両腕や両脚や全身の所々には等間隔に吹き出物のような小さな塊が出来ていた。何かの影響のせいだろうか?そんな小さな塊は、両目を失ったマモルの顔面には一つも出来ていなかった。
水沢は、マモルの腹に出来た小さな塊の一つをメスで切って摘出し、その中にあった内容物を詳しく分析することにした。分析すると、その塊は水分とゼリー状のコラーゲンで作られていることが分かった。そこには、一般的に言うニキビや吹き出物のような皮脂や古い角質は含まれていなかった。
ある朝、永井と水沢のアシスタントの香澄が、ちょっとした考えを思い付いた。香澄はハサミとコームとケープの一揃えを手に持って、永井を伴って『マモル部屋』へとやって来た。そして永井にマモルの上体を引き上げてもらって、ベッドボードにマモルの上体をもたれさせて立たせた。次に香澄は、マモルに散髪用のケープをかけて、素人ながらにハサミを片手に、マモルの伸び切ったその髪を彼女の好みのマッシュルーム・カットに整えてやった。
それでもすぐにマモルの髪は伸びてきて、4日も経てばボサボサになった。
次の変化は、それから3日目のことだった。香澄がいつものように午後になって『マモル部屋』へと経過観察に行くと、マモルの耳の上部の先端が少し尖って、口の左右が1センチずつほど裂けているように感じた。両目を失っているマモルは、とても特徴的な、少し人間離れした奇妙な顔立ちになっていた。香澄はそれを見て、マモルの突然の顔相の変化を正確に記録に残そうと、研究所で支給されている仕事用のスマホで数枚ずつ、日付と時刻入りの写真撮影をした。撮影した写真をスマホに確認して、香澄はふと思い付いた。
まずは香澄は、その部屋に常備するラテックスの手袋を両手へと着けた。そしてスマホのカメラを動画撮影にセットして、それを左手に構えて撮影ボタンをタッチして、右手の指でマモルの唇を上下に歯茎が見えるくらいまで開いてみた。するとマモルの歯の形が、なぜか先端が尖った三角形になっていて、上下で鋭く噛み合うように変形していた。
永井と水沢は香澄が撮影した、マモルの人相の変化を明確に映し出した写真と動画をコンピュータのモニターに見て、愕然とした。美麗で可愛い少年だったマモルが、どうしてこんなに奇怪な人相になってしまったのか?・・・2人はそんな風に考えて、互いの顔を見合わせて、戦慄に近い感覚を覚えた。水沢は悲しくなって涙を見せていた。そしてその事を、すぐに宝田に知らせに行って、じかに各々の目でマモルの変貌を確かめておこうと、第一発見者である香澄を伴って4名で『マモル部屋』へと直行していった。
それは、それから16日目の朝のことだった。永井が愛車をいつもの駐車スペースに停めて、研究所へと出勤してきた。永井は愛用のショルダーバッグを肩にオフィスにやって来て、すでに出勤している水沢と香澄に朝の挨拶をすると、白衣を身に着け、ショルダーバッグからiPadを取り出して、永井が出勤日に朝一番にするマモルの定期観察へと向かった。
永井は容姿が変貌して施錠するようになった『マモル部屋』の錠を解いて、その部屋へと入った。そしてベッドで今日も眠り続けているマモルに目をやって、ギクリとしてその足を止めた。永井は全身に湧き起こって感じる震えを大きく深呼吸して堪えた。そしてスマホを片手に、オフィスにいる水沢に電話して、水沢と香澄を呼んだ。
水沢と香澄があわてて白衣を身に着け、解錠されたままになっている『マモル部屋』へとやって来た。すると永井が、深刻な顔付きになってベッドで眠っているマモルの様子を注意深く見つめていた。そして永井が不可解そうに注視しているマモルのその身に目をやると、2人は少し体が大きくなって感じる少年に目が釘付けになって、呆然となった。
今度はマモルの身には何が起きたのか?どうやらマモルは夜の間に、急に体の身長が伸びて、手脚が一際長くなっていたようだ。
永井は、水沢と香澄に頼んでマモルの体をメジャーで計測してもらった。すると、小学2年生にしては少し長身で、132センチあったマモルの身長が166センチにまで伸びていた。加えて両腕と両脚が共に20センチずつほど長くなって、それはもう異様なバランスの体格になっていた。その上、両耳の先端がふたたび少し伸び、口の左右が1センチずつほど裂けて、身体中の表皮に等間隔に出来ていたコラーゲンの塊が少し膨らんで大きくなって、小さな瘤になっていくらか目立つようになっていた。少年はもう怪物である。
永井と水沢と香澄はひどく困惑しながらオフィスへと戻ると、永井のデスクに集まってコンピュータに『マモル部屋』にある4台の監視カメラのライブ映像を開いた。続けてカメラのメニューを操作して、昨夜の19時からそれらの録画映像を再生した。まずは4倍速にして、それらの映像に昨夜の間に起きていたマモルの身体の異状についてを手早く確認することにした。
深夜の1時を過ぎるまでは、マモルの身には何事も起こらなかった。マモルはいつものように横向きになって、ベッドの上でゆっくりと呼吸をしながら眠っていた。そして3時を過ぎ、3時37分を迎えると、マモルは寝苦しそうに呻き声をあげて、身悶えを始めた。永井がモニターにそれを見て、映像を少し戻して、通常再生にした。すると高性能のスピーカーからは、マモルの苦しそうな呻き声の狭間に、彼の体内の骨が伸び、関節が軋み、腱が広がって、筋肉が強い力で引き伸ばされてゆく奇怪な異音が小さく聞こえてきた。そうして髪が伸び、耳の先端が尖って口が裂け、胴体と四肢が見るみる内に伸び始めた。
そして、それから7日後には、ふたたびマモルの四肢が10センチほど伸びて、身長が180センチになって、マモルのために用意したシングル・ベッドが少し小さく感じられるようになった。180センチと言えば、すでに大人の男性の身長である。どうして小学2年生の少年であるマモルが、このような奇怪なバランスの、高身長の体躯になってしまったのか?それが大きな疑問だった。
香澄はそれを見て、言葉を失ったが、永井と水沢はそんなマモルの変化を目にしても、もはや驚かなくなった。それより、マモルはこれからどんな姿になってしまうのだろうかと、心配ばかりを感じていた。2人は異様な姿へと変貌してゆくマモルを目にして、強く心を痛めていた。
永井と水沢と香澄はマモルの血液と体細胞を適量、採取して、彼の体の変化を事細かに分析することにした。そうして永井たちは生化学分析室に席を並べて、時間をかけて、マモルの肉体の異状な変化を可能な限りに詳細に解析した。すると頃合いを見計らって、宝田博士が分析室へとやって来た。
宝田がマモルの血液と体細胞の分析結果をコンピュータに見て、腕を組んで洞察した。「・・・こいつは凄いな。細胞外小胞(EV))が異常なレベルを表している。私は長く生化学を研究して来たが、こんなデータを見るのは初めてだ」
そう言って宝田は、永井たちに意見を求めて「どうしてかは分からないが、以前から見てきたマモルの変化が、ここに来て大きく増幅しているようだな」と話を向けた。
水沢が分析結果にあるマモルの筋肉量を指差して「そうですね。循環シャトルがタンパク質の遺伝子情報を大量に骨組織と筋細胞に届けています」と、宝田に返した。
永井がそれに頷いて「自然界では起こり得ない強い力が、血液や体液を介して細胞間を激しく移動しています。異常な速度で筋肉を再生して、身体機能を回復させていますね」と続けた。
宝田は彼らの報告に耳を傾け、モニターを見つめて注意深い眼差しになって熟考した。それからしっかりと頷いて、今回、実施したマモルの最新の体細胞のデータを、宝田なりに考察した。
「細胞外小胞が標的細胞にガンを死滅させる生命情報を配信して、マモルを歪な形状へと成長させているようだな。・・・私たちの手で遺伝子操作した強靭な免疫システムが、石油という毒に侵され、差し迫った死に抗って生き延びるべく暴走を続けている。・・・」
香澄が意見し合った3人に目をやって、いくらか深刻な顔付きになった。そして、人智を越えたデータを前にして困惑している宝田に「これは、一種の超人の誕生を意味しているかも知れません」と、前向きに意見した。香澄は、自身が師事する宝田博士と研究所が実行したマモルを実験体とした生体実験を、無理してでも肯定したかったのだ。
すると宝田は、強い憂慮をその顔に過らせた。そして極めて深刻な顔付きになって「いいや。マモルはもはや人間では無いように思うよ。少年はすでに人間とは違う別の生き物だ」と、香澄へと返した。
そして、それは2日後の深夜のことだった。深夜の3時を少しだけ過ぎたところだ。『マモル部屋』は淡い月明かりだけの暗闇に包まれていた。目の無いマモルは四肢の長い奇怪な大きな体になりながらも、シングル・ベッドに横向きになって、静かに寝息を立てて眠り続けていた。
何も起こらず、時だけが刻々と過ぎていた。夏も終わりが近づいて、わずかに虫の音が聞こえている。やがては研究所の表にある緑地あたりから、発情期を迎えたらしい野良猫たちの喘ぎのような鳴き声が聞こえてきた。その声は抗うかのようにくり返し聞こえていた。すると、マモルの四肢や全身に出来ていた瘤が突然、上下に開いて、それらがすべて目であることが分かるようになった。皮膚が瞼のように瞬きして、それらの目がギョロリと部屋の中を見回した。全身に等間隔に並んだ50個ほどの目の動きは、自分が今いるその場所についてを確かめているようだ。
翌朝、水沢が買い換えたばかりのシルバーメタリックのフェアレディZを運転して出勤をしてきた。そして車を研究所の駐車場へと入れると、ちょうど香澄がミニ・クーパーを向かいの駐車スペースに入れて、車から降りて来たところだった。香澄が入車された水沢のフェアレディZに目をやって、運転席でハンドルを握る水沢に会釈して挨拶をした。そして路上に立ち止まって、水沢が車を駐車して、車から降りてくるのを待った。
水沢がポーチを手に車から降りると、香澄が呆れたように笑って「おはようごいます」と挨拶した。水沢がニンマリ笑って「おはよう」と返すと、香澄がニヤけて「また車を買い換えたんですか?」と話した。「値崩れしづらい人気の車種を選んで、早めに市場に売りに出すと下取り査定が良いんだよ。ディーラーは新車を値引きしてくれるしさ。そうすれば、ほとんど損が出ないんだ。正直、俺は物質には執着が無いからさ」と、水沢が続けた。
オフィスに入ると、香澄はバッグをデスクに置いて、その足でキッチン・ダイニングに3人分のコーヒーを淹れに行った。現在時刻は9時50分。チームのリーダーの永井は、5分前にはオフィスに必ずやって来るはずだ。
一方、水沢は朝一番のマモルの定期観察に出掛けるために白衣を身に着けると、デスクの充電器にセットしておいたiPadのスイッチを入れて、ムナカタ生化学研究所のサイトを開き、極秘のマモルの人体実験を意味する『アンチ・キャンサー・プロジェクト』にログインした。すると、なぜか理由は分からないのだが、怪物化しながら眠り続けるマモルの身に取り付けていた脳波計と心電計と筋電計のどれもが作動していなかった。すべての測定値が最低底でフラットを描いていた。
水沢は驚いて、すぐにiPadを手に、マモルの様子を見に『マモル部屋』へと向かおうとオフィスから出ていった。すると先輩の永井が、いつものように所内の廊下を歩き抜けて出勤をしてきた。ほとんど同じタイミングで、香澄がコーヒーを淹れた3名分のマグカップを両手に、キッチン・ダイニングから出てきた。永井が愕然としている水沢の顔を見て「どうした?マモルに何かあったのか?」と尋ねた。一方、香澄は様子を伺うようにしてそんな2人のやり取りを見ていた。すると水沢がその目を丸くして、永井と香澄に「それが、・・・それが、何が起きているのか?・・・マモルに取り付けておいた3つの計器が生体反応を示していないんです」と話した。
3名は頷き合って、まずは熱めのコーヒーに口を付け、とりあえず他の事はそのままにして、白衣を身に着け、iPadを片手に『マモル部屋』へと急いだ。
錠を開けて『マモル部屋』に入ると、なぜか梁瀬博士率いるマイクロメカニック社側の窓が開いていて、一体どこに消えたのか、怪物と化して、死ぬまでそこで眠りを貪っているだろうと思われていたマモルはベッドにはいなかった。
永井と水沢はその部屋を見て呆然となって、頭を捻った。・・・マモルに何らかの内的変化が起きて、もしも当て所のない眠りから目覚めたとしても、目の無いマモルに一体どこに行けると言うのだろうか?・・・それに、この街には我われの車でしかやって来たことがない。少年には、研究所の建物以外にどこに何があるのかさえ分からないはずだ、と。
昨夜から東京にやって来ていた宝田博士は、帝国ホテルで一泊して、朝から厚労省の中上事務次官と彼女の秘書とテーブルを囲み、グラノーラやオムレツなどの朝食を採りながら『アンチ・キャンサー・プロジェクト』についての会議を始めていた。
そんな最中に宝田のスマホに永井からの着信音が鳴った。そしてスマホに「朝、研究所にやって来たら、どうしたことか、マモルが部屋からいなくなっていました。どうやらマモルは、昨夜の内に目覚めたみたいです」「現時点では、どこにいるのか分かりません。まったくもって見当もつきません」「もしも一般市民がマモルのあんな姿を発見でもしたら、それは即日、世界を震撼させる大ニュースになります。私たちだけのものだった底無しの秘密が、白日の元に晒されてしまいます」と続ける永井のひどく動揺した報告を受けた。
宝田は重要な仕事が出来てしまったことを中上に告げ、会議の続きは後日、改めてすることにして、取り急ぎその場所での会議を中断した。そして中上たちがリラックスして朝食を続ける中、宝田は荷物をまとめて、タクシーを走らせて東京駅に直行し、その年の6月に開業したばかりのつくば行きのリニアモーター・エクスプレスに乗った。
昼に宝田はつくば駅に到着し、ランチを返上して迎えにきた永井が運転する5ドアの大型バンに乗り込んで、生化学研究所へと帰ってきた。車中では、録画映像を見返した永井から、マモルがいなくなった昨夜の経過とその後の説明を受けた。そして荷物を出迎えたスタッフに任せて、その足で永井と2人して『マモル部屋』へと向かった。
錠を開けて『マモル部屋』に入ると、宝田は深呼吸して、その部屋の入り口近くに立ち止まった。それから決意して、当時のままにしてあると言う、窓が開けられたままになっているその室内を見回して、部屋のあちこちへと慎重に歩き出した。宝田は室内を舐めるように見回して、その室内に残った異状を注意深く見極めていた。そして、やがては、窓の近くの壁面と開けられた窓のサッシの上に残った、何か鋭い道具で引っ掻いたと思われる細かな傷跡を見つけた。それらの傷は、身を引いて、窓から入った太陽光を反射させるとはっきりと分かった。良くよく見ると、そんな細かな引っ掻き傷はベッドの横のフロアから窓辺に向かって点々と付けられていた。
宝田は永井に窓辺を指してみせた。
「永井君、見たまえ。・・・この辺りに散らばって見えるこの傷は何だろうか?」
そう問うと、永井は窓辺にやって来て、窓のサッシとその壁に出来ている、細かで鋭利な、いくつもの引っ掻き傷を見つけた。永井はそれを見て注意深い顔付きになって、傍らにやって来た宝田へとその首を傾げた。
「何でしょうね?・・・何かの引っ掻き傷のように見えますが。・・・オフィスに戻って、録画映像をクローズアップにして確かめてみましょう」
2人はその後、宝田のオフィスへと向かった、そしてデスクのコンピュータに『マモル部屋』の監視カメラの録画映像を開いた。
「マモルが窓から出ていったのは、3時20分あたりでした」と言って、永井が録画映像を昨夜の3時19分当時へと飛ばした。そして録画映像を通常再生した。
すると、ベッド上で小さく身を動かしていたマモルが、3時22分になって、ゆっくりとその上体を起こしてきた。続けて3時24分になると、マモルはベッドから両脚を下ろして、少し前屈みになりながら、用心深そうにフロアに立ち上がった。永井はそれを確認して、その映像をスローモーションにした。2メートル近くになったマモルの長身は、とても体躯が大きく感じられていた。そしてその時、マモルは何も身に着けていなかった。
「手先と足先をクローズアップにしてみます」
永井はそう言って、まずは録画映像のマモルの手先をダブルクリックした。そうしてその箇所のクローズアップを最大限にして、解像度を限界にまで上げてみた。するとマモルの手の指の爪が、まるでワシなどの猛禽類のような鋭い鉤爪に変化していることが分かった。永井と棟方はそれを見て、呆然となった。
永井は続けて、マモルの足先をダブルクリックして、クローズアップを最大限に、解像度を上げてみた。すると、その足の爪先にも強くて鋭い鉤爪が出来ていた。高性能のスピーカーには、床材に擦れてカチャカチャと鳴った鉤爪の音がかすかに拾われていた。
宝田はそれを見て、愕然となった。それから「どうやら手足のこの爪が、フロアやサッシに傷を付けていたみたいだな」と、永井へと話した。永井はそれを見て身を凍らせ、しっかりと頷いてみせた。しかし、その時はまだ宝田や永井の注意は、マモルの手足に新たに見られた鍵爪に偏ってしまっていて、少年の全身にあった小さな瘤が眼球になっていることまでは、まったく気付かないでいた。
宝田や永井たち『アンチ・キャンサー・プロジェクト』のチームは、正体不明の怪物と化したマモルが街のどこかで発見されるのではないかと、一日中不安に思って、戦々恐々としていた。ところが、なぜか夕刻が無事に過ぎ、夜になっても、幸運にもそんな報告はどこからも上がってこなかった。なぜかは分からないのだが、市民たちは1人として、街へと脱走していった怪物化したマモルをその目にしていないようだ。
翌朝、午前9時過ぎ。永井は研究所に少し早めに出勤するために、緑地に囲まれた、朝モヤ漂う学術都市内の道路をランドローバーで走り抜けていた。この辺りは自然豊かな、野生動物が時おりその姿を見せるそんな地域である。すると唐突に、永井が運転している車のフロント・ウインドウに、小さく柔らかい何かがボンッと音を立ててぶつかった。ウインドウには赤黒い汚れが付いていた。物体は通りの横側から飛んできたようだ。
永井は慌ててブレーキを踏んで、その車を路側へと止めた。そして何があったのかと、車から降りてきた。永井が車の横に立ってウインドウの汚れを確かめると、そこに付いた汚れは赤い血と生々しい肉片だった。車の後方の路上には、ウインドウに当たったらしい小さな何かが落ちていた。
何かと思って永井が後方へと数歩、歩くと、そこにあるのが野ネズミの遺体であることが分かった。野ネズミは両脚の腿の肉と内臓の多くが失われていた。何かに強く千切られたような有り様だ。永井はそれを見て、不可解に思って苦々しい顔付きになった。
すると、もう1体がそんな永井の近くに飛んできて、路上へと転がった。飛んできたのは、道路の外側に茂った林と藪の方からだった。永井は反射的に藪の方へとその顔を向けた。するとそこには何か大きな生き物が身を潜めていて、音を静かに木立の中へと後退りしていった。何も確証は無いのだが、そんな風に感じていた。永井は殺気を身に感じて、全身が凍り付いて、恐くなって車へと戻った。
永井は車の運転席に着いて、大きく息を吐き出した。そうして震えを堪えて、車をゆっくりと走らせ出した。すると、どうしたことだろうか?研究所までの道路のその先には、内臓を抉られ、両腿を失った、何十、何百もの野ネズミの遺体が点々と捨てられていた。
次の日の朝には、学術都市の周辺の家々の庭先で飼われていたレッドリバーやハスキー犬などの大型犬や中型犬の数匹が、内臓を奪われ、何かに肩と両腿を噛み千切られて殺害されていた。早朝になって散歩に出かけようと家から出てきた飼い主たちが、庭先にそんな無残な状態となった愛犬を見つけて、あまりに唐突な強烈な悲しみに心を引き裂かれ、嘆き声を上げ、ワナワナと震え出し、訳も分からず泣き出していた。
さらには学術都市を棲家としている野ギツネ2匹と野良猫たちが、内臓を抉られ、愛犬たちや野ネズミたちと同じに状態に両腿を奪われて、遺体となって街のあちこちで発見されていた。香澄も出勤途中にそんな野良猫の遺体を研究所の駐車場の隅に見つけていた。
その朝の学術都市には不吉な死臭が漂っていた。それでも、怪物と化したマモルを見た者は、学術都市にも近くの町々にも現れていなかった。怪物を見たという報告は一件も上がっていなかった。
マモルは昼間の間は、近くの川や農業用の溜池に潜って、その底に横たわって肺呼吸を止めて、身の動きを最小限にして眠っていた。時には、気配を隠して町中の用水路の底で眠ることもあった。そして日が暮れると、水底から出た。
そして、それから数日後の朝には、つくばの郊外にある養鶏場のニワトリが23羽、内臓と身の肉を食い千切られて殺されていた。他の養鶏場でも14羽が殺されていた。
それから数日後の朝には、養豚場の豚が1匹、丸ごと食べられて骨だけにされていた。そのまた数日後には、牛舎の乳牛が2頭、骨だけにされていた。
早朝に目覚めて、朝一番に牛舎にやって来た酪農家たちは、骨だけになった乳牛たちを柵の中に見つけて、一体何がこんなことをしでかしたのか?と、困惑しきりだった。数年に一度、現れるようになった野生のクマでも、そんなにキレイな食べ方はしなかった。
それから、手塩にかけて育ててきた美しい牛たちがこんなに哀れな姿になってしまうとはと、訳が分からず途方に暮れていた。こんなことでは役所が補助金を出すことはない。新しい牛を買い付けるには、きっと新たに借金をするしかないと、深く落胆した。その上、牛舎の他の牛たちもひどく怯え切っていて、しばらくは乳の出が悪かった。マモルはどうやら、食欲が旺盛になっているようだった。
次に事件が起きたのは、それから1週間が経ってからのことだった。市の南域に位置する若葉町の一画には、父親が不動産屋と保険の代理店をしている小谷家の、アメリカン・スタイルの鉄筋コンクリートの2階建ての大きな家があった。その家は裕福で、芝生を貼った広い庭を持ち、1階には、太陽光を豊かに採り入れた広々としたリビングルームにオープンキッチンとダイニング、それから夫婦の寝室と書斎があって、2階には、2人の息子たちと幼い娘の1人ひとりに与えられた、少し広めの子供部屋が3室、並んでいた。そして、その日の深夜の3時過ぎに、庭からその家の2階へと何者かが侵入していった。
その家の広い2階のテラスに大きな影が横切っていった。それは人とは思えない、とても大きな影だった。
その家の2階には、階段側から4才になったばかりの長女の部屋、圭二という7才の次男の部屋、それから10才の篤史という長男の部屋が並んでいた。兄弟は、マモルが通っていた谷田川小学校の篤史と圭二である。篤史は父からマモルの母親が売春婦だと知らされた小学校の上級生だ。そして圭二は、同じクラスで率先してマモルを罵って、皆で無視して、除け者にした少年だ。当然3人の兄妹は、その時はそれぞれの部屋のベッドでぐっすりと眠っていた。
クーラーを掛けつつ、ほんの少しだけ開けられていた篤史の部屋のその窓が、音を静かに全開にされた。それから、シュー・・・シュー・・・シュー・・・シュー・・・と喉を鳴らして、大きな無気味な影がその部屋へと入ってきた。
大きな影は躊躇なく眠っている篤史の首を鉤爪で掻き切った。そして、出血して驚いて目を覚ました篤史の頭を片方の手で鷲掴みにして、少年の体をベッドへと押さえつけた。怪物はすかさず肩へと噛みつき、肩のその肉を一思いに噛みちぎった。アッという間にその部屋のベッドが、真っ赤な鮮血で血まみれになった。怪物は続けて鉤爪で篤史の胸から腹までを切り裂いて、腹の中にあった臓物をその手に取り出し、鋭い三角の歯でムシャムシャとかぶり付いた。
そして隣の部屋では、憎しみを込めて圭二の上体と顔頭を鉤爪で滅多刺しにした。それから息絶えた圭二の肉を噛みちぎって腹に入れ、舌と眼球と内臓の食感の違いをゆっくりと堪能して、ほとんど骨だけの状態にした。
そうしてマモルは。失われつつある意識の中にこびり付いて感じていた学校で起きていたイジメの復讐を容赦なく果たした。同時に、世界にある食べ物を何から何まで食べ尽くして生きている人間という生き物が、この世で一番に美味な食糧であることを身をもって知った。
しばらくして、ヒョロリと長い手脚の先に鋭い鉤爪を持った怪物が、気配も無く、家の芝生の庭へと飛び降りてきた。遠くで、途方もない恐怖を感じ取ったどこかの飼い犬が鳴き声を上げていた。怪物は身長が2メートル70センチほどで、皮膚が厚くなって灰緑色に変色していた。そして、巨体にあるいくつもの目を満足そうにギョロリと輝かせて、ユラリユラリと上体を揺らし、夜明け前の町角の闇の中へと歩き去っていった。
その朝、4才の里香が目覚めて、何も知らずに階下へと降りてきた。ところが篤史と圭二は、定時になっても目覚めて階下に降りてこなかった。キッチンで朝食を調理し終えた母親の江里子が、階段の前にやって来て、腰に手を当て、上階を見上げ「篤史!圭二!あなたたちは何をやっているの?・・・本当に困った子たちね!どうして起きて、降りてこないのよ!」などと言いながら、不服そうに2階へと階段を上がっていった。
すると圭二と篤史のその部屋が、見るも惨たらしく血まみれになっていた。江里子は圭二の部屋のベッドに、ほとんど骨だけになって横たわっている息子の残骸を見つけ、驚愕して何が何だか分からなくなった。そしてその部屋から出てくると、急にワナワナと震え出して、フロアへと崩れ落ちた。
少し遅れて、異変を感じ取った父の篤郎が2階へと上がってきた。そして、血に汚れてフロアで泣き崩れている江里子に目をやって、訳が分からず呆然となった。篤郎は絵も言われぬ恐怖感に総毛立ち、フロアに俯せになっている江里子のその横を通り抜けた。そして、ドアが開けられたままになっている圭二の部屋へと眼差しを送り、そのまま歩いて、血みどろになっている篤史の部屋のその中を覗いた。するとそこには、ほとんど骨だけになっている篤史の遺体が、壁のハンガー用のフックに惨たらしく吊り下げられていた。




