少年、マモル
間違った知識には注意せよ。
それは無知よりも危険である。
バーナード・ショー
世界は『人新世』の最中にある。それが顕著になったのは人類の文明が近代化した19世紀の後半からのことで、燃料の使用と電力の発明、二度の世界大戦とその後の消費経済の拡大を経験した20世紀に入ると、それは爆発的に極大化している。
『人新世』とは、人類が地球の地質や生態系に影響を与えている現代を含んだ地質時代をいう。『人新世』の特徴には、地球温暖化などの気候変動や、大量絶滅による生物多様性の喪失、人工物質の増大、化石燃料の燃焼や核実験による堆積物の変化などがある。
地球の歴史と個々の時代に起きた変化を理解するために地球の地層を確認すると、近代からの地層は、人類の暴走と地球環境の破壊の時代を表現して脂ぎって真っ黒になっている。それらは皆、石油や天然ガスなどの化石燃料や、ビニールやプラスチック、ナフサやポリエチレン、エタノール、ベンゼン、トルエン、ナイロン、ポリエステル、レーヨン、アセテートなどの石油化学製品を大量に消費してきた人類の活動が原因とされている。地球上での人類の活動が、かつての小惑星の衝突や、火山の大噴火に匹敵するほどの地質学的変化を大地に刻み込んでいるのだ。
それとは別に、20世紀末になって急激に変化し始めた人類と社会の在り方を憂慮して、2008年、ヴァチカンのローマ教皇庁にある内赦院が、物質をリサイクルしないことは環境を汚染するという『大罪』に値していると発表した。この時の発表は、これまでに7つの大罪としていた『怠惰』『嫉妬』『大食』『貪欲』『色欲』『激怒』『傲慢』とはまた別に、現代の人類が『新たな7つの大罪』を犯していること意味していた。ヴァチカンが制定に至った『新たな7つの大罪』とは、『遺伝子改造などの生命倫理の罪』『人体実験などの胎芽を傷付ける不道徳な実験の罪』『麻薬乱用の罪』『環境汚染の罪』『社会的不公正の罪』『過剰な富を持つことの罪』『貧困を作ることの罪』といった7項目である。現代の人類と社会を見渡せば、現代が『大罪』だらけであることが良く分かる。
ちなみに、ローマカトリック教の主義によるところでは、大罪は『神の法律への重大な違反』であり、告白の行為によって懺悔されていない場合は『永遠の死』を引き起こすものとされている。
ヴァチカンの発表の8年前の2000年に、少年は、体内でのガン細胞の発生を完全に抑えるべく免疫力を最大限に強化して、日本の茨城県のつくば市内、学術都市にあるタカラダ生化学研究所において、遺伝子操作されて試験管ベビーとして生まれていた。
そしてその子は、生命力の強さを実験・観察するために、生後まもなく、わずかな金と育児用の粉ミルクだけを定期的に与える条件で、市内に流れる谷田川の河川敷に住む仙道晶というホームレスの中年女の手に預けられた。女は時おり売春していて、クラジミアの感染症が原因で子供を産むことが出来なかった。女はその子を溺愛し、幼児期から始終くり返して言い聞かせていた「あんたは私が守るからね」「私が絶対に守るから」といった言葉から、少年にはいつしか真守という名前が付けられていた。
支払われる報酬のおかげで、女は日中に、幼い息子を定期的に市内のマンガ喫茶のシャワー・ル―ムに連れてゆくことが出来た。そして女はそこの個室で仮眠をし、欲しい飲み物を何杯も飲んだ。近くの薬局やユニクロで、幼子の紙おむつやロンパース(ベビー服)を買うことも出来た。マモルは無垢で純粋で、澄んだ眼差しが特徴的だった。それでも、それらの場所までの行き帰りは倹約して、いつも徒歩だった。
そして夜になると女は、年に二度の贅沢としてユニクロのセールで買ったスリップドレスとカーディガンを身に着けて、橋のたもとで鳴らされる車のクラクションを合図に、寝床に子を置いて、バラックから出ていって、川沿いに建ったラブホテルで、ほろ酔いの男たちの一方的なセックスの相手をした。そして大概は男たちにクラジミアを伝染した。
タカラダ生化学研究所の研究員たち、ムナカタ研究所の主人である棟方耕三博士から若手で一番に信頼を得ている永井満と、彼の若いアシスタントである水沢茂久は『アンチ・キャンサー・プロジェクト』と名付けた宝田直属のチームを作り、人出の少ない毎週水曜日の午前11時に橋の下のバラックにやって来て、ミネラルウォーターの1ケースと粉ミルクと謝礼金を女へと与えた。そして代わりに、採血器とDNAの採取キットを用いてマモルの血液と粘膜組織を採取して、研究所へと持ち帰っていった。幼児はいつでも健康体だった。極めて丈夫な肉体を持っていた。
研究員たちはその子の血液と遺伝子を毎週、精密に解析した。あえてマモルの体内に異物を注入してみると、マモルの体内では彼の血中の白血球にある、ウイルスなどに感染した細胞やガン細胞などの異物を見付けて排除する免疫システムが特段に活性化した。
免疫システムの中心を担うリンパ球は、白血球全体のおおよそ25%を占めていて、それには異なる役割や特徴を持った『T細胞』や『B細胞』、『NK細胞』といった種類がある。
『T細胞』は、単球の樹状細胞から異物の情報(抗原情報)を受け取ると、それと同じ情報を持った異物に取り付いて攻撃と排除をする。『T細胞』はさらに攻撃専門の『キラーT細胞』、キラーT細胞やほかの免疫細胞に攻撃指令を出す『ヘルパーT細胞』、キラーT細胞が正常な細胞を攻撃するなど過剰に働かないようにその働きにブレーキをかけて、免疫反応を終了に導く『制御性T細胞』に分けられる。
また、T細胞は一度侵入した異物の情報を正確に記憶して、次に異物が体内に侵入した際には速やかにそれに対応する。
『B細胞』は、異物の特徴に応じた抗体を作る。その抗体は体内で異物が活動できないように異物に接着して動きを止めたり、その毒素を中和したりする。さらに、無毒化されて活動できなくなった異物をマクロファージが食べやすくなるように作用する。また、一度体内に侵入した異物の特徴を記憶する。なお、B細胞は細胞ごとに作る抗体の種類が決まっていて、外敵が出現した場合にのみ、それに適合した抗体を作る。
『NK細胞』は、体内をパトロールして、常に自己の細胞をチェックしていて、ウイルスに感染した細胞やガン細胞などの異常な細胞を発見すると単独で攻撃を仕掛ける。T細胞のように他からの指示を必要とせず、単独で速やかに異物を攻撃できることから、この細胞はナチュラルキラー(生まれつきの殺し屋)と呼ばれている。
なお、異常細胞を殺傷するこの能力を『活性』と呼んで、活性が高まった状態のNK細胞を『活性化NK細胞』と呼ぶ。加えて、このNK細胞の活性(NK活性)を測定する方法はすでに確立されていて、マモルには、この部分に異常なほどの活動が見受けられている。さながら事前の予測と反撃能力の高い優秀なボディガードたちが、常にチームワークを密に、迅速かつ的確に仕事を続けている状態にある。
ヴァチカンが『新たな7つの大罪』を発表した2008年、マモルは順調に成長して満7才になっていた。母親のアキラは、1年前の春からマモルが小学校に通うことを機に、一念発起して生化学研究所の棟方博士に保証人になってもらって、町の郊外の倉庫で商品の仕分けと発送のアルバイトを始めた。そして、大型ショッピングモールが近くにある近所の木造モルタルの安アパートに転居して、マモルのために中古の冷蔵庫と洗濯機のある最低限の文化的生活を始めていた。
昨年は2007年であったにも関わらず、その家にはテレビが無かった。その代わりにラジオがあって、大人びた歌詞ばかりだが、少年は流行歌だけにはずいぶんと詳しくなった。電話に関しては倹約のために携帯電話を持たず、家には家庭用の子機なしの電話機しかなかった。それでも、安売りしていた型落ちのウインドウズのノートブックパソコンを光回線でインターネットにつないでいた。研究所との連絡は、通常はEメールで取るようにしていた。
マモルの入学に伴って、生化学研究所の永井と水沢は、毎週水曜日の少年の帰宅後の午後4時過ぎに、2人のアパートにやって来るようになった。そこで彼らは少年の幼少期と同様に血液と粘膜組織を採取した。また、彼らはアパートにアキラが帰宅する6時過ぎまで滞在して、少年の小学校での勉強を見てやっていた。おかげでマモルは優等生だった。運動能力に関しては、遺伝子操作のせいなのかどうなのかは定かでないが、特段に優れていた。加えて、同じ水曜日にアマゾンでミネラルウォーターの1ケースが届き、アルバイトを機に開設されたアキラの銀行口座に、増額した養育費が振り込まれていた。
アキラとマモルの生活は何もかもが順調だった。ところがこの年に問題が起きた。
7月の第2週の日曜の午後1時過ぎ。近所の住宅地に家を持つ、学術都市で不動産屋を開業している男が、小学4年生の篤史という息子を連れて、車を走らせて、国道沿いにあるショッピングモールに買い物にやって来た。男はマーケットでその夜の夕食のために焼肉用の牛肉とサンチュとネギとキムチを買うと、息子に約束していたカードゲームのカードを買って、フードコート近くの通路を通り抜けて駐車場へと向かった。
すると帰りの途中に、男は偶然、フードコートの遠目のテーブルに、以前に数回、性処理に使っていた女が食事しているその姿を見付けた。女は、女の息子なのか?それとも単なる知り合いなのか?年幼い少年とテーブルに向き合って2人してランチを採っている様子だ。
男は女を見つめて、憮然として立ち止まった。息子の篤史が、急に不機嫌そうになった父親の視線が気になって、テーブルにいる女に目をやった。すると、女と一緒にいる少年に見覚えがあった。
「マモルだよ。マモルがいる」息子がそう呟くと、父親は唇を尖らせて「なんだ、篤史。あそこにいる少年は同じ小学校なのか?」と尋ねた。
女といる少年は、駆け足が速く、バスケが上手い上にサッカーが上手いなど、運動能力が特段に優秀だと学校では有名だ。学校の先生たちの間では、少年は将来、プロのサッカー選手やオリンピックの選手になるのではないかと言った話で持ちきりだ。少年は小学2年性でありながらも、運動能力はすでに中学生の国体選手のレベルにある。
すると篤史が「うん。同じ学校だよ。確か、圭二の同級生だよ」と返した。圭二とは、篤史の2つ下の弟だ。
父親がニヤついて「なるほど。そうなのか」と、曰くありげに返事した。そして、少年と一緒にいるアキラを見て「一緒にいるあの女は、男に体を売る売春婦なんだ」と話した。
「売春婦?・・・売春婦って何?」幼い篤史には、『売春婦』という言葉自体が分からなかった。
父親はアキラを見て目を細め、際立って冷ややかに嘲笑を浮かべた。そして女を小バカにして「金を払えば、どんな男の前でも裸になる女だ。男の遊びに付き合うんだよ」と、女について話した。
父親は、5年ほど前に仕事仲間と町のスナックで酒を飲んだ帰りに、橋のたもとでクラクションを鳴らすと車までやって来るという売春婦を、二度だけ買ったことがあった。女は1万円で買えるらしく、名前は明かさないものの、結構、見かけが良いという噂だった。橋に行って、実際に会ってみると、女は想像していた以上に美人だった。
それは、女とセックスをして一週間ほどが経ってからのことだった。男は男根に痒みを感じ、小便すると尿道が痛いと感じるようになった。男は不審に思って、泌尿器科に行ってみた。すると、クラジミアとの診断結果だった。医師には、治療のために抗生物質を処方してもらった。その後に、妻から最近、何故かおりものが出て、セックスすると痛みを感じて、奇妙なのだと打ち明けられた。どうやら男は、橋のたもとの売春婦に伝染されたクラミジアを妻にも伝染してしまったようだ。
男は妻に性病を治療してもらえるよう、彼女に強く叱責されることを覚悟して、妻が実家に帰っていた留守の間に浮気したことを正直に話した。妻はすぐに泌尿科に行って性病を治療したが、男はそのせいで妻に浮気が発覚して、妻との間に軋轢が生じて、一時、離婚の間際にまでおちいっていた。そのため男は、アキラのことを強く恨みに思っていた。
次の日の月曜から、マモルが小学校に行くと、子供たちには大して意味が分からないものの、周囲の生徒たちから「売春婦の子供」「売春婦の子供」と言われて疎まれ、嫌われるようになった。教室にいる時は、女子がいるから誰も表立ってその言葉を口にする者はいなかったが、廊下を通る時も、校庭にいる時も、登下校の時も「売春婦の子供」と罵って嘲られた。
同級生だけでなく、上級生たちからも同じ扱いを受けた。以前は少年たちの方から積極的に声をかけてくれたが、サッカーやバスケの仲間にも一切、入れてもらえなくなった。こうなると日本人という民族は、薄情で無慈悲でいて残酷なものだ。冷やかし半分で人でなしになる。大勢の者たちから自分が嫌われないために、皆で一斉に団結する。知っている者たちも知らない者たちも、暗黙の内に合意形成されて、皆で一緒になってマモルのことを迫害した。マモルは確たる理由も分からずに、同情も救いもなく、助けてくれる者たちもなく、一気に孤立していった。不可解に思えるほど一人きりになった。まるで存在自体が悪いか、汚い物であるかのようにだ。
先生たちは、マモルが他の生徒たちから「売春婦の子供」と呼ばれて除け者にされている現場を実際に目にしたり、女子から話を聞いたりして知っていながらも、マモルと他の生徒たちのそんな卑劣で軽率なやり取りを遠巻きに見ているだけだった。とにかく周囲にいる大人たちは何もしなかった。
年配の先生たちの中には実際に、過去に『橋のたもとの売春婦』の噂を耳にしていた者たちがいて、マモルはもしかしたらその女の子供かも知れないと、野次馬レベルの邪推ばかりしていた。そして、そんな話を若手の先生たちと面白がったり面倒臭がったりするだけで、こんな問題に関わっていたら、他の生徒たちの父兄から吊るし上げを喰うだけと黙視することに決めた。先生たちは努力せず、自分たちには関係ない、こんな問題は迷惑なだけだと、生徒たちの『イジメ』をやめさせる方策や解決策など何ひとつ見出そうとしなかった。こうしたトラブルへの対応は、日本人そのもののやり方だ。だから日本社会は前に進まず、世界から3周遅れになってしまうのだ。
当然、マモルはアキラにそれについてを話さなかった。アキラは母親役を熱心に演じてくれている。不器用ながらも、幼い頃からずっと優しかった。しかし、週に一度だけアパートにやって来る、マモルのことを観察している研究所の永井と水沢は、マモルの変化をしっかりと感じ取っていた。彼らの部屋を訪れた時に、マモルがなぜかいきなり涙目になっていたからだ。その日は、マモルが大好きなアイスクリームを買っていった。永井と水沢はそんなマモルを見て、何も尋ねなかった。それでも、何がマモルをそんなも想いにさせているのかと、少年に勉強を教えながら彼の心の変調を観察していた。
マモルは孤独になったことが一番に辛かった。昨日まで仲良しだった友達たちが、あの日を境に、急にマモルを避けるようになったのだ。マモルは彼らに何が起きたのかが分からなかった。朝に目覚めて、学校に登校したら、1限目が終わる頃には、なぜか皆がそうなっていた。彼らは汚い言葉を口にせず、嘲りまではしなかったものの、マモルとは目を合わさず、口を効かなくなって、あからさまに距離を取って、マモルと一切、接触しなくなっていた。
長い物には巻かれろ。赤信号、皆で渡れば恐くない。出る杭は打たれる。これはこの国で基準となっている日本人の処世術である。どこかに発端になる者がいたはずだが、あまりに突然に始まって、マモルにはそれが誰なのかさえ分からなかった。それでもマモルは、勉強と運動能力は優秀なままだった。それが妬みを煽ることになった。
マモルが信用できる人間は、母親のアキラと研究所の永井と水沢だけになった。マモルの年齢では、小学校と家庭が彼の世界のすべてであった。なので、小学校の男子生徒たち皆に酷い扱いをされて、存在そのものを否定され、加えて、そんな現状が不可解すぎて誰にも話せず、辛く悲しくて苦しい思いだけが日々、岩盤のように鬱積していった。
そして、それに伴い、マモルの脳と心の根幹では意図せず、大人たちも子供たちも区別なく、すべての社会の人間たちに対して底無しの激怒と憎悪を抱えるようになっていた。マモルが怒りを感じずにいられるのは、自分とこれまで通りに接してくれている母のアキラと永井と水原の研究員たちだけだ。
初秋になると、クラスで鹿島市に社会見学に行くことになった。移動のバスの車内では、マモルは男子生徒たちから離れて、最前列の先生の隣に座ることになった。
まずは午前に、鹿島アントラーズのサッカースタジアムとそれに併設しているミュージアムに行った。当然、マモルは女子の集団を間に挟んで、男子たちとは離れて、ずっと一人で歩いていた。昼食前には鹿島神宮を見て回った。
そして午後には南に移動して、海岸沿いに位置する臨海工業地帯へとやって来た。石油精製やナフサ分解、石油化学工業の一大基地であるコンビナートは人類の無謀な力を象徴して、実に偉大にして壮観であった。小学生の1クラスがそんな石油化学工業会社の工場内とコンビナートの見学コースを順路に従って歩いていた。子供たちは、サッカー・ミュージアムでは、どのように人生を楽しみ、人生に夢をどう持つかを学び、鹿島神宮では、古い時代の日本人が何をよりどころに生きて栄えてきたのかを学び、石油化学の工場では、人類がどのようにして今ある文明を築き上げ、暴走してきたのかを学んでいた。
工場を見学していて、30分ほどが経ってからのことだった。クラスの担任の小堺が、マモルがいないことに気付いたのは、工場の出口まであと少しの時だった。マモルは一人でクラスの最後尾を歩いていたはずだが、いつからかいなくなっていた。マモルはどこかで立ち止まってよそ見でもしていて、工場内での順路に迷ったのだろうか?・・・小堺は学校に連絡して、とにかく生徒たちを帰りのバスに乗せ、学校へと送り出すると、工場の防災センターにやって来て、工場内にある防犯カメラにマモルの居所を探した。すると工場内のカメラの1台には、海側の窓の前に立って、外の様子をじっと見つめているマモルの姿が映っていた。マモルはそれから近くにあった海側のドアから表へと出ていった。
その時、マモルは、海沿いに広域に広がった液化石油ガス(LPガス)の備蓄会社の正門近くへとやって来ていた。マモルは気配を潜め、会社に入ってゆく車の陰に身を隠して検問所を通り抜け、広大な七菱ケミカルの敷地内へと忍び込んでいった。備蓄会社の防災センターの警備員たちが、そんな不審な少年の姿を防犯カメラのモニターに確認した。
すぐさま、防災センターの警備員から正門の検問所に「1名の身元不明の少年が社内に侵入した」とする無線連絡が入った。「少年は備蓄タンクのターミナル方面へと向かっている」とのことだった。検問所からは1名が、そして社内を巡回中だった2名の警備員たちが、加えて防災センターから4名の警備員たちが、行方が知れなくなった少年を探しに備蓄タンクのターミナルへと向かっていった。
マモルは正面に見えてきた広大な海岸の敷地に、同じ巨大な円筒形のタンクが何十個と並んでいるその中を歩き抜けていた。マモルは周囲に並んだ巨大なタンクを見回して、なぜかその中で一番に白く浮き立って見えている一つのタンクを目指すことにした。そんな怪訝な少年の姿を、ターミナル内に設置した幾つかの防犯カメラが捕捉していた。
マモルはタンクの頂上に向かって外階段を駆け上がっていった。その時、少年の行方を探してターミナルに散り散りになっていた7名の警備員たちが、「少年は17号タンクの外階段を上っている」とする防災センターからの報告を受けた。
いち早く17号タンクの近くにやって来た警備員の1人が、備蓄タンクの屋上の踊り場に立ち上がった少年を見つけた。警備員はタンクの上に消えていった少年を目視して、すぐさま防災センターに「たった今、少年を17号タンクの頂部の踊り場に見つけた」とする一報を入れた。
マモルは多くを考えず、何かの計器が見えているタンクの屋根の真ん中にある頭頂作業床へと階段を進んだ。頭頂部にある通気口からは濃厚な石油の匂いが強く漂って感じた。鼻にツンと来るベンゼンの匂いを嗅いで、マモルはこいつは内臓に良くないと感じた。気分が悪くなって吐き気を催した。それでもマモルは屋根の中央部へと進んでいった。
マモルは生徒たちのイジメの標的になって、そして、社会に感じる子供たちの不満や不安感の吐口になって、しばらく前からずっと死にたいと考えていた。母さんが目にしないところで、誰にも手の届かないところで静かに死んでゆきたいと思っていた。なので、今回の社会見学は地元から離れる良い機会だった。そんな悲しみに包まれたマモルの目に、海岸に整然と並んでいる巨大な液化石油ガスのタンクが見えたのだ。マモルは、あの場所なら自分の墓場に打ってつけだと考えた。直感的にそう感じていた。あの場所なら、誰も自分の遺体のことなど気にしないと感じたのだ。
マモルは嫌な匂いを発して感じる通気口のダクトを強く足で蹴った。それなりに強い材質で作られているはずだが、少年の蹴りでダクトの開口部が簡単に歪んだ。続けてマモルは、通気口のダクトを根本から引き抜こうかと考えた。遺伝子操作されてこの世に生まれ落ちたマモルは、運動能力だけでなく、筋力、体力共に常人を超えていた。だから、もしもマモルがその気になって少年たちを相手にケンカを始めたら、相手が十人でも楽勝だったはずだ。それでも、激怒して力の加減を忘れると、少年たちを容易く殺してしまうかも知れなかった。だからマモルは少年たちと争うことをしなかった。少年たちのなすがままにしていた。それでもマモルは、彼らの精神的な暴力を受ける度にひどく傷付いていた。
マモルは周辺を見回して、タンク内に侵入するもっと良い方法は無いかと考えた。そして、やがてはこの場で考えること自体が面倒臭くなって、作業床の真ん中にあるマンホールのハンドルに掛かった南京錠の付いた鎖を強く蹴り込んでみた。2回、3回、5回と蹴り込んでみた。すると7回目の蹴りでその鎖が切れた。
マモルは気合を入れて軽く手を叩き、膝をたたんで姿勢を低くした。そしてマンホールの蓋にある開閉用のハンドルを両手でしっかりと掴んだ。それから大きく息をして「ううんっ」と唸って全身の力を振り絞り、固まったハンドルを力一杯に回転させた。力が入ってマモルの上腕の筋肉が太く大きく盛り上がって、着ていたポロシャツのその袖を引き裂いた。続いて、マモルのこめかみに血管が浮かび上がって「おおーっ!」と声をあげ、肩と両腕の筋肉が、同時に胸の筋肉が、大腿とふくらはぎの筋肉が一気に大きく膨れ上がって、重たいマンホールの蓋のハンドルをゆっくりと回転させた。そのハンドルは最初は重かったが、その後は一気に回転させることが出来た。
防災センターに集まっていた十名ほどの警備員たち、17号タンクの周りに集まってきて、先に到着していた7名と合流した。そして警備隊長の指示に従って、4名が17号タンクの外階段を駆け上がっていった。
4名はタンクの屋上へとやって来ると、作業床にあるマンホールの蓋が開いているのを見て、愕然となった。ベテラン警備員が無線に手をやり、「作業床のマンホールがなぜか開いています。屋上に少年の姿はありません。どうやらタンクに入っていったみたいです」と、下にいる警備隊長とターミナルの防災センターに慌てて一報を入れた。
・・・その時、マモルの脳裏には、不意に暗がりに炎が着火して無気味に燃え上がり、自分の体に燃え広がってゆく、そんな様が浮かび上がって、深く刻まれた。
少しして、警察のパトカーが2台、事件現場を確認するために17号タンクの前へと急行してきた。続けて、タンクに侵入したらしい少年の救助を試みるために、消防車が2台とレスキュー隊の車が1台、現場へと駆け付けてきた。
その場で警備隊長は、現場にやって来た警官の1名から、タンクのターミナルの近所にある七菱ケミカルという会社で、社会見学にやって来ていた小学校の二年生が一名、二時間ほど前に行方不明になっていることを、初めて耳にした。
警備隊長が七菱ケミカルの防災センターに電話してみると、「行方知れずになっている少年は、今もまだ見つかっていない」とのことだった。そこで警備隊長は「実は、ターミナルのタンクに飛び込んだらしい少年が1名いる」「担任教師をこちらの防災センターまで連れて来てくれないか?」「防犯カメラの映像を見てもらって、少年が同一人物かどうかを、教師に確認してもらいたいんだ」と要請した。
それから三十分弱がして、七菱ケミカルの警備隊長が社会見学にやって来ていたつくば西小学校の教師を伴って、ターミナル会社の防災センターにやって来た。早速、警備隊長は、用意しておいた防犯カメラの映像を二人へと見せた。
録画映像に映っていた少年は、黒いポロシャツにベージュのショートパンツの姿だ。教師はそんな少年の姿をモニターに確認して、ここに映った少年は、自分の生徒の仙道マモルで間違いないと思った。それを知ったと同時に、教師は、どうして大人である自分が孤独だった少年の悲しみをもっと理解してやれなかったのか?どうして自分は少年一人を守ってやれなかったのか?と言った後悔の念が痛烈に湧き出してきて、苛まれ、そんな自身の無責任さが招いた空疎さと罪深さに、教師は胸が張り裂けて嗚咽して泣き出した。・・・彼が抱いた疑問のその答えは、彼が日本人であったからなのだが。
レスキュー隊員たちが救助の支度を整えて、急いでタンクの屋根へと外階段を駆け上がっていった。屋上に上ると、強く石油の匂いが漂って感じ、少し気分が悪くなったので、取り急ぎ酸素用のマスクを着けた。屋根の上には目当ての少年の姿は無かった。それから屋根の頂上部にあるマンホールの蓋が開けっ放しにされていた。どうやら行方不明になっている少年は、そこからタンクの内部へと入っていった様子だ。タンクの内部は、プロパンとブタンを主成分とした、石油を液化したガスが7割強を満たしていた。隊員は内階段の途中に留まって、そこから下方を注意深く見下ろした。しかし、そんな濃度を称えた透明の液体の中に溺れているらしい少年の姿は見付けられなかった。
その時、マモルの脳裏では、炎がアッという間に全身に燃え広がって、表皮を炙って焼き尽くしてゆく高温を、身を捩って喘ぐ全身に感じ取っていた。・・・
その日の夕刻、母のアキラが働く倉庫の事務所に、担任教師の小堺からマモルの事故の内容を伝える一報が入った。アキラには、幼い頃から少し情緒的に不安定なところがあった。そんなアキラが倉庫の部長からその電話を受け取った。出来るだけ注意深く、電話の向こうの甲高い小堺の話に耳を傾けた。アキラは受話器を耳に当てながら、ひどく動揺していた。そしてやがては茫然自失して、何もかもが手に付かなくなった。
アキラは不器用ながらも、唯一、マモルに一心に自らの愛情を注いできた。そんなマモルが生徒の一団から離れていって、石油液化ガスのタンクに身を投げたと聞いて、アキラは鋭利で冷たい槍のような悲しみに体を何度も突いて貫かれ、そんな心の痛みに凍えて全身を震わせ、泣いて泣き崩れて悶え苦しんだ。アキラは正しく慟哭した。
それでもアキラはマモルの身に何かが起きたらすぐに連絡するようにと、生化学研究所の永井と水沢に指示されていたことを思い出した。下痢になったり風邪を引いただけでも連絡をくれるようにと、彼らには常日頃から言い聞かされていた。なので、アキラは1時間と少しを泣いて、泣き疲れると、気が狂うほどの悲しみに打ち拉がれながらも、出来うる限り早く学術都市にあるムナカタ生化学研究所の永井研究員に一報を入れた。そして、マモルがガス・タンクの中に身投げしたとする絶望的な現実を、永井へと告げた。
永井はアキラからその話を聞いて愕然とした。永井は頭の中が真っ白になった。年月を重ねてきたこれまでの研究が、これで台無しになったのか、と。それより何より、清貧で勉強も運動も優秀だったマモルのことを、永井と水沢は心から愛していた。それと同時に慌てふためいた。まずはとにかく研究所長の棟方にその悲報を伝えなければならない。
棟方は永井からマモルの身投げの話を聞いて、頭を悩ませた。我々は7年という年月をかけて育ててきた大切な実験体を、これで失ってしまうのか、と。・・・
しかし我々は、遺伝子操作した少年を簡単に失うわけにいかない。何が起きようと、ガンに打ち勝つ免疫システムを持った少年を失っていけない。たとえ生身の少年を死して失ったとしても、彼の体内に働く免疫システムだけは何とかして確保して、次なる実験につなげなければならない。・・・
そう考えて棟方は、デスクに向かって、まずはとにかく2本続けて電話をかけた。一件目は、種々の医療系の認可に携わる厚生労働省の中上恵子事務次官だ。もう一件は、少年が身投げした七菱ケミカルの製薬部門の実権を一手に握っている森本実会長だった。
七菱製薬の森本会長は厚労省の中上事務次官からの要請を受けて、 すぐに七菱ケミカルの幹部たちとタンク・ターミナルの実務の担当者たちをそれぞれのオフィスに招集した。そしてズームで会議して、17号タンクを可能な限り早急に空にするその計画を立てた。
その夜から、稼働可能なタンクローリ車のすべてを、1日3交代の24時間体制で働かせた。そして2週間をかけて、17号タンクにあった石油液化ガスのすべてを、事故の時点でちょうど空だった5号タンクに移動させることに成功した。
次の日の早朝5時、17号タンクのその前には、秘書を連れ立った七菱ケミカルの佐久間常務とタンク・ターミナルの八島所長、タンクの管理担当者の3名が出揃っていた。時間前にはタカラダ生化学研究所の宝田祥一と、マモルの検査を担当していた永井満と水沢茂久が到着をしていた。宝田の要望もあって、警察には事件の処理を事後報告で済ませることにした。
17号タンクの屋根の上へと、強化ビニールで作られた黄色いツナギの安全服を身に着けて酸素ボンベを背中に付けた3名の管理担当者たちが上ってきた。
佐久間常務はその場にヘリコプターを用意していて、少年の遺体を発見した際に移送のために使用するストレッチャーを、管理担当者たちが待機している17号タンクの屋根の上へと下ろした。マンホールの横に横たえたストレッチャーには、遺体を固定するための頑丈なハーネスとカラビナが取り付けられていた。
管理責任者の長である夏木が¬酸素用のマスクを着けて、空になったガスタンクの内階段を異臭漂うタンクの底へと、一歩、一歩、下降していった。すると、タンクの底の中央にあたるバルブの近くに、タンクを満たした石油液化ガスの中に身投げしたらしい哀れな少年の遺体が見えた。
・・・その時、マモルの脳裏には、唐突に炎が着火して、全身に一気に燃え広がってゆく高温の地獄が蘇って感じていた。
タンクの底に横たわった少年は、身投げした時には、当然、衣服を身に着けていたはずだが。しかし、なぜか少年は、全裸の状態になって力無くその場所に伏していた。
・・・2週間、石油液化ガスの中に浸かっていた少年の衣服は、どうやら衣服に混紡されていた石油系の化学繊維が石油に感応して、跡形もなく溶けてしまったようだ。
・・・少年の全身には高熱を伴った炎が燃え広がって、彼の衣服を跡形もなく焼き尽くしていた。その時、質量の重たい石油液化ガスのただ中に溺れて、意識を失った少年は、自身の脳裏とその全身の感覚に、体細胞を焼き尽くす、鋭く突き刺す強烈な痛みを感じ取っていた。
夏木は内階段を注意深く下りながら、タンクの底にそうした少年の遺体を見付け、無線を指でオンにして、屋上のマンホールから夏木を見下ろして待機している部下の2名に報告をした。
「見付けたぞ。少年の亡骸がタンクの底に横たわっている。・・・このまま俺が、底まで下りたら、続けてストレッチャーをタンクの底まで降ろしてくれ」
それに2人が「了解」と応えた。
夏木はタンクの底に降り立つと、排出口の近くに伏している少年に目をやって、緊張感に包まれて大きく息をした。それから、そこに横たわった少年の背後に恐る恐る歩き出していった。少年の半身が、まだ少量、タンクの底部に残っている液化ガスに浸かっていた。
それから少しして、長いロープのその先に固定されているストレッチャーが下ろされてきた。夏木はハーネスのロックを外してストレッチャーを少年の背後に丁寧に横たえた。それから上体に力を入れて、少年の裸体をストレッチャーのハーネス上に仰向けに横たえた。その時、夏木は少年の顔を見て、この世のものとは思えない底知れない恐怖に背筋を凍えさせた。少年の顔を見た瞬間、夏木は自身の心臓が止まるかと思った。少年のその顔には、信じられない変化が起きていた。
少年のその顔からは、両目にあるはずの眼球が失われていた。水分とゼリー状のコラーゲンで出来た眼球は、石油の強い溶解力によって溶けてしまったようだ。その上、眼球が無くなって空洞となっていたはずの眼底が、なぜか新たな皮膚と肉質によって埋められている。その目の部分には小さな窪みがあるだけになっていた。
夏木は20代の半ばから石油液化ガスを満タンにするガスタンクの管理を仕事にして来たが、これまで石油液化ガスのその中に溺れて死んだ人間を見たことが無かった。それゆえ、人間は液化ガスに2週間も浸かっていると、こんな悲惨な姿に成り果ててしまうのかと、心痛めて動揺した。
夏木は頭を振ってタンク内を呆然と見回した。それから何度か深呼吸をくり返した。そうして何とか我を取り戻した。そして、少年の遺体をハーネスに固定して、留め具をしっかりとロックした。次には、少年を哀れに思って、腰に付けていた1枚のタオルで彼のその顔を覆った。それから屋上のマンホールから内部を覗いている2名に向かって手を上げて、無線に手をやり「少年の遺体をハーネスに固定した。良し。良いぞ。ストレッチャーをゆっくりと引き上げてくれ」と指示した。
夏木の指示を受け、屋上にいる2人の手によってロープが注意深く巻き上げられ、少年の遺体を乗せたストレッチャーが屋上に向かってゆっくりと引き上げられていった。そして屋上にストレッチャーが横たえられて少年の遺体が確認されると、屋上で手を振った1名の合図を受けて、上空に旋回していたヘリコプターが緩やかに近づいて下降してきた。
タンクの屋上の2名は、ヘリコプターから下されたロープの先のカナビラを、少年の遺体を固定しているストレッチャーのグリップに確実に噛み合わせて、しっかりと接続した。
それを終えると、タンクの屋上の1名の合図を受けて、ヘリコプターはふたたび緩やかに上昇していって、あらかじめ打ち合わせしておいた、七菱ケミカルのオフィスビルの前に位置する敷地の広い駐車場へとストレッチャーを降ろした。
タカラダ生化学研究所の永井と水沢がヘリコプターによって降ろされたストレッチャーを地面へと横たえた。永井と水沢は、まずは全裸になってそこに固定されて横たわったマモルの遺体を見て、不可解に思った。二人は、身投げ当日の監視カメラの映像を七菱ケミカルの夏木に依頼して研究所に送ってもらって、その日のマモルの行動を確認していた。その時、マモルは黒っぽい衣服を着ていたはずだ。
そして、可愛かったマモルがこんな姿に成り果ててしまうなんてと、顔のタオルをそのままに、少年の遺体を悲しみの目で見つめた。それから、死した少年を少しだけでも楽にしてやろうと、ストレッチャーにあるハーネスのロックを少しだけ緩めた。そんな2人のところへと、苦々しい顔をした宝田が歩み寄ってきた。
少し離れて、七菱製薬の森本会長と七菱ケミカルの佐久間常務がそんな彼らを遠目から見ていた。2人はそれを見ていて、彼らや遺体に一歩も近付こうとしなかった。どうやら森本と佐久間は厚労省の中上事務次官から、少年の遺体のその後のことは研究所の宝田所長にすべて任せるようにと強く申し付けられている様子だった。
永井が宝田に留まるように手を差し出し、一旦、着けていたラテックスの手袋を外して、自身のスマホに七菱ケミカルの管理担当者の夏木にダイヤルした。
すると、他の二人と一緒に17号タンクの前に降りてきて、ちょうど酸素マスクと両手の手袋を外し、フロントのジッバーを腹の辺りまで下ろしていた夏木が、少し慌てて自身のズボンのポケットにあるスマホを手に取って「こちら、夏木です」と応えた。夏木はタンクの底で少年の遺体を見て以来、口数が少なく、少し顔色が冴えないでいた。
永井がスマホをスピーカーホンにして、そんな夏木に「こちらタカラダ研究所の永井です。ひとつ質問があります。マモルは身投げの当日、衣服を着ていたはずですが、全裸になっているって言うのは、どう言うことなんでしょうか?」と尋ねた。
夏木は2人の部下たちから少し離れて、歩き出していって、永井に「はい。少年は確かに衣服を着ていました。・・・それについては確かなことは言えませんが、多分、少年が着ていた衣服に混紡されていた化学繊維が石油の溶解力に感応して、溶けて失われたのではないかと想像しています」と説明した。
ガスタンクの管理責任者であって、化学者ではない夏木には、その問いに対する明快な科学的根拠など一欠片も無かった。とは言え、長く石油とガスタンクに接してきた夏木特有の、経験値に基づく回答ではあった。・・・
永井が棟方に目配せして小さく頷いて、夏木に「なるほど。そう言うことですか。・・・少年の異状については、引き続き内密にしておいてください。必ず謝礼は支払いますので」と、改めて彼に確認するように、彼に言い聞かせた。
夏木は離れて、少年の異変については何も知らない2人の部下たちに目をやって、声を低くして、続けて永井に「それともう一つ。タオルで顔を隠してありますが、少年のその顔を見てください。・・・多分、こいつも石油の溶解力のせいかも知れません。・・・何がどうしたのかは分かりませんが、なぜか少年の眼球が無くなっているんです」と話した。
永井はそれを聞いて愕然として、近くにいる宝田と水沢とその顔を見合わせた。すぐさま水沢が、マモルの顔を覆っているそのタオルを外した。すると、どうした事なのか、マモルの顔からはその目の眼球が無くなっていた。その上、空洞になっているはずの眼底が新たな皮膚と肉質によって塞がれていた。
それを目にした宝田が「これは、どう言うことなんだ?」と、永井と水沢に問うた。
永井がそれに頷いて「タンクの底にマモルを発見した夏木管理者は、これも衣服と同じく石油の強い溶解力によるものではないかと話していました。眼球は極めてナイーブな水晶体で出来ていますからね。強膜が破れたら、簡単に溶けて無くなる可能性はあります」と話した。
続いて水沢が、奇妙に新しい肉と表皮で封じられている、眼球を失ったマモルの両目を見て、不可解に思ってその首を傾げながら尋ねた。「それじゃあ、眼球を失ったマモルの眼底が新たな肉と表皮で覆われているのは、どう言うことなんでしょうか?」
宝田が、新たな肉で封じられ、小さな窪みのようになったマモルの両目をじっと見つめて、想像力を働かせた。そしてこのように洞察した。
「マモルの身に施した、免疫システムを際限なく増強させる遺伝子操作に、その原因があったのかも知れない。もしかしたら、彼の体内で免疫システムは今も機能しているのかも知れない」
「しかし、マモルは液化ガスの中に溺れて、死んでいたのですよ。身投げした直後に呼吸が出来なくなって、液化ガスを大量に飲み込んだに違いない。多分、その時点で死に至っていた。液化ガスは2週間の間に、彼の内臓を破壊し尽くしています。・・・けれど、マモルが死んでもしばらくは、彼の体内では免疫システムが機能していたと言うことなのですか?」と、水沢が唖然となって質問で返した。
そう言って困惑した水沢が、その時、偶然に、手袋した手でマモルの左胸に触れた。すると水沢のその顔が動揺に包まれた。水沢は、マモルの心臓に鼓動を感じ取ったのだ。
水沢は顔付きを歪め、身震いして声を低くして「永井さん。マモルの心臓が動いていますよ」と話した。
永井がそれを聞いて、マモルの心臓の上にその手を置いてみて、マモルの心臓の鼓動を感じ取って頷いてみせた。同時にあえて確認のために、マモルの鼻孔と口のその上にもう片方の手の平をかざした。しかし、その時、マモルは一切、呼吸をしていなかった。
永井は困惑を極め、傍らに立って2人の様子を観察している宝田へとその顔を上げた。永井は、信じられないと言った神妙な顔付きをした。そして声を低く宝田に伝えた。
「宝田博士。・・・あり得ない事態ですが、マモルの心臓が鼓動しています。・・・なぜか呼吸はしていないようですが。・・・」
宝田はその話を聞いて、首を傾げてその目を強く輝かせた。・・・ガン細胞に対する免疫システムの活性の研究は、遺伝子レベルにおいてだが、これからも続けて行けるかも知れない。研究を続けたなら、ガンに苦しむ世界の人々を、今後、多くの人々を、きっと死から救えるようになるはずだ。・・・宝田はそんな風に考えた。
そして「どう言うことだ?マモルは今も生きていると言うのか?」と、マモルの鼓動する裸体を片膝を着いて囲んでいる永井と水沢に冷静に問うた。




