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罪の代償          :約3500文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/03/03

「はあ……はああぁ…………うおっ」


 夜の帰り道、おれは思わず声を漏らした。横道から男が、ぬっと現れたのだ。

 秋とはいえ、まだ蒸し暑さが肌にまとわりつくというのに、男は場違いなロングコートなんぞ着込んでいる。露出魔かと身構え、ちらりと視線を下げたが、幸い下はちゃんと履いているようだった。

 ただの通行人らしい。おれは小さく息を吐き、軽く会釈して通り過ぎた。


「――りにきた……」


「え?」


 今のは、おれに向けて言ったのか。……どうもそのようだ。振り返ると、男は顔をわずかに傾けてこちらを見ていた。 

 だが、どういう意味だ。今の、おれの聞き間違いでなければ――。


「殺しの報酬を受け取りにきた……」


「こ、殺し……!?」


 声が裏返り、おれは慌てて口を押さえた。それから反射的に周囲を見回した。人影はない。いくつかの家は灯りが点いてはいるが、静まり返っている。遠くでエアコンの室外機が唸る音だけが、かすかに響いていた。

 視線を戻すと、男は体ごとこちらを向き、こくりと頷いた。周囲に誰もいないことなど、すでに把握済みだと言わんばかりの落ち着きがあった。

 いったいなんなんだ、この男は……。殺し屋気取りの変質者。いや、精神異常者か?

 おれが一歩後ずさると、男はぐいと一歩距離を詰めてきた。


「きっちり払ってもらおうか」


 いずれにせよ、男は本気らしい。低く抑えた声には、冗談めいた響きは一切なかった。闇の中で光る鋭い眼光に、ぞわりと肌が粟立った。

 しかし、仮に本物の殺し屋だったとしてもこれは何かの間違いだ。

 おれはそう言おうと口を開いた。


「っ……」


 だが言葉が喉に詰まった。人違いだと言ったところで、話を聞いてしまった以上、口封じにこの場で殺される可能性だってある。 

 仮にそこまでされないとしても、脅されるだろう。なんでおれがこんな目に……。殺しどころか、争いごと自体苦手で、口論だってできやしない。いつも一方的に怒鳴られてばかりだ。なのに……待てよ。殺し……殺し……。


「あっ!」


 頭の奥で記憶の断片が光った。そうだ。数日前の夜、飲み屋で隣に座った男と酔った勢いでそんな話をしたのだ。

 うちの……隣の家の住人が毎日騒がしくて迷惑している。いっそ誰か殺してくれないか、と……。

 ああ、間違いない。思い出してきた。その相手は確かにこの男だった。ということは……ま、まさか本当に殺したのか……? あんなの、ただの愚痴だったのに……。


「さあ、報酬を払ってもらおうか。あんたが電車に乗っている間に片付けた。疑われることもないだろう」


 淡々とした口調だ。いつもそうやっているとでも言うように。

 胃のあたりがずしりと沈み、おれは唾を飲み込んだ。


「い、今は……その、持ち合わせがなくて……」


「それはそうだろう。ATMに行こう」


「いや、口座にもあまり……あっ、家に来てもらえれば……」


「では、そうしよう」


 男は短く言い、おれの背中にそっと手を添えて並んで歩き始めた。

 なんということだ。家にも金なんてほとんどない。しかし、ああ言うしかなかった。口座の金は微々たるものだし、それを差し出せば、それこそおれは破滅してしまう。

 必死に頭を回しても妙案は浮かばず、気づけば自宅が近づいてきていた。

 だが、どうしようもなかった。逃げようにも、足が震えてまともに走れる気がしない。それに、男はわずかにおれの前を歩いている。まるで道案内でもしているかのように。つまり、家の場所を知っているということだ。飲み屋で隣の家の住所や特徴をべらべらと話してしまっていたのだ。となると……や、やっぱり、隣の住人は本当に、し、し、死んで……。


「うっ」


 ふいに吐き気が込み上げ、おれは立ち止まり、前かがみになった。喉がひくつき、何度かえずいたが、出てきたのは唾だけだった。

 胸のあたりが空洞になり、そこを冷たい風が吹き抜けていくような感覚がした。寒気が走り、ぶるっと体が震えた。靴裏がアスファルトを叩き始め、ガタガタと音を立てた。

 顔を上げると、男が怪訝そうに眉をひそめていた。おれは無理やり口角を引き上げた。引きつっているのが自分でもわかる。神経を逆なでし、蹴りか拳が飛んでくるのではないか――そんな予感が頭をよぎったが、男は小さく息を吐いただけだった。


「さあ、行こう」


「はい……」


 おれは震える指でポケットから鍵を取り出した。何度も空振りしてようやく鍵を差し込むと、息を止めてできるだけ音を立てないようにそっとドアを押し開けた。

 中に足を踏み入れた瞬間、男は「ん」と低く声を漏らした。それから鼻をすすり、小さく咳払いした。

 おれは「と、とりあえずリビングへ、静かに行きましょ……」と囁くように言い、奥へと誘導した。

 リビングに入り、電気をつけようと壁のスイッチに手を伸ばすと、男が素早くおれの手首を押さえた。


「ひっ」


 反射的に男のほうへ顔を向けると、男はゆっくりと首を振った。つけるなということらしい。おれはへこへこと頷き、「ど、どうぞ……」とソファを指し示した。だが、男はまた首を横に振った。背筋を伸ばしたまま、部屋の入口近くに立ち続けている。もしものときの逃げ道を確保しつつ、こちらの動きを監視しているのだろう。


「さ、さすがプロですね……」


 と、おれは自分でもよくわからないまま、そんな褒め言葉を口走った。頭の中がぐちゃぐちゃで、今すぐ叫び出したいくらいだった。

 こんなとき酒があれば……。そうだ、酒だ。飲まなきゃ正気でいられるか。男にも勧めて、少しでも空気を和らげよう。それから、どうにかおとなしく帰ってもらうのだ。

 そう考えたとき、男が小さく咳払いした。


「……さあ、さっさと払ってくれ。そのほうがお互いのためだ」


「ひっ……え、ええ、あの、でも……」


「ああ。わかってる。証拠が見たいんだな」


 男は淡々とそう言うと、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を突きつけてきた。


「……ひ、あ、ああああ!」


 喉の奥から勝手に悲鳴が飛び出し、おれは腰が抜けたように尻もちをついた。男がおれの腕を掴んで乱暴に引き起こす。その拍子に、また画面が視界へ飛び込んできた。

 そこには、隣の家の住人の無惨な死体が映っていた。顎はほとんどちぎれ、頭部は潰れ、血と肉と骨が混ざり合って境界が消えている。片方の眼球は床に転がり、もう片方はまるで皮を剥いたブドウか枝豆のように眼窩から飛び出しかけていた。

 こんなの、特殊メイクでも無理だ。な、生々しすぎる……。


「あの、あの……な、なんで、なんでこんな……」


「どうした?」


「あ、いえ、その……なんで、私なんかの依頼を……? プロの、プロの方が、プロなんですよね? あ、いや、別にその、腕を疑っているわけではなくてですね……」


 おれは自分でも何が言いたいのかわからず、しどろもどろになりながら必死に言葉を搾り出していた。だが、男は静かに頷いた。


「ああ……確かにな。普段、こんな依頼の受け方はしない。……だが、あんたの話を聞いていたら、あまりにも不憫でな。まあ、世直し、社会貢献ってやつだ」


 人殺しのどこが世直しなのか、おれにはまったく理解できない。ただ恐怖だけが確実にじわじわと体を締めつけてきた。


「安心しろ。料金は飲み屋で話したときのままだ。……今までつらかったな」


 男はふっと表情を緩め、おれの肩にそっと手を置いた。その指の重みと柔らかな声が胸に沁みた。目の奥が熱くなり、涙が勝手にあふれ、喉がひくりと鳴った。男は何も言わず、ただ静かに深く頷いた。


「ひどい隣人だったんだな……。あんたの話を思い出したら、ついやりすぎてしまったよ。毎朝怒鳴られ、殴られ、生ごみを投げつけられたんだって? それから、あれはひどかったな――」 


「ちょっと、あんたたち……」


 背後から声がして、おれたちは同時に振り返った。

 そこには廊下の明かりを背に、妻が立っていた。逆光で表情は読み取れない。だが、その声色だけで十分すぎた。体の芯がずんと重くなった。


「なにしてんの」


「あ、あ、あ……この人が、金が欲しいって! 強盗!」


 おれは反射的にそう叫んでいた。次の瞬間、妻の顔の影がゆっくりと歪んでいった。

 そして、あ、あ、あ……そこから先は見るも無残な、あ、あ、お、おぞましい……血がそんな、あ、あ、あ、骨があんなに、か、噛みちぎったのか、まるで獣の、いや、化け物の捕食、あ、あ、あ、どうしてそんなことができるんだ……あ、あ、あ……。


 ――おれはまた、嘘をついてしまった。


 胸に重たい背徳感を抱えたまま、おれは祈った。

 どうか、妻の矛先が自分に向きませんように、と。

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