第二話 カシウス家の困った事情
第二話です。いよいよ異世界転生、始まります。
温かい家庭を感じていただけると嬉しいです。
その日、イクスの町にあるカシウス家の寝室には、どこか張り詰めた、けれど蜂蜜のように甘く困惑した空気が漂っていた。
カシウス家は、魔法科学が発展したこの「ニエフ」の世界において、中流階級に属する敬虔なクリスチャン家庭である。
家長であるウィリアムは、身長190センチメートルを超える偉丈夫だ。彫りの深い顔立ちに、長年の鍛錬を感じさせる丸太のような腕。彼は教会の牧師として日曜日に教壇に立つ一方、週の半分は腕利きの剣士として魔物を討伐する「冒険者」を兼業していた。教会員たちにとっては、信仰と実力、そして愛妻家ぶりにおいて非の打ち所がない良き模範とされる人物である。
妻のレベッカもまた、女性としては抜きん出た180センチメートル弱の長身を持ち、スレンダーながらも洗練された魔力操作に長けた魔法使いである。彼女もまた、牧師婦人として人々に慈愛に満ちた助言を与える傍ら、冒険者として夫の背を預かり、共に家計を支えていた。
聖職者が剣を取ること。それはこのニエフにおいて決して不自然なことではない。
この世界では、魔物が生活の糧として必要不可欠だからだ。肉は滋養に富んだ食卓の彩りとなり、皮や骨は生活を支える道具となる。そして何より、魔物の核である「魔石」は、冷蔵庫やエアコン、魔石車といった魔法科学製品を動かす「動力源(電池)」として、文明の根幹を担っていた。
しかし、カシウス夫妻が命懸けで戦場へ向かうのには、より切実な、この世界の「厳しい現実」も影響していた。
近年、ニエフでは人々の心に大きな変化が起きていた。唯一の主を仰ぐ信仰は影を潜め、代わりに目に見える像を崇める偶像崇拝や、八百万の神々を信じるアニミズムのような魔物信仰が台頭し始めていたのだ。
その潮流に押され、信徒の数は年々減り続けている。当然、教会に集まる献金も目に見えて減り続け、牧師としての給料だけでは日々のパンを買うことすらままならない。
カシウス夫妻が冒険者として素材を売り、魔石を換金し、獲れた肉で家族の胃袋を満たすのは、信仰を守り抜きながらささやかな幸せを維持するための、必死の生存戦略でもあった。
そんな荒波の中、夫婦が最初に授かった宝物が、長女のカシウス・マリーである。
マリーは、まさに「普通の赤ん坊」を体現したような子供だった。腹が減れば火がついたように泣き、オムツが汚れれば世界が終わるかのように叫ぶ。時には理由もなくぐずり、両親をてんてこ舞いにさせる。ウィリアムとレベッカは、育児と牧会、そして冒険者という三足の草鞋を履きこなし、毎日を戦いのように、けれど幸福に過ごしていた。
やがてマリーが五歳になり、ようやく育児の手が離れ始めた頃、レベッカの第二子妊娠が判明する。
「あなたはお姉さんになるのよ」
そう優しく教えられたマリーは、宝石のような瞳をきらきらと輝かせ、「お姉さん!」とはしゃいで両親の周りを駆け回った。
それから七ヶ月後。レベッカは無事に男の子を出産した。
だが、その瞬間に立ち会った者たちは、一様に奇妙な感覚に襲われることになる。
「……ねえ、あなた。この子、全然泣かないわ」
産声を上げたはずのその時。赤ん坊は「ギャア」と泣く代わりに、両親から受け継いだ薄い青色の瞳を見開き、ぽかんとした表情で周囲を見回していたのである。
(……ここが、ニエフか。眩しいな……それに、なんだか体が重い。これが赤ん坊の体ってやつか……?)
中身である香取錬は、冷静に状況を分析していた。しかし、周囲はそうはいかない。
「うちの子は、一体どうなってしまったのだ」
ウィリアムが顔を青ざめる。すると、助産婦が慌てて俺の尻をペチペチとはたいた。
(いっ!? 痛え! なにしやがる!)
「ギャーーー!」
俺は思わず抗議の声を上げた。それが産声として認識され、場が安堵に包まれる。だが、叩くのをやめれば俺も泣き止む。俺は涙を引っ込め、冷静に、そして期待を込めて目の前の「両親」を見上げた。
(この人が、新しい母さん……レベッカか。綺麗で、優しそうな人だ。隣のデカいのが父さんのウィリアム……)
そして、ウィリアムとレベッカが恐る恐る顔を覗き込んだ、その時。
俺の唇は自然と緩み、満面の笑みになっていた。意識して笑ったわけではない。ただ、彼らの眼差しがあまりに温かかったからだ。
新生児が、意識的に親を認識して笑う。
その光景に驚愕しつつも、小さな掌を必死に伸ばしてレベッカの指を握り締めようとする姿に、母親の心は震えた。
「……おいで。よろしくね、私たちの坊や」
レベッカは、どんなに不可解であっても、自分を求めて微笑む我が子を突き放すことなどできなかった。抱きしめられると、赤ん坊は魂の底から安堵したような、この上なく幸せそうな顔をして、そのまま深い眠りに落ちていった。
(ああ……あったかい。地球の家にはなかった温度だ……)
それから一ヶ月。
赤ん坊の「異常なまでの賢さ」は、もはや疑いようがなかった。
やはり、泣かないのである。
(腹減ったな……。泣いて呼ぶのは精神的にキツイし……よし、母さんに熱視線を送ろう)
俺がじーっとレベッカを見つめると、彼女はすぐに察しておっぱいをくれる。
(あ、オムツやばい。父さん、そこ!)
俺が指差せば、ウィリアムが飛んできてオムツを替えてくれる。
夜泣きなどするはずもない。家族の顔を見れば、俺は常に「きゃっきゃっ」と、まるで彼らとの出会いを祝うかのように歓喜の声を上げる。
その愛らしさは尋常ではないが、どこか「中身が大人なのではないか」という不気味なほどの理性を感じさせた。
ウィリアムは、この事態を解明するため、そして未だ名無しの息子の名を得るため、町外れにある「対談所」へ通い詰めていた。
対談所とは、主イエス・キリストから力を借りてこの世界を創り上げた「想像主カレン」と対話ができる聖域である。
ウィリアムの子供が名無しなのは、彼がカレンを深く敬愛しており、できればカレンから息子の名前をもらいたいと願っているからだ。多くの家庭では形骸化している風習だが、ウィリアムの敬愛は本物だった。
そんなもやもやした気持ちを二週間抱えて通い続け、ようやく対談所の個室の向こうから、いつもの軽い声が響き、ホログラムか蜃気楼のようなカレンの姿が現れた。
「やあウィリアムさん、元気かい? しばらく連絡が取れなくて悪かったね。……聞きたいのは、あなたの長男についてでしょ?」
「……はい、カレン様」
ウィリアムは必死に食らいついた。
「息子が、普通の赤子に見えないのです。泣かず、困らせず、ただ私たちを見て微笑み続けている。あの子は、一体何者なのですか?」
カレンはふー、と一息つくと、ウィリアムにとっては意外な事実を口にした。
「説明が遅れたのはごめん。あの子をあなたたちの元へ『転生』させるのに、想定以上に力を使い果たしちゃってさ。……結論から言うよ。あの子は転生者だ。地球での記憶を保ったまま、君たちの息子として生まれ直した。赤ん坊らしくないのは、そのせいだよ」
「……転生? あくまで、ただの人間に過ぎないのですか?」
「そう。ただの、ちょっとだらしないけど根は良い奴だった人間だよ」
カレンは笑いながら続けた。
「あの子はね、地球で愛情に恵まれなかった。家族という温もりを知らず、家族内の信仰も形骸化していた。だから僕は、彼をニエフに呼ぶにあたって、あなたたちを選んだんだ。ウィリアムさんとレベッカさんは、彼が地球で心から憧れていた『理想の宣教師一家』にそっくりなんだよ」
ウィリアムは言葉を失った。
「あの子がいつもニコニコしているのは、今の状況が幸せで仕方ないからなんだ。あなたたちが抱きしめるたび、彼は地球で得られなかった家族からの愛を感じている。……お願いだ、ウィリアムさん。あの子を、最高の愛情で包んでやってくれないかな?」
想像主カレンは、自分の「目的」のためにレンに力を与えたこと、しかしその力が傲慢に繋がらないよう、カシウス家という「信仰と愛」の園で育ててほしいことを、包み隠さず話した。
「……なるほど。あの子――私の息子は、あなたの目的のために生を受けた。ですが、あなたがどれほどあの子の幸せを考えてこの家を選んだか、よく分かりました。……ところでカレン様、私たちはあの子になんと名付ければよいのですか?」
「ああーーーっ! ごめん! 自分の中ではもう決まってたから伝えた気になってたよ! てへ」
ウィリアムは強く目頭を押さえた。この適当さこそ、カレンが神ではない証左だとさえ思えた。
「その子の名前は、レン。カシウス・レンだ。……彼には『ビーストテイマー』のスキルを与えた。五年後、ふさわしい動物を与えてやって。正直、僕には子育てなんて無理なんだ。僕よりも、ウィリアムさん一家の方がクリスチャンとしてずっと立派さ。僕は誇らしいよ、自分の作った世界に、自分よりも素晴らしいクリスチャンがいるなんてさ」
ウィリアムは、幻影の向こうの孤独な「想像主」の言葉に、不思議な共感を覚えた。
「……分かりました。我が息子レン、主を恐れ敬う子供に育てましょう。愛情については……神様を除けば、私が一番愛しているのはレベッカです。ですから、二番目にはなりますが、マリーと変わらぬ全霊の愛を注ぐことを誓います」
「あはは、二番目か。ウィリアムさんらしいね。……ありがとう。レンを、よろしく」
対談所を出て、家路につくウィリアムの足取りは軽かった。
家に戻ると、寝室ではレベッカがマリーと一緒に、レンを囲んで笑い合っていた。
「見て、パパ! レンね、私が指を出すとぎゅって握ってくれるの!」
「うふふ、本当にこの子は、私たちが触れるだけで嬉しそうにするわね」
レンは、マリーの小さな指を握り締めながら、レベッカの腕の中で、この上なく満足げな表情を浮かべていた。
(あったかい……。マリー姉さんの手も、母さんの腕の中も。これが、家族か)
地球での冷たい部屋で凍えていた俺の魂が、今、この家族の「体温」によってゆっくりと溶かされていく。
ウィリアムは、その輪の中にそっと入り、息子の小さな頭を撫でた。
「お前の名前は、レンだ。カシウス・レン。今日から、改めてよろしくな。私たちの自慢の息子よ」
(レン……カシウス・レン。それが、俺の……いや、僕の名前)
レンの両親から受け継いだ薄い青色の瞳が、ウィリアムを見上げて、いっそう明るく輝いた。
世界を想像した男が、最も孤独だった自分自身に贈った、最高の「家族」という名の贈り物。
カシウス家の新しい日常が、ここから静かに、そして温かに始まろうとしていた。




