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真夜中の出会い

 私の名前は倉持ツムギ。しがないプログラマーだ。

 毎日コードを書いて、バグに泣かされて、心がエラーコードまみれになりながら生きている。


 まあ、そんな日常の愚痴はさておき——今日も例に漏れず、仕事帰りに夜空を見上げていた。夏の夜風はぬるくて、汗が引くわけでもないのに、なぜか心だけは少し軽くなる。空に広がる星の光が、頭の中でぐちゃぐちゃに絡んだ処理をリセットしてくれる気がする。いつも不思議に思う。


「はあ……今年も夏の大三角、綺麗だなあ」


 子どもの頃は、あれに手が届くと思って本気で背伸びしたものだ。今はもう届く気がしない。それは大人になったからなのか、それとも“届かない距離”という知識を得てしまったからなのか。そんな感傷に浸って心のバランスを取っていた、その時だった。


「にゃーん」


 足元で柔らかい声がして、顔を下げる。いつもの三毛猫がいた。会社帰りの私をよく見かけるせいか、最近は「お、あんたか」という顔で寄ってくる。白と黄と黒のまだら模様、くりくりの黄色い目。街灯に照らされる姿は、夜道の小さな天使みたいに見えた。

 可愛い。癒し。唯一の生きがい。……いや、それはちょっと悲しい。


「今日はやけに積極的じゃん」


 三毛猫は私の足に、ぺしっと前足を置いた。いつもより距離が近い。目もギラッと輝いている。なんだろう、腹でも減ってるのか。


「ほら、煮干しあげるよ。私のストレス対策アイテムなんだけどね……」


 予想は的中だった。煮干しをあげると、猫はクンクン嗅いで、ぱくりと食べる。味わうように目を細めて咀嚼する姿は、星空よりもずっと心を癒してくれる。そして猫はゴクリと飲み込むと、「もう一口」と言わんばかりに私を見る。


「がめついなあ……。まあ、いいけど」


 おかわりをあげると、今度は匂いも嗅がずにパクっと食べた。なんて図々しい猫だ。少しくらい遠慮はないのか。私もこのくらい図々しく生きられたら、もう少し人生が楽しかったのかな。……いや、可愛くない私がこんな風に図々しくなったら、この世の化け物になってしまう。やめとこう。


 結局、煮干しを数個あげたところで、三毛猫は急にビクッと耳を動かした。

 次の瞬間——


「キミ!! キミにいいものをあげよう!!」


 背中から声をかけられ、心臓が止まるかと思った。振り返ると、白衣のお姉さんが路地裏から飛び出してきていた。


(……なんで白衣? 夜中の住宅街に白衣? 医療関係者? いや医療関係者だとしても私になんの用?)


 お姉さんは両手を広げ、私にズンズン近寄ってくる。唐突すぎて脳が混乱し、しゃがんだまま動けない。赤いシャツとジーパンの上から白衣。地面に着きそうなほど長い青髪。ハイライトのない目。完全にやばい人だ。どうしよう。このまま実験用モルモットにでもされるのだろうか。

 そう考えているうちに、お姉さんは目の前まで来てしゃがみ、私の手を取った。


「さっき星を見てただろう!? 願いを込めていただろう!!」


「い、いや……ただの現実逃避で……」


「現実逃避も立派な願いだ!!」


 この人、本格的にヤバいやつかもしれない。逃げようにも手を掴まれていて動けない。いや、そもそもデスクワークばっかで運動不足の私じゃ、掴まれてなくても逃げ切れないだろう。


「そんなキミに、この薬をあげよう!」


 お姉さんは興奮気味に白衣のポケットから何かを取り出し、私の手に握らせてきた。


「これは《願いの薬》!! 飲んだ者の願いを一つだけ叶える、私の最高傑作さ!! 以上!!」


 叫ぶと同時に、お姉さんは通報を考える暇もなく全速力で走り去っていった。

 ……なんなんだ。

 手のひらを見ると、確かに薬が1錠握らされていた。白と赤の、典型的な“薬っぽい見た目”。 『願いの薬』、ね。これを飲めば、この退屈な日々が変わるのだろうか。


 ——いや、飲むわけないじゃん。


 地面にポイッと投げ捨てる。そんなうまい話があるものか。あんな格好してた人の言うことなんて信用できるはずがない。はぁ、明日からこの通りは避けよう。家までの最短ルートだったし、あの三毛猫にも会えたお気に入りの帰り道だったんだけどなぁ。


 その時だった。


「にゃ……」


 三毛猫が、捨てた薬に興味津々で顔を近づけていた。飴玉か何かと勘違いしてるのかもしれない。


「あっ、ちょっと、それは——!」


 止める間もなく、三毛猫は薬をぱくりと飲み込んだ。まさか本当に飲むとは。こんなことなら家で捨てるべきだった。猫、大丈夫だよね……?


 そして次の瞬間——


 猫の体が、まばゆく光り始めた。真夏の太陽より眩しい光に、思わず目を覆う。光はどんどん強くなり——そして、唐突に、消えた。

 恐る恐る目を開けると、そこには十八歳くらいの少女が座り込んでいた。肩までの黒髪に黄色のインナーカラー、雪のように白い肌。猫みたいに丸くて黄色の瞳。そして——尻尾と、猫耳。いや、これ本物?

 しかしそんなことを考えている場合じゃない。なぜなら彼女は、素っ裸だったからだ。あまりの状況に頭がバグっていなければ、正気を保てなかったと思う。


「……あの、えっと……もしかして、あの猫?」


 声を震わせて尋ねると、少女はぱちぱちと瞬きをして、小さく口を開いた。


「んー? そうだよ。あれ? なんで君、私と同じ言葉話せてるの?」


 やっぱりあの三毛猫だ。まさか日本語が通じるとは。そんな混乱をよそに、彼女は尻尾を揺らしながら四つん這いで私に近づいてくる。


「ねぇねぇ、まだ煮干し持ってるでしょ? ちょーだい、ちょーだい!」


「……え?」


 少女は腕を私の膝に乗せて、さっきみたいにおねだりしてくる。行動からして、自分が人間になったことに気づいていないようだ。猫なら許されてた距離感が、人間の姿だとあまりにも近い。

 いや、かわいいけど。かわいいけども!!しかも全裸。目のやりどころに困る。てか、なんで猫のくせにこんな胸でかいんだよ。私なんてまな板なのに——って、そんなこと考えてる場合じゃない!

 この状況、誰かに見られたら確実に職質コースだ。いや、職質どころか人生終了コース。

 その時、背後の民家でカーテンが揺れる音がした。


(まずい!! まずいまずい!!)


「わーーーった!! ちょっと来て! ほら、行くよ!!」


 混乱のまま私は何を血迷ったのか少女の手を握り、走り出した。明らかに間違った選択だが私には考える時間がなかったし、手を取ってしまった以上とにかく見られる前に逃げるしかない。


「なにこれ? 走りづらいよ」


「いいから走って! 私だって必死なんだよ!!」


 少女は軽々とついてくる。さすが元・猫。脚力の次元が違う。どうにかこうにか、私はボロいアパートの前までたどり着いた。


「はぁ……はぁ……!!」


 私は汗だく。対して少女はケロッとした顔で尻尾を揺らしている。なんかもう、惨めを通り越して笑えてくる。


「とにかく……中、入って……!」


 震える手で鍵を開け、少女を中へ押し込んだ。ドアを閉め、鍵をかけ、深呼吸。ようやく少し落ち着く。


「……よし。ここなら、とりあえず安全」


 見慣れた我が家。ひとまず、ここなら他人に見られることはない。


 さて、どうする。混乱のまま連れ帰ってしまったけど、役所にでも持ってけばいいのだろうか。いや、正直に言っても信じてもらえるわけがない。“たまたま拾った”なんて言い訳も通用しない。プレゼンがやっと出来る程度の口下手な私じゃ、嘘で誤魔化すなんて無理だ。

 とりあえず、喋れるなら話してみよう。

 少女は玄関に座り込み、自分の身体を不思議そうに眺めていた。……そりゃそうだ。数分前まで猫だったんだから。


「ねぇ、私の名前は倉持ツムギ。あなたの名前は?」


 少女はきょとんとしたまま、尻尾をふにゃりと揺らした。


「……なまえ?」


「そう。君、自分のことなんて呼んでたの?」


「うーん……わかんない。

 みんな“猫ちゃん”とか“にゃーこ”とか言ってた」


「そ、そう……だよね」


 まあ、猫だし。自己紹介なんて文化あるわけないよね。


(……名前、必要だよね)


 猫のままならともかく、これから人間として生きる可能性があるなら、名前があったほうがいい。呼びやすいし、なにより“人”として扱える。


「……そうだな。君の名前、つけていい?」


「いい!!」


 即答。

 ぱっと瞳が明るくなる。反射的に「可愛い」と思ってしまう。でも、いざつけるとなるとすぐには思いつかない。私は少女の髪にそっと触れた。彼女は目を細めて、気持ちよさそうに身を預ける。

 黒髪に黄色のインナーカラー、そして雪のように白い肌——三毛猫だった頃の名残がちゃんと残っている。


(そういえば、昔“三毛猫飼いたい”って親に駄々こねたっけ……)


 懐かしさが込み上げたと同時に、口が勝手に動いた。


「——“ミケ”はどう?」


 三毛猫だから“ミケ”。

 単純すぎると思ったけど、妙にしっくりきた。

 一方の少女は、ぽかんとしたあと、小さくその音を転がす。


「……ミケ。

 ミケ、ミケ、ミケ!」


 次の瞬間、ぱあっと笑って尻尾がぶんと跳ねた。


「ミケってかわいい!好き!

 わたし、ミケだ!!」


 そう言って、勢いよく抱きついてくる。

 柔らかい肌が当たって、同性でも顔が熱くなる。


「ちょ、ちょっと!近い!素っ裸なんだから!!

 そ、それにそんなに気に入ったの!?」


「うん!!ツムギがくれた名前だもん!好き!!」


(理由、ざっくりしてる……でも、猫ならそんなもんか)


 私はミケをそっと引き剥がして姿勢を整える。


「ミケ、とりあえず服着よ。破廉恥だから!」


「はーい!破廉恥だから服着るー!」


 理解してるのかしてないのか分からない返事。案の定、裸のまま跳ね回るので、私は慌てて着替えさせた。服はぶかぶか、ブラはサイズ合わず。結局、ショーツとズボンとパーカーで落ち着いた。それでもミケは「服あったかい!」と初めての服にはしゃいでいる。その声が、やけに眩しかった。まるで、世界の汚れなんて知らないみたいに。


 (さて、本当にどうしようか……)


 私は黙って、冷めかけた麦茶を一口飲む。コップの縁に映る自分の顔は、いつも通りだった。どこにでもいる、疲れた社会人の顔。役所? 警察? あの白衣の人を探す?——同居、なんて、あり得ない。面倒くさい。絶対、面倒くさい。

 

 でも役所とかに連れてくのが最善策だろう。役所につれていけば、私より優秀な人もいっぱいいるし、私が下手に動くよりずっといいだろう。それにこの方法なら多少自分も面倒でもそれ以外の選択よりかはずっと楽だ。


 そうと決まればすぐ行動に移そう。私は今までの人生、面倒なことを避けて、波風立てずに生きてきた。

 職場でも、頼まれごとがあれば“自分がやるより効率いい人がいる”と逃げ、友人関係でも、踏み込まれる前に笑って距離を置いた。無難で、傷つかずに済む生き方。

 ——今回も例に漏れずそのはずだったのに。


 私は役所へ電話をかけようとする手を止めて固まってしまった。理由なんてない。

 いや、あるにはあったが、論理として説明できるほど整理されていなかった。


 ただ——視線を感じたのだ。


 パーカーの袖を指先でいじりながら、ミケがこちらを見ていた。

 黄色い瞳が、まっすぐに。


「……つむぎ?」


 呼ばれた瞬間、胸がきゅっと縮こまる。

 その声は、さっきまで煮干しをねだっていた猫の、あの無邪気な声にそっくりで。


「え、えっと……なに?」


 しどろもどろな返事をする私にミケは尋ねる


「そんなに考え込んでどうしたの?」


「…………」


 心臓が、落ちた。


 “考え込んでどうしたの?”じゃない。

 本当は——

 “わたしをどこかにやっちゃうの?”

 そう聞こえた。私はスマホを握る右手の力を弱める。


 だけど、それでも私は面倒事が嫌なのだただ、ただ今は感情的になってるから躊躇してるだけで数日すれば絶対後悔する。だから、今少し苦しくてもやるしかないのだ。私は再びスマホをぎゅっと握り口を開く。


「ミケ、これからね……役所ってところに行こう。

 そこにはね私よりもミケを幸せにしてくれる人がいるの」


 言ってしまった。もう後戻りはできない、だけどこれが一番面倒じゃない策なのだ。ミケはひどく悲しい顔をして尻尾を不安そうに揺らしながら、口を開く。


「やだ。絶対にヤダ!!

 ツムギじゃないとヤダ!!」


 胸の奥が、ずぶずぶと沈んでいく。ああもう。なんでそんな事言うんだよどうしてそんな目で見つめてくるんだよ。更にミケは私に追い打ちをかける。


「”やくしょ”なんて人はヤダ!!

 ツムギじゃないといけないの!!

 だって私はツムギの事が大好きなんだもん!!」


 そうミケが言い終わると私は深呼吸をして、スマホをそっと置いて、顔の水を手で拭う。


「ミケ、役所に行くって言ったけどね。もう今日はやってないみたい。

 だから今日は泊まっていきなよ」


 その言葉にミケの耳がピンと立つ


「本当に!?」


 私が『うん』という頃にはすでにミケの尻尾は勢いよく跳ね、彼女は勢いよく私に抱きついてきた。


「つむぎーー!!だいすき!!」


「わっ!? お、おちついて!!」


 さっきより少しだけ慣れたとはいえ、パーカー越しに伝わる体温は破壊力が強すぎる。でも——拒めなかった。私なんかが、"誰かに“必要とされる”なんて。そんな状況に慣れてなさすぎて、心がどう動けばいいのか分からない。


「ミケ、とりあえず離れよ……息できない……!」


「はーい! でもちょっとだけ近くにいてもいい?」


「……まあ、ちょっとだけなら」


 ミケは嬉しそうに、私の隣にぴたりと座った。尻尾が床をぽふぽふ叩くたびに、空気がやわらかく揺れる。

 スマホの画面は、ロック画面に戻っていて、役所の”営業中”の文字ももう見えなくなっていた。私はそれを伏せ、麦茶を一口飲む。相変わらず冷めているはずなのに、さっきより少しだけ温かく感じた。


(……あーあ。面倒ごとから逃げるつもりだったのに)


 ミケが私の袖をつまんで、小さく笑った。


「つむぎ、お腹すいた!!ご飯頂戴!!ご飯ご飯!!

 ご飯の後には……そう、煮干し!!また食べたい!!」


「……はいはい。ご飯は用意してあげるから。

 煮干しは家にあるぶんだけね」


「やったー!」


 その屈託のない笑顔を見て、私は観念した。


 ——面倒くさいけど。

 ——でも悪くない。


 そんな気持ちが、胸の奥でゆっくりと膨らんでいった。その後ご飯を用意してあげたが、ミケは箸もスプーンも使えなくて素手で食べようとしていて私が全部あーんして食べさせてあげることになった。

 面倒くさかったし、いつも以上に疲れた。


 ——だけど温かかった。


 ふと、カーテンの隙間から星空が、夏の大三角形が見える。夏の大三角の星の輝きが、あの帰り道で見た時とは違って少し近くにあるように見えた。


 こうして私とミケの、想定外で面倒くさくて、

 だけどすこしだけ温かい共同生活が始まったのだった。

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