ヴィーナスに抱きしめられて(前編)
この頃は雨の強い日でも出掛けるようにしていたんだ。雨の日は雨に打たれて、雨が上がれば足下の水を跳ね上げて歩く。ただそれだけで、もう人として一人前じゃないか。
そんな簡単なことも出来ていないのかだって?
子供の頃と違って成長するにつれて嫌になることは増えるし、面倒臭いことは避けて通るようにしてきたからな。あぁ、わかってるよ。それだけ自己防衛に夢中になってるってんなら、もう立派な大人だって言いたいんだろ?
──── 皿とコップをシンクに置いて ドリー が振り返る
「わかってるよ」
「何がわかっているというの? イアン」
「お節介なんだよ、ドリーは」
この世話をやくロボットの ドリー は イアン が生まれた時からずっとここに居座っている。旧式も旧式の特定家事を熟すためだけのロボットだ。イアン の両親は6年前に未踏破断崖地域へ資源採掘に出兵し、ヴィラルガ の襲撃によりこの世を去っている。だからこの旧式ロボットが親代わりとなっていた。ただ イアン も今年で19歳にもなるのだから、ドリー も親代わりという役目はとっくに終えている。
「もう一度言いますね。今日の訓練を欠席すると認定試験を受けられませんよ」
「ああ、そうだね。でもそんな音声メモ取っといた覚えないんだけどなぁ」
「イアン、もう少し真面目に将来のことを考えて貰わないと」
「オレなら大丈夫だよ」
大急ぎで部屋を飛び出して狭い通路を駆け上がった。イアン が向かったのは、それほど遠くない居住区画にある家だ。今の ル・ミネラ で部屋ではなく家に住んでいるのは特権階級者だけである。塀を乗り越えて近づいた窓に指先でコツコツと音を立てると、黒髪で真っ白な顔に碧眼の少女が窓に顔を寄せて微笑んだ。
「おはよう、イアン」
「アプリー、おはよう」
そこは訓練所じゃないなんて誰にだって言えることさ。オレが言いたいのはそんなことじゃない。訓練を受けてシーピス(断崖探査用強化剛性スーツ)の操縦資格を取るってことはさ、真面目に将来のことを考えるのと程遠いって、分かるだろ? その資格ってのは払戻しの効かない未踏破断崖地域への入場券を手にするのと同じなんだよ。このくたびれた ル・ミネラ で指導者達に殺されるか、断崖で自由に向かって殺されるか。どっちだってまっしぐらさ。この二択だけって誰が決めた?
「今日はいい天気だし後で窓開けて貰えそう?」
「それは無理かも」
「そっか、いつかみたいに話せるといいね」
「うん。あっ、今日は訓練所じゃなかったの?」
「ああ、行く前にちょっと寄ってみただけだよ」
「いつもありがと…」
「元気ならいいんだ。じゃまた帰りに寄るよ」
「うん、あとでね イアン」
イアン は手を上げて挨拶すると塀の上を伝って歩き、窓を振り返った。未だこちらを見ていることを確認すると塀から飛び降りて訓練所に向かって走った。断崖の外側に張り出した階段を駆け上がり、岩場をくり抜かれたトンネルを突き進み、ギリギリ遅れて訓練所の門を潜る。
イアン が『アプリー』と呼ぶこの少女の名前は、アプリリス=リコンテ。幼い頃に近隣国から ル•ミネラ へと向かう亡命団の中にいた。その際、遭遇した ヴィラルガ と守備隊が交戦。両親をはじめ多くの犠牲者を出すこととなり、アプリリス も流れ弾を受けて両腕を失っている。幼なくして身寄りを失った アプリリス をここの軍部司令官の副官を務める ジューゴス=ヨルモン が引き取った。その ヨルモン も半年ほど前に隣国との警戒陣地へ赴いている。
アプリー はオレと違って家に住んでいて世話役もアンドロイドなんだ。これだけで ヨルモン1等國佐がどれほど立派な人だったかってすぐ分かるだろ? アンドロイドっていうのは ドリー の様なロボットとは大違いで何時だって考えるんだよ、主人にとっての最善を。何ならオレの代わりにこの先まで行ってきてくれよって、…… ホント何時だって思った。
アプリリスの家に居るアンドロイドは ミロ と呼ばれていてとても賢く、見た目も ドリー とは異なり曲線的な人型、無骨さを感じさせない造りだ。だが、このしなやかな ミロ にも欠点はある。電力消費が非常に大きいということだ。天井に張り巡らせたレールに背中から伸びたパンタグラフのような集電装置で受電しながら動いている。そんな理由はあったとしても有線電源型の ドリー よりはずっと動き回れる。
「今日の訓練はここまでだ」
「ありがとうございました」
「明日、操縦認定試験を行う。必ず10分前にここで待機しておくように」
「なあ イアン、オレ自信ないよ」
「フロスティ、そんな資格あってもなくても行き先は一緒さ」
「生身でなんて行けるかよッ⁉︎ 囮になるだけなんだぞ」
「シーピスのが目立って中身だけの方がいいかもな」
「お前はいいよ、余裕なんだろうし」
「まさか。オレも認定証を見せたいから頑張ってるよ」
「見せるっても親はいないだろ? す、すまん悪気は、」
「構わないよ。ドリー だよ、見せるのは」
もし本当に ドリー に見せていたらと思うとぞっとするよ。派兵祝いに張り切って卵焼きじゃなくオムレツを作るんだろうな。きっと母親の味ってのを再現してしまってオレが思い残すことを減らしに掛かってたきただろさ。『いっそ一思いに』なんて口にする奴が居たとするならオレの前に出て囮をやってくれ。やり残すってのは今だけじゃない。きっとこの先も、いつだってやり残す。だから未だなんだよ。
「あのさ、出掛けられないなら、また家に入れて貰えないかな?」
「イアン様、アプリリス様にお会いになる許可が降りていません」
「ミロ、君だって知っているだろ窓越しで話すよりも、あっ」
「ガラス板に写っているだけの存在に留めておくべきです」
「数日後に未踏破断崖地域の調査に派兵される、その前にもう一度」
「それが困るのです。イアン様も分かっているはず、残される者のことを」
「あぁ、そうだ…… そうだよ。オレが…… 悪かった」
土砂降りの雨の日に傘もささず、ずぶ濡れになって歩いている女の子がいたんだ。なんでも門番を兼務する世話役ってのが保守点検中だったそうで、そこに訪れてた軍部の整備士に扉を開けて貰ったんだとか。窓から見える塀に止まっている渡り鳥を近くで見たかったって話しだったな。オレがあの日、目にしたのは雨が降ってきてからってことになる。傘がどうのこうのじゃなくて、歩き方に違和感があったんだよ。だからどこか怪我でもしてるのかなって。
「君、どうかしたの」
「あ、ありがとうございます。いつだったか思い出せなくて」
「えっ、いゃっ多分はじめてだと」
「雨に打たれるのって。でもた思ったより…… 少し冷たい」
「っあ、そうだ。オレん家そこだから。この傘持ってていいよ」
「わたし傘は差せないから大丈夫、だからありがとう」
「後で適当に家の前に置いててくれたらいいから気にしなくても」
「義手なんです」
この時、オレなんて16になったばっかで、アプリー は2つ上。無論、傘を差して家まで送ったさ。でも、あんなびっしゃびしゃなら傘差すなんてことせずに、一緒に雨に打たれた方がいい想い出になったって今なら思う。アプリーは言ったんだ『腕が動いても誰かに傘を差し出したかな』って。家まで送って ミロ にも会ったよ。それでその後もアプリー を尋ねてみたって理由さ。16なんて贅沢に何でもかんでも完璧にしてしまおうとするだろ? オレはずっと差す側にいたかったんだ。
「ねぇ、イアン。次に会えるのはいつなんだろう」
「ああ、近いうちだよ」
「イアン の近いうちって明日? それとも明後日?」
「もうちょっと遠いかも」
「ごめん、意地悪してみただけだよ」
「いや、ごめん。違うとこ向いて行っちゃいそうなんだ」
「断崖調査に派兵…… されるのね」
話して良かったのか、悪かったのかなんて、今になっても分からないよ。いつも『話したかった』『話せなかった』の矛盾した一択しかない。オレはここのくだらない指導者達と同じなのかも。もうちょっとマシな会話ができれば良かったって思うよ、本当に。結局のところ自分の都合というか、決め事というかそんなタイミングでしか話せなかったオレは、大抵は良いところには向かわない、直さないとな。
中編につづく
※ C.P.E.E.S. (断崖探査用強化剛性スーツ)通称:シーピス