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鑑賞

作者: 橿原岩麿

 都内の博物館にて開催されている古代メキシコ文明展に訪れた二人の大学生の男女。男性の方は大学四年の就職活動を終えた状態であり、たまに来る内定先からのオリエンテーションに参加する程度しか予定がない。一緒に来た一学年後輩の女性のことは、好きな作家が同じだったことと、今まで一人としてきちんと耳を傾けてくれなかった、有神論的実存主義を神道に置き換えて日本が受容するには、という話を水差すことなく聞いてくれたことがあるので気に入っている。内容を全く覚えてくれていないことには気づいているが彼としては聞いてもらっただけで満足であり、その彼女に話した時の理論をもっと整備するために、サルトルの本を買おうか迷っている。


 入場券を買いに行ってくれた先輩の並んでいる列から少し離れている後輩。暗めの栗色に髪を染めた後輩は文化的活動をしようとか、卒論の主題が見つかればいいなと思い博物館を訪れたわけでなく、自分に能動的な、積極的な趣味のないことに、社会人となったときに余暇の過ごし方のない、春が来ない冬のようになってしまうのではないかと、不安に感じ、現在様々なことを自分の趣味になるかもしれないとして試行錯誤している最中である。家で編み物やパズルに挑戦したが達成より先に興味がうせてしまったので断念した。外聞の良い博物館、美術館巡りを試してみるために先輩を誘い今回の古代メキシコ文明展に訪れた。先輩のことは、バイト代を最後の学生生活の大義名分にあやかって遊びに使ってしまうのではなく、歯列矯正に使ったという話を聞いて、先輩のことがとても気に入っている。知的で文化的な休日を過ごしている人間として先輩を選んで、該当しそうな場所に連れて行ってくれと頼んでこの博物館に来た。しかし全く興味がわいておらず、入場前にすでに僅かな諦めを感じている。


 入場券を受付に手渡し、入場すると大きな石造りの遺跡のレプリカがあった。チチェン・イッツァの、ピラミッドとは異なる前方に階段のある構造が、太古の人々がこの階段を松明を持って登る劇的な光景を想像させる。


「本物はやはりこれよりももっと大きいのだろうね。」


「本物が見たいですね。天井の下にこういうものあると興が覚めます。」


「確かにそうだね。ただ、こういう遺跡は大抵都心部から離れているからね。奈良の石舞台古墳も駅からは遠かったよ。夏休みに小さい親戚の子供たちと行ったが、あれはつらかったね。暑かったよ。」


「奈良ですか。東大寺しか行ったことがありませんね。石舞台古墳というのはそんなに有名なものでしたか?世界史選択なので知らないだけでしょうか。」


男は驚いた様子で女の方を見た。一瞬の後に納得して話し出した。


「そうかそうか。君は静岡の子だったね。奈良ではみんな小学校の遠足でそこに行くんだ。飛鳥時代の舞台、明日香村に行くのさ。」


「そんな風に学んだことの実際にあったところに、すぐいけるのはうらやましいですね。」


「それが僕の欲しい反応だよ。僕はそう言ってほしかったんだよ。でも他の人はそう感じないらしい。」


先輩は満足げに次の展示コーナーへと歩き出す。元々心ここにあらずといった様子でふらふらとしている先輩であるので、このように感情がありありと、目に見えてわかるのは非常に新鮮であった。


 メトロポリタン大聖堂の写真を大きく印刷して壁に貼り付けたコーナーがある。詳細な説明が展示の前に書かれている。


 メトロポリタン大聖堂は完成までに約三百年の年月をかけており、バロックや新古典主義など様々な様式が混合している。あまりにも長い歳月のうちに人間の流行の方が変わってしまったので、教会が時代の変遷を組み込んで建築されてきた。


 この点に後輩は興味を示したようで立ち止まり、先輩に問いかけた。


「決して、馬鹿にしているとか、そういうことではないんですが。これは、やっぱり、向こうの人たちは、ゆったりとした時間の流れで生きているから。三百年もかかってしまうのでしょうか。」


「前置きがなくとも。君がそんなことを言う人ではないのはわかっているよ。」


先輩は展示の説明をもう一度読み直した。


「それはどうだろう、サグラダファミリアもまだ建設の真っ最中だから、メキシコの人だからだとは思わないな。いや、同じスペイン語圏というくくりで見ると同じなのだろうか。難しくなってきた。」


「法隆寺はどれくらいの期間で建てられたんでしょうね。それがわかれば比較できそうなものです。」


「確かに。素晴らしい観点だね。ただわざわざ調べようとは思わない。なんだか、旅行中に仕事の連絡が来たような、おいしいご飯を食べていたのに舌を噛んでしまったような不愉快な気持ちになる気がする。」


「いつも先輩の気持ちはよくわかりません。例えがわかりやすいので、わかったような気になってしまいます。」


「僕自身もあまりよくわかっていないからだと思うね。今だって実際は法隆寺のことを調べていないわけだから。」


先輩は穏やかな表情になって次の展示コーナーに向かっていった。少し歩いて振り返って先輩は携帯で写真を撮った。人が映りこんでしまって大聖堂の全体が人の四倍程度の大きさに見える、と帰宅後に後輩に送信されたその写真について語っていた。


 次の展示コーナーにはグアダルーペの聖母が飾られている。目を閉じ手を合わせ頭を左に傾げた姿の聖母が色や風景を変えて描かれている。先程みたメトロポリタン大聖堂に飾られている聖母の写真もある。


「これは海外という感じがしますね。日本とはやっぱり違う。こんなに色鮮やかな神様はあまり見たことありません。」


「そうだね。こんなに大胆な色使いをしているのは伏見稲荷ぐらいじゃないかな。」


「やっぱりこの中に正解みたいなものがあるんでしょうか。基準になっている正統の絵画みたいな。」


「宗教画に正解というのはないだろうな。有名なものや人気なのはあるだろうけれど。」


先輩は詳細な説明がされているパネルに目を落とす。こんな細かい説明は基本的に見逃してきた後輩だが、郷に入らばということで、今日はできる限り目を通すようにしている。


 1531年12月9日。病気の親戚に会うためにフアン・ディエゴはグアダルーペを駆けていた。テペヤックの丘を走り抜けようとしたときに、彼は彼に似た褐色の女性を見た。当然彼は目もくれず、走り続けた。女性は彼に声をかけた。この丘に聖堂を立てるように司教に頼んではくれまいか、と。フアン・ディエゴは立ち止った。病気の親類の元へ駆けてゆくような男が悪漢であるはずがない。女性の話を真剣に聞いた。彼は断った。私には病気の親戚がいる。申し訳ないがそのようなことをしている暇はない。彼は丁寧に理由を説明した。フアン・ディエゴもう一度駆けだそうとした。すると、その褐色の女性はこう語る。その親類は既に回復しています、と。何が何だかよくわからず、フアン・ディエゴは困惑した。彼は悪人ではない。しかし、そのよくわからない言葉を信じるほど愚鈍でもない。彼は仕方なく、女性を振り切って親類の元へもう一度駆けだした。親類の元にたどり着いたフアン・ディエゴは驚愕した。確かにその親戚は回復していたのだ。フアン・ディエゴは後悔の念に襲われた。あの状況であの女性を信じる者はいないだろうと納得していたが、フアン・ディエゴにはある考えが頭をよぎる。もしや。もしかしたら。あの女性は。フアン・ディエゴはもう一度テペヤックの丘へ駆けだした。テペヤックの丘にあの女性の姿はもうなかった。フアン・ディエゴは女性の言葉を思い出した。この丘に聖堂を立てるように司教にたのんではくれまいか。フアン・ディエゴは司教のもとに駆け込んだ。彼の身に起こった不可思議を、今見てきたとおりの現実を司教に語った。司教は妄言だとして一切取り合わなかった。証拠を出せ。それが聖母マリアの出現であるという証拠を出せ。司教は非情に思われたが、フアン・ディエゴは当然だとも思った。どうしようもなくなり、落胆した彼は何か証拠が残っているかもしれないと考え、テペヤックの丘へ向かった。すると、そこにはあの女性の姿があった。フアン・ディエゴは心の底から謝罪をした。自らの非礼を詫びた。そして彼が司教に告げられたことを女性に伝えた。女性は告げた。この花を摘んで司教にお見せなさい。花?フアン・ディエゴは困惑した。自分が走ってきたこのテペヤックの丘は花など咲いていない。花畑を踏んで駆けた覚えはない。そんなことを思う間もなく、あたりは一面の花畑となっていた。二度目の奇跡。フアン・ディエゴは自らまとっていたマントを脱ぎ、こぼれんばかりにこれを包んで教会へ持っていった。フアン・ディエゴは司教に見せつけた。司教は驚愕した。この季節に、この大地に咲くはずのないバラの花を見たからであった。信じがたい奇跡に司教の手は完全に脱力していた。はらりと落ちた花束。震えたその手は残った力で受け取ったマントだけをつかんでいた。司教の手に引っかかった、と表現した方が良いほどに広がり伸びきったマントを見て、フアン・ディエゴは叫んだ。あの女性だ!花を包んだマントの内側にあの女性の姿が描かれていたのであった。そして現在フアン・ディエゴのマントは奇跡の布としてグアダルーペ寺院に保管されているのです。


「これは、なんと。これが布に現れていたというのか。」


先輩は声に出して驚いていた。


「じゃあこれが正統な聖母像っていうことなんですね」


「僕の浅はかな勘違いだったようだ。ごめんね。」


この世界には信じがたいことがあるのだと後輩は思っていた。と同時に信じがたいことを信じている人たちもいるものだと思った。


「奇跡だね。すごいことだよこれは。そんなことがあるとは思わなかった。」


「先輩はあまりこういうことは信じないのかと思っていました。」


「僕は信じているね。やっぱり奇跡だと思うよ。あまり今はうまく言葉にできないけれど。」


なんだか少しがっかりした気がしていた。先輩は理知的で、懐疑的であると思っていたから。しかし、先輩がこういうことを信じている人を馬鹿にしている光景が思い浮かばない。もしかすると元々こういう人だったのか。間違っていたのは私の見方だったのかもしれない。少しぼんやりとしてしまった先輩の背を押して、次のコーナーに行く。


 かわいらしい民族人形が並び、こちらを向いている。年代ごとに分けられている問思われたが、どうやら文明単位で分けられているようだ。


戦士、悪魔、天使、太っちょの踊り子。太陽の石、首の取れた正座した石像、首のみの魔人、それに跨る面をかぶった何者か。多種多様な石造りの像が並んでいる。


「かわいいですね。一つ欲しいです。」


「もうすぐ土産コーナーだからだろう。よくできた構造だ。」


突然資本主義的発想に戻る先輩を怪訝な目で見つめる後輩は興がそがれた。


「先輩はぐちゃぐちゃですね。軸というかなんというか。」


「そうだね。結構めちゃくちゃだ。」


先輩は子供の描いた絵を見つめるように出来など気にしていない様子で、一つ一つの作品を優しく鑑賞している。


「もし私がこういう人形を作ったら令和文明の棚に置いてもらえますかね。」


先輩は笑った。


「おいてもらえるよ。きっとおいてもらえるさ。未来で君のような子が買うに違いないよ。」


「嬉しいですね。」


「しかし、すぐ壊れるようなもので作ってはいけないよ。硬いもので作って、保存してもらえるところに置いておかないといけない。」


「それは難しいですね。彫刻はしたことないです。」


「その発想はいいね。確かに彫刻でないといけないかもしれない。」


「じゃあ無理かなぁ。面倒だなぁ。」


「始めてみてもいいんじゃないか、新しい趣味になるかもしれない。僕はある程度の年齢になると、消費ばかりしていては、もう楽しめなくなると思っている。大きくなったら、作る側に回らないといけないんじゃないかなと思っているよ。」


「しんどそうですね。そんなの。そんなことばっかり考えてるのもしんどそうです。」


「そうかな。」


先輩はゆっくりながらも出口の方に向かっている。後輩も気に入ったものを写真に撮って先輩の後を追う。


「先輩は写真撮らないんですか。残しておかないと後で見返せませんよ」


「確かに撮っておけばよかったな。君が撮ったのを後で見せてくれるかな。」


後輩は渋々はい、と返事をした。


「写真も未来には残りませんね。残ってもあんまり見られたくないかも」


「データは難しいね。まだ開発されてからそんなに時間がたっていないからね。」


「いったい何が残るんですかね。この時代のものは。」


「なんだろう。何が残るだろうね。この小さな石像は残っているけど、僕たちの時代にはこういうのはないね。」


「赤ベことかは燃えちゃいますかね。」


「残っても、もう首が揺れないかもしれない。


「それはそれでいいですね。」


「そうだね。石か。石がいいな。そのままで残すとしたら。」


先輩は左手を顎に当てて考え始めた。鼻からいっぱい息を出して、少し半目になって展示のガラスも前で、考え事の世界に入ってしまった。二十秒ぐらいたった気がした。


「そうだね。墓だけだ。我々の後には墓しか残らない。」

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