9:そのための準備
長い馬車の旅を終え、宮殿に到着した後は。
ナオとイーモは下級メイドとなり、メイド達が暮らす建物へと移された。
私は宮殿に滞在する部屋を与えられ、そこで医師から診察を受けることになった。何か病気を持っていて、皇帝に移すと大変ということで診察を受けているのかと思ったけれど……。
「栄養が偏っている期間があったようですね。今日からはバランスよく食事を摂るようにしましょう。少し痩せ過ぎとも思えますが、だからといって甘い物を食べ、太ればいいわけではないですから。きちんとそこは調整していきましょう」
そう言った医師は、目や歯の状態、髪の様子まで確認した。
「虫歯もなく、視力もよく、肌艶もよく、髪も美しい。病気ではないようですが、睡眠不足ですかね。慣れない船旅で、眠れなかったのでしょうか。眠りが深くなると言われている香を処方します。リラックスできるよう、眠る前にはカモミールティーを飲んでください」
とても奴隷女に対する診察には思えなかった。
初夜の練習相手だからこその待遇なのだろう。
ちなみに病気は特になく、健康だと言われた時は、両親に心から感謝した。森を彷徨い、奴隷となり、慣れない船旅をしている。しかも家族を失い、家臣や沢山の仲間や友を失っているのだ。心に受けたダメージが、体に出てもおかしくないのに。こんなに健康なのは、両親のおかげだろう。強い体で生んでくれたことに、心から感謝だった。
健康確認が終わると、初夜の練習相手に相応しくなるよう、二日かけて磨き上げられることになる。つまりあの暴君皇帝がその気になるように、より美しく、魅力的に、磨いていくということ。
まずは入浴。
それはミルクと蜂蜜を入れたお風呂で、甘い香りが漂っている。この状態で蜂蜜を使い、髪も洗ってくれたのだ。担当してくれたメイドは「蜂蜜を使うことで、髪の指通りがよくなります。さらに保湿効果があり、頭皮の乾燥を防ぐと言われているのです」と教えてくれた。
入浴が終わると、バニラの香りがする香油を全身に塗ってもらう。その間に髪は丁寧にタオルで乾かす。髪は乾かすのに時間がかかるため、その間、今度は全身マッサージとなった。二人がかりで足の指、手の指から始まり、それはもう大変丁寧にもみほぐしてくれる。さらにもう一人が来て、顔にパックをしてくれた。
そうしている間にようやく髪も乾き、その髪は綺麗にブラッシングされ、こちらもバニラの香りの香油をつけてくれる。
最後は顔のマッサージをして、完了となった。
その後はバランスのとれた食事をということで、野菜を含め、肉と魚、新鮮なフルーツと、少量を多種類で出された。
もう船酔いもない。でも食欲はなかった。
毎晩、家族を思い、泣いていた。そして泣き疲れ、眠る。
睡眠が足りていない。食欲も湧かなかった。
だが、食べるようにと勧められ、仕方なくすべてを一口ずつ食べることになる。
なんとか食事を終えることができた。
私の身の周りの世話を任されたのは、ネピという名のメイドだ。彼女は食事を終えた私に、夜の庭園を案内してくれるという。あまり食欲がないのを心配してくれたようだ。私の気晴らしのため、案内してくれるのだろう。
庭園にはナイトジャスミンが沢山植えられており、辺り一面にその香りが漂っている。夜に咲き、甘い香りを放つナイトジャスミンの花は、そこまで大きくない。小ぶりの花なのに、とても強く香っていた。
私の母国であるスペンサー王国は、自然を愛する人々が暮らしていた。この庭園の散歩により、母国の花々を思い出し、少しだけ気持ちが和らいだ。
「そろそろ寝室へご案内します」
ネピに言われ、寝室に向かうと、ソファへ座るよう促された。言われるまま、腰を下ろす。すると私と向き合ったネピが、医師からもらった香を焚き、ローテーブルへ置いてくれた。
「今日のところは船旅もあり、お疲れのことと思います。たっぷりの睡眠は、美容に効果があると言われています。本日はこちらの紅茶を飲み、ゆっくりお休みくださいませ」
ネピが用意した紅茶は、あの医師が処方してくれたカモミールティーだ。ミルクを加え、蜂蜜も入れるよう勧められた。スペンサー王国では、もっぱらローズティーを飲むことが多かった。よってこのカモミールティーは、珍しさもある。そして液体であることから、ちゃんと飲み干すことができた。
すぐに寝る必要はない。ハーブティーを飲んだ後、眠気がきたら、休むようにとネピから言われている。
医師からもらった香とハーブティーの効果なのか。
一時間もすると、あくびが出てしまう。
そこで歯磨きをすると、横になることにした。
ベッドに横になり、明後日の今頃、私はどうなっているのかしら?と考えてしまう。
これまで家族と母国のことばかり考えていた。
自分のことを考えるのは、国を逃れて以来初めてだった。
今はこうやってゆったり、ベッドに横になることができている。
でもこれは泡沫の夢のようなもの。
明後日になれば、また嵐のような日々になるだろう。
まさに嵐の前の静けさだと思った。
そうしているうちにも瞼が重くなる。
やがて、眠りに落ちた――。
「お願い、ソーク、助けて!」
自分の叫び声で、目が覚める。
悪夢を見ていた。
最初は婚約者のリンドン王太子が登場し、彼が無事であると分かり、私は喜んでいた。だが彼は怪我をしている。手当をしようと近づくと、仮面をつけた男にリンドンの姿が変わっている。それは暴君で知られるガレス。彼に押し倒され、スカートをたくしあげられた時。私はソークに助けを求め、夢ではなく、現実でも叫び、目が覚めた。
悪夢を見た時。
直前に夢の中に現れてくれたリンドン王太子ではなく、ソークに助けを求めるなんて。ソークは知り合って間もない。しかもどんな人物なのか、よく分かっていない。そんな相手より、婚約者として長い付き合いのリンドンを頼るべきなのに……。
分かっている。
どうしてソークを呼んでしまったのか、その理由を。
リンドンは夢の中に会いに来てくれた。でも私の家族と同じ。きっとこの世界には、もう存在していないだろう。二度と会うことはできないと思った。対してソークは生きている。そしてこのヴィサンカ帝国のどこかで、私を見守ってくれているはずなのだ。
あまりにも突然、自分の知る人を一気に失うと、感覚がマヒする。事実として受け入れているはずなのに、どこかで信じていない。スペンサー王国に戻ったら。王宮に戻ったら、また会えるかもしれない。そんな風にどこかで考えてしまう。そしてそれは、あり得ないことだと分かっている。おかしな感覚だった。
ただ言えること。
それは、リンドンがもうこの世界にいないだろうということだけだ。
あの暴君と呼ばれる皇帝ガレスを暗殺するために、寝所で二人きりになる。私は皇帝の初夜の練習相手なのだ。暗殺するのは、ガレスが我を忘れた瞬間。素肌をさらすことになるだろうし、誰も触れたことがない場所に、ガレスの手が伸びるかもしれない。
もしリンドンが生きていて、私との再会を考えていると分かったら。ガレスの行為を我慢できず、感情を爆発させてしまうだろう。そこで私がガレスを暗殺しようとしているとばれれば……。即、命を奪われるに違いない。
だがその心配はいらない。
私には誰もいないのだ。
家族も、婚約者も、友も、仲間も、家臣も国民も。すべて失った。
そしてこの身体は自分のものであり、自分のものではない。
暗殺がうまくいき、生き延びることができたら――。
生き延びることができるのだろうか?
本当にソークは助けに来てくれるのかしら?
期待はしない方がいいと思っている。
憎きヴィサンカ帝国の若き皇帝を暗殺できた。
そこで私自身も命を落とすことになっても、もうそれでいいと思っている。
敵討ちができたのなら。
家族やリンドンのそばに向かうことになっても、誰も文句は言わないだろう。