6:何者?
「逃亡はしません」
ハッキリそう伝えたことが、二人の女性から奴隷商人に伝わったからだろうか。
さらにはあの黒装束の男にも、伝えられたからだろうか。
手枷足枷を再びつけられることなく、靴を履かせてもらい、天幕から出た。
天幕を出た先に広がる世界は、さっきとは違う。
別の出口から出たのだ。
そしてこれは、まるで私に見せつけるかのような景色だった。
あれだけ森の中を、ロスコーと彷徨い歩いたのに。
スペンサー王国の王都に戻って来ていた。
でもそこは私の知る王都ではない。
一面焼け野原で、鎮火しきれていない火が、まだ燃えるものであるのか、白煙をあげている。本来そこには街が広がり、その先に宮殿と王宮を囲む高い塀が見えていたはずなのに。
まるで野焼きした後のように、すべてが焦土と化していた。残っている建物はわずかだ。
これがヴィサンカ帝国のやり方なの……?
あまりにもひどい。
これでは……。
「おい、女。来い」
声に、ヨロヨロと黒装束の男の方へと向かう。
逃げればみんな、殺される。
頭の中で繰り返すことで、何かしようとする気持ちは、起きなくなっていた。
「この景色を見て、どう思う?」
なぜ、そんなことを聞くの?
この黒装束の男は、ヴィサンカ帝国の人間なのだ。
本心で語れるわけがない。
「……なんとも思いません。私は王都には住んでいなかったので」
「……スペンサー王国の人間なのだろう? 自分の国がこんな姿になって、何も思わないのか?」
「それは……」
本音をぶちまけていいなら。
こんなことをした暴君を、皇帝を、ガレスのことを――。
「こうなったのは、ヴィサンカ帝国の暴君のせいだ。憎くないのか、皇帝のことが」
「なぜそんなことを敗戦国の人間に対して聞くのですか」
「お前がスペンサー王国の人間だからだ」
意味が分からなかった。
この黒装束の男は一体、何者なの?
「自分は今、ヴィサンカ帝国側の人間だ。だが生まれはスペンサー王国で、十三歳までこの王都で育った。……それが見るも無残な姿に変えられてしまったのだ。悔しく思う」
低い押し殺した声は、もしや怒りを抑えるためだったの……?
ヴィサンカ帝国は、血統を重んじることから、あまり移民を受け入れていないと聞いていた。でも国土は広いため、いつの間にかどこからか流れ着いた人間が住んでいる……ということはよくあるらしい。それを取り締まるのも面倒なぐらい国土は広く、そう言った人間は放置されている。だがその代わり、怪しい身分だと、帝国の根幹に関わるような職業に就くことはできないはずだ。
この黒装束の男は、兵士か騎士。移民は、ヴィサンカ帝国で兵士や騎士になれたのだろうか? なれてせいぜい傭兵では? もしや正規の兵士や騎士ではないから、黒装束を着ているのかしら?
「自分の名はソークだ。お前の名は?」
「私は……リリーです」
「……リリー。ああ、そうか。なあ、リリー、これをお前に渡そう」
それは釘みたいに見える。でもサイズは、男性の広げた手ぐらいあった。
鉄でできていると思う。
先端は鋭利だが、末端には飾りがついている。赤い宝石で作られたカメリアの花に、小粒のパールが雪のように添えられたデザインで、女性の装飾品のようにも思えた。
差し出され、普通に受け取ったものの、何なのか分からない。
「これは東方から伝来した簪というものだ。鉄でできている。髪飾りだ」
「これが髪飾りなのですか?」
「貸してみろ」
そう言ってソークは私から再度、その簪を受け取ると、それを口にはさんだ。
その上で私のおろしていた髪を後ろで束ね、根元をねじり上げるようにした。さらに簪を毛束に差し込む。そしてその簪をぐるっと回すようにして、ぐっと下に向けて差し込んだ。
「こうやって髪をまとめるのに使う。髪の一部で同じように毛束をとり、簪を飾ることもできる。アレンジはいろいろできるだろう」
そう言うと、私から手をはなし、自身の剣を抜き、その刀身を鏡代わりにして見せてくれた。
こんな髪飾り、生まれて初めてだ。しかもこんなに簡単に髪をまとめることができるなんて。東方の文化はすごいと、思わず感動したが……。
「これを渡すということは」
「リリーにやる、ということだ」
「でもこれは、宝石やパールが」
「構わない……これは美しいだけの髪飾りではない」
そう言うとソークは、素早く自身の剣をおさめ、そして私の髪から簪を外した。
亜麻色の髪から石鹸の香りが漂い、サラリと背中に広がったと思ったまさにその時。
簪の鋭利な先端を喉元につきつけられていた。ソークによって。
「武器にもなる」
「……!」
声を出したいが、喉に今にも簪の先端が刺さりそうで、身動きがとれない。
ソークは私の後ろに回り込み、背後から回した腕で、私の両腕の動きを封じていた。
「リリー。君にチャンスを与える」
チャンス……?
さっきもチャンスを与えられた。これで二度目のチャンスだけど、今度は一体何なの!?
「自分がここに来たのは、婚儀を控える皇帝のためだ。五日後、ヴィサンカ帝国の皇帝は、婚儀を挙げる」
「えっ」と声を出しそうになり、その瞬間、かんざしが離れたことに安堵する。
同時に。
皇帝の婚儀なのに、スペンサー王国でそんな話題は出ていなかった。つまり両親は招待すらされていなかったということだ。いくらスペンサー王国が小国だとしても、これは大変失礼な話だった。……今さら、ではあるが。
「皇帝の結婚相手は、帝国内に存在する七つの公爵家の一つ、オールソップ公爵家の長女だ。元は亡くなった皇太子の婚約者。本来、皇太子の死亡と共に、婚約者はお役目御免のはずだった。だが、オールソップ公爵が粘ったのだ。自分の娘を皇妃に迎えろと。オールソップ公爵家は、ナンバー2の力を持つ家門だ。敵に回してもいいが、排除するには時間がかかり、また内紛になりかねない。ゆえに皇帝は、その公爵令嬢との婚姻を認めた」
これは驚きだった。皇帝の結婚相手なのだ。もっと慎重に選ぶのかと思った。
「自国内の公爵令嬢との婚儀なんて、意味がないと皇帝は思っている。他国の姫君との婚姻であれば、そこにはいろいろな思惑と意味が出てくるだろう。そうなれば盛大に式を挙げ、諸外国の王侯貴族を招く。しかし今回はその必要もないと、平民並みのこぢんまりとした式を挙げることになった」
ヴィサンカ帝国の皇帝の結婚なのに。そんな平民並みって……。よく公爵家も首を縦に振ったと思う一方で、皇帝自身が、結婚に全く興味がないのではと思ってしまう。
義務として結婚するだけ。
そんな感じに思えた。
「表向きの理由は、故皇太子の元婚約者であり、故人を尊重して、規模を小さくして行うという尤もらしいものだ。ゆえに周辺国や友好国を招待することもない。皇帝即位の時と同じ。突然、皇妃を迎えた――と発表することになっている」
なるほど。そういうことね。
それにしても規模が小さいとはいえ、五日後に結婚する。それなのに戦争など、している場合だったのか。それともハーティントン国とスペンサー王国を結婚祝いにでもするつもりだったのだろうか?
「本当はこんな戦争、している場合ではなかった。だが事情があったのだ。こうして婚儀を五日後に控えているが、皇帝は今、帰国の途に就いている最中。本来は済ませるはずの初夜の練習もできていない」
初夜の練習……?
「ヴィサンカ帝国では、王族は婚儀の前に、初夜の練習を儀式の一環として行うことになっている。跡継ぎは重要な問題であるから、確実に夜伽の方法を覚える必要があるからだ。練習相手は初夜の再現となるよう、乙女と行う。手慣れた娼婦を使うのでは、加減も理解できない。昔は初夜権の行使ということで、貴族の令嬢で練習していたようだが……。貴族の反発が大きい。ゆえに奴隷市場で育ちの良さそうな乙女の没落貴族の令嬢を見つけ、練習相手とするようにした」
会話の流れから、嫌な予感しかしない。






















































