54:慣習
なんとか下着を身に着け、最初に見せてもらったナイトウェアに着替える。その上にシャンパンゴールドのローブを羽織り、慌ててガレスが待つ部屋へ向かった。
一階の応接室でてっきり待っているのかと思ったが、二階にいるとネピに言われ「?」だった。二階に来客を通すような部屋があったのだろうか……と思いつつも、とにかくもう部屋で待っているというので、少し早歩きで廊下を進む。
廊下にはノリス卿ともう一人の近衛騎士がいて、優雅に会釈をしてくれる。
私は余裕のない会釈を返しながら、すぐに扉をノックし、「ガレス皇帝陛下、お待たせしてしまい、申し訳ありません!」と部屋に入り――。
エキゾチックでフローラルな甘い香りが鼻孔をくすぐる。
部屋の照明は抑え目で、天蓋付きベッドの手前のソファに、ガレスは腰かけているが……。
襟や袖に、銀糸で美しい刺繍があしらわれた、ディープロイヤルパープルのローブを着ている。やはりローブ越しだと、その均整のとれた体のラインが露わになり、見た瞬間、ドキッとしてしまう。
アイスブルーの髪は、いつもと分け目が違う。淡い光に照らされ、陰影ができ、堀の深い顔立ちが際立つ。銀色の瞳は穏やかで、表情はないが、冷たさは感じない。
長い脚を組み、手には書類を持っている。
ガレスの姿を見て、これは私に合わせてくれたのだろうと理解した。
つまり私がドレスではなく、ナイトウェアで向かうことになったと知り、ローブに着替えてくれたのだろう。かつこんなに照明を薄暗くしているのは、昨晩と同じだ。寝間着にローブという私を気遣い、明かりをつけないでいいと言ってくれた。それと同じだろう。
そしてソファの前のローテーブルには、シャンパンやワイン、フルーツの盛り合わせが置かれている。これには「!?」となってしまう。例の毒殺未遂事件があったので、ガレスはワインを飲まないはずだ。
「陛下、紅茶を用意させますね。……その、いろいろと至らず、申し訳ありません」
ローブをつまみ、苦肉のカーテシー。
「なぜ、フローラが謝る? ここは離れ。皆、慣習に則った対応をしてくれただけだ」
「え……えっと……」
「離れに住むのは、皇妃の夜伽の身代わり。そこへ皇帝が夜に訪問するということは……そういうことだ」
ようやくいろいろなことを理解する。
自分が皇妃の夜伽の身代わりを果たすことはないと思っていたので、その可能性を完全に除外していた。
「わたしも事前に、そういう訪問ではない……と言えばよかったかもしれない。だがわたしは、フローラを寵愛している――皆、そう思っているはずだ。その用意は不要だと言ったら、『あの寵愛は嘘だったのか!?』となりかねない。よってこれでよかったのだろう」
立ち尽くす私を見て、ガレスが微笑んだように見えた。
まさか。気のせいよ。
「あれ以来ぶりでワインを飲んでみたが、美味しい。離れに用意されているワインの方が、皇宮より美味しいのではないかと思うぐらいだ。……フローラが飲めないのが、残念だな」
その細い指で、ワイングラスを手にしたガレスの姿があまりにも似合い過ぎて、ため息が出そうになる。なんだか照明のせいもあり、ムーディ過ぎて、変な気持ちになってしまう。
「そこで立ったまま話すつもりか?」
「失礼しました」
少し早歩きになると「急ぐな。夜は長い。明日は戦勝慰労の宴まで予定は入れていない」と、ガレスはワインを口に運ぶ。上下する喉仏が、妙に艶っぽく見えてしまう。
私が対面のソファに腰をおろすと、ガレスがフルートグラスに、ピッチャーに入ったルビー色のドリンクを注いでいる。
「赤ワインのように見えるが、ザクロジュースだ」
そう言って私の前に置いてくれた。
皇帝が手ずからで入れてくれたことに気が付き、慌てて「ありがとうございます」と伝えると、ガレスがワイングラスを持ち上げる。
お互いにワイン、ザクロジュースを一口飲むと、ガレスがグラスをローテーブルに置き、口を開く。
「さて。話す時間が欲しいと、たっての願いだったな」
「はい。そうです」
「何を話したい?」
聞きたいことは山ほどある。
昨日、ガレスがスペンサー王国で生まれ、十三歳まで王都で育った話を聞いた。なぜこの話を聞くことになったのか。その理由は……。
ハーティントン国のスペンサー王国に対する裏切りを知ったガレスは、帝国の名誉のため、そしてスペンサー王国を救うために、動いてくれていた。なぜ、そんなにスペンサー王国のことを気にかけてくれるのか。その理由として、自身がスペンサー王国で生まれ育ったことを話してくれたのだ。
「ガレス皇帝陛下は、伯爵家の令嬢と前皇帝の落胤。前皇帝が落命する前に、急遽自身の息子であると認知した――という話は、スペンサー王国にいた時にも聞いたことがあります。陛下の母君は、スペンサー王国の伯爵令嬢だったのですね?」
「その通りだ。前皇帝……父君、そして母君……伯爵夫人は、スペンサー王国の宮殿で開催された舞踏会で知り合ったとわたしは聞いている。父君が母君をダンスに誘い、そこで意気投合し、夜を共に過ごした。その結果、母君はわたしを宿すことになった」
それはお互いに鮮烈な一目惚れだったという。前皇帝はガレスに似ていたというから、それは……かなり素晴らしい容姿だったと推察できる。ただ、女癖が悪い。そこはガレスとは大違いだ。
「父君には既に皇妃がいた。母君はまさか一度の過ちで、子ができるとは思っていなかったようだ。父君が帰国し、やがて母君は体調の異変に気が付き……。未婚の身だった。父親である伯爵は、地方へ母君を行かせ、そこでわたしを産ませた。そして親戚の子供だと偽り、わたしを連れ、母親は王都へ戻った」
「その時の陛下のお名前は? お聞きしてもいいのでしょうか……?」
ワインを一口飲み、ガレスは「ふうっ」と小さく息をつく。
「……構わない。その名を聞いた後は、もういちいち許可をとるな。わたしに何を聞いても構わない」
これには「え、本当ですか?」と言いそうになるが、ザクロジュースと共に飲み込む。でもどうして名前を聞いたら、許可がいらないになるのかしら……?
「スペンサー王国にいた時の私の名は、ロヴェルだ。ロヴェル・デヴィッド・リラード。ヴィサンカ帝国に引き取られる時、この名は捨てることになったが」
「ロヴェル・デヴィッド・リラード……」
聞いたことがある名だった。
そこで脳裏に浮かぶ景色がある。
眼下に王宮や宮殿を見下ろすことができる丘の上。宮殿の敷地内とは思えない程、広々としていた。日当たりがよく、風通しもよく、巨木の下は日陰もでき、いろいろな種類の花・薬草の栽培に向いており……。
子供の頃はこの場所に、毎日のように貴族の令息達が、私に会いに来ていた。まだ婚約者が決まっていない私に気に入られようと、日替わりで貴族の令息が挨拶に来て……。
――「フローラ第一王女様、初めまして、こんにちは。僕はリラード伯爵家のロヴェルと申します」
ロヴェル・デヴィッド・リラード。
フルネームでしっかり覚えているのに、顔の詳細がよく思い出せない。でも細いフレームの丸い眼鏡をかけ、宮廷音楽家みたいに、ブラウンの長髪のかつらをかぶっていた。かつらを被るのは髪色が珍しく、いじめられるからと言っていた……。
「え……、へ、陛下はもしや私と会ったことがありますか?」
「あるぞ。フローラ第一王女様」
「丸い眼鏡をかけ、ブラウンの」「ブラウンの長髪のかつらをかぶっていた」
私の指摘に被せるように、かつらの件をガレスが口にする。
間違いない。
あの時のロヴェルだ!
「このアイスブルーの髪は、ヴィサンカ帝国の皇族特有だと言われている。スペンサー王国では見かけないから、幼い頃は散々いじめられた」
子供の頃は散々いじめられていたというあのロヴェルが、今は暴君と恐れられるヴィサンカ帝国の皇帝なんて! もう驚きしかない。
「あの日、フローラはわたしに、自分の瞳の色の珍しさを踏まえ、他の子供と違うことを自身の個性だと言った。しかも何か言われたら『私の瞳が珍しいからって妬まないで頂戴!』――そう言うと堂々と宣言した。あの時のフローラには、随分と衝撃を受けた」
「それは……でも、そうです。私は自分の瞳の色、好きでしたから」
「わたしもフローラのその瞳を、すぐに好きになった。『フローラの瞳は、アイリスの花のような色で、とても美しいね』と言ったのを覚えているか?」
勿論、覚えていたので、頷く。
というか、私の瞳を気に入ってくれていたのね。
「ヴィサンカ帝国に来てからも、フローラの瞳を忘れられなかった。だから皇宮の長い渡り廊下から見える皇宮の庭園には、アイリスの花を植えさせた」
え、そ、そうだったの……!?
確か花の色が好きで、アイリスを植えていると教えてもらっていた。その時に私の瞳と同じ色であると指摘されたが……。まさか私の瞳を忘れられずに、アイリスの花を植えていたなんて。
ロマンチックな理由に、ドキドキしている。
思わず、ガレスをまじまじと見てしまう。すると……。






















































