41:本能が警笛を鳴らしている
馬車の中は、リンドンと二人きり――かと思ったら、そうではない。
あの地下牢にリンドンと一緒にいた、従者らしき男性も同乗していた。
確か名前はオロだ。
オロは、首も太く、上腕や太ももにも筋肉がしっかりついている。ダークブロンドにヘーゼル色の瞳で、眉が太い。従者兼護衛なのかもしれない。
「フローラ、君がちゃんと約束を守ってくれて、嬉しいよ」
リンドンは先ほどからずっと笑顔だった。
ガレスの暗殺は遂行されず、かろうじて私を連れ出しただけで、こんなに笑顔になれるなんて……。
以前の私だったら、胸を高鳴らせたかもしれない。
でも、今はなんだか怖かった。
「あの……ジョージ」
「フローラ、もう僕達だけだから。リンドン、でいいよ。王太子ではないからね。敬称はいらないよ。それとそのアイマスク。外してもらえるかな? 可愛いフローラの顔がよく見えないから」
言われるままアイマスクを外すと、リンドンはスッとアイマスクを取り上げてしまう。思わず私が手を伸ばすと、そのまま私の手を掴む。
そしてその手を持ち上げ、甲へ「チュッ」とキスをした。
同じ動作をガレスがした時は。
あくまでその仕草だけで、本当にキスはしていない。
今、こうやってリンドンにキスをされると、なんだか背筋がぞわっとした。
なぜなのかしら?
もしもの時は、元婚約者として、リンドンを支えようと心に決めたはずなのに。
先程から本能が警笛を鳴らしている。
「では、改めて、リンドン……」
「なんだい、フローラ?」
リンドンの声の甘さに、またも背筋がぞわりとする。
なんとも言い知れない気持ちを呑み込み、口を開く。
「このメッセージに書かれていたこと、聞かせていただけませんか?」
控え室で受け取ったカードを取り出すと、リンドンは「ああ」と言って受け取った。それを対面の席に座るオロに渡す。オロはビリビリとカードを破く。
「ナタリア――フローラは彼女のこと、侍女なのに姉のように慕っていたよね」
「そうです。ですから、心配なのです」
「そうか。そうだったね。うん。ナタリアは無事だよ。僕と同じ待遇であれば、きちんと三度の食事は与えてもらえているだろう。入浴は二日に一度。拷問はなかった。尋問は日によってされたけどね。ナタリアもそんな感じではないかな」
え……。
ナタリアもリンドンと同じ感じ?
それは……。
「リンドン、まさかナタリアは牢に……」
「そうだよ。僕達が連れて行かれた地下牢。あれは結構広いようだ。ナタリアに出会う五日ぐらい前だったかな。女性の声が聞こえて、珍しいと思い、耳を澄ませていた。そうしたらナタリアだったよ」
そこでリンドンがわざわざ私の方へ体を向け、口角をぐっと上げた笑顔になる。
「笑ってしまったのは、ナタリアが自分のことを『私はスペンサー王国の第一王女です!』と言っているのが聞こえた時かな。平民出身だろう、彼女。それが自分を第一王女なんて言い出しているんだよ。捕まえられて、頭がおかしくなったのかね?」
リンドンは替え玉の件を知らないんだ……!
でもそうか。どこの国でも替え玉を用意しているわけではない。それに確かに声は、リンドンぐらい親しい相手では、騙しきれないわ。
そうだとしても。
今の言い方は……。
やはり戦争がリンドンのことを、おかしくしてしまったのね。
とてつもなく、悲しくなる。
そこでハッとして気が付いた。
ナタリアはあの地下牢にいるのに!
今、私はその地下牢がある宮殿から、遠ざかっている。
「リンドン、あの地下牢にナタリアがいるなら、戻ってください。ナタリアのことを助けてください!」
そう言った瞬間。
それまでずっと笑顔だったリンドンの顔から、波がサーッと引くように、表情がなくなった。無表情といえば、ガレスを見慣れていた。あの氷の顔に比べれば、リンドンなんて……と思った。だが、そんなことはない。
先程まで、ニコニコしていたのだ。その顔から突然表情が消えた方が、格段に衝撃がある。見間違えかと思い、じっとその顔を覗き込むと……。
「戻るわけないだろう、フローラ。ナタリアなんてただの侍女で平民だ。そんな者のために、命を賭ける必要なんてない。それに僕は今、ガレスに復讐をしている最中だ。宮殿に戻るなんて、するわけがないよ」
「え、でも、あのカードに助けてくれるって……」
「そんなこと、一言も書いていない。ナタリアと君の兄君について話すとしか書いていないよ」
受け取ったカードの文面を思い出し、確かにそうだと悟る。
だが、これで終わらせるわけにはいかない。
「で、でも、私がナタリアを大切にしていると知っているのに、助けてくれないのですか?」
「だから言っているだろう? 僕は復讐の最中だって。戻ったら意味がないよ」
「分かりました。……では私一人でもナタリアを助けます。私を馬車から降ろしてください」
するとリンドンは肩で大きく息を吐く。
そして髪をかきあげると、ウンザリした様子で私を見た。
「フローラは、もっと聡明な女性だと思っていたよ」
「申し訳ありません。でもリンドンには迷惑をおかけしないので、降ろしてください」
「だからそれが既に迷惑だって分からない、フローラ?」
「それは……」
確かに夜道にドレス姿の女性を放置するなんて、紳士であれば、できないことだ。それを強要することが迷惑と言われれば、その通りに思えた。
「ではどこか宿屋で降ろしてもらえれば……」
居酒屋では酔っ払いに絡まれる。でも宿屋ならこの時間でもフロントが開いており、部屋が空いていれば、泊まることができた。それに馬車だって呼んでもらえる……というのがスペンサー王国の宿事情だが、ヴィサンカ帝国でもそれは通用するのかしら?
半信半疑だったが、夜道に私を降ろすより、リンドンの罪悪感が減ると思った。
「宿……。僕と一緒にそこの宿に泊まるかい、フローラ?」
「!? い、いえ、その必要はありません。降ろしていただいた後は、別行動で構わないので……」
「でも宮殿へ戻るつもりだよね? 侍女を助けるために。でも助けだす算段も、どうせ立てていないよね? 本当に、甘いね、フローラは。でも仕方ないか。君は第一王女で、蝶よ花よと育てられたから、戦術を考えるなんて無理なことだ」
リンドンの指摘が胸にチクチクと刺さる。言われた通りで、考えているのは宿で馬車を呼び、宮殿へ戻ることしか考えていない。今ならまだ「間違った馬車に乗ってしまい、うっかり眠り、気づいたら皇都の街中でした!」……で誤魔化せるかもしれない――くらいに考えていた。そしてなんとか私の本当の身分を知るノリス卿を説得し、ナタリアを地下牢から出してもらおう、と考えていたのだけど。
この話を信じてもらえる保証はなく、ガレスを激怒させる可能性もあった。
「無理だよ、フローラ。一人でナタリアを助け出すなんて。失敗して、捕えられて……多分、殺されはしないだろう。一生、地下牢に入れられるかもしれないけど」
「……!」
そんな地下牢で一生なんて。不衛生だし、息もつまるし、リンドンのように性格が別人になってしまいそうだ。
地下牢に閉じ込められるなんて、絶対に嫌。
だからと言って、ナタリアを置いてはいけない。
それにこのままではナタリアが、一生地下牢かもしれないのだから!
そこにナタリアがいると分かっているのに、何事もなかったように生活するなんて、無理だった。
「表情だけはさすがだね。意志が強い感じがするよ。でも却下だよ、フローラ」
そう言っているそばから馬車は、宮殿からどんどん遠ざかっている。
何か宮殿へ戻る理由を作れないかしら……?
そこで思いつく。
リンドンは私がガレスから寵愛されていると思っているのだ。
ならば!
「リンドン。ナタリアのことはもういいわ。諦める。それよりも、復讐をしましょう。今度こそ、私、毒をガレスに飲ませるわ。私は彼に寵愛されているから、ちゃんと、毒を飲ませることができる。……だから、宮殿へ」
「もう復讐しているよ」
「?」
「ハッキリ教えないとダメなようだね、フローラ。僕は復讐の方法を二つ考えた。一つ目は、宮殿に忍び込み、フローラにガレスへ毒を飲ませてもらうことだった。でもフローラはあっさり失敗してしまったよね。失敗……なのかな? 飲ませようとしたのかな。でもいいさ。今、二つ目が成功しているのだから」






















































