2:戦禍の記憶(前編)
東方から取り寄せたリンドウの種は、春先にこの場所に植え付けていた。
この場所。
宮殿の敷地内であるが、ここは眼下に王宮や宮殿を見下ろすことができる丘の上だ。日当たりがよく、風通しもよく、巨木の下は日陰もでき、いろいろな種類の花・薬草の栽培に向いていた。子供の頃はこの場所に、毎日のように貴族の令息達が、私に会いに来ていた場所でもある。まだ婚約者が決まっていない私に気に入られようと、日替わりで貴族の令息が挨拶に来ていた。
だが父親は、第一王女である私の婚約者を、慎重に決めたかったようだ。この時に会った令息達が、婚約者に選ばれることはなかった。結局、私の婚約者が決まるのは、十五歳になり、社交界デビューを果たした時だ。その舞踏会には、隣国であるハーティントン国のリンドン王太子も招待されていた。そして彼と私は、最初のダンスを踊ることになり――。その年の秋、私はリンドン王太子と婚約した。
絵物語に登場する王子様そのままのリンドン王太子。
婚約者である彼のことを思い出すと、頬が緩む。
リンドウの種が芽吹いたことで、名前が似ているリンドン王太子のことを思い出してしまうなんて。来週。彼が主催する舞踏会に招待されている。来週になれば、彼に会える……!
その時の私は牧歌的にそんな甘いことを考えていた。だが、そこに侍女のナタリアがもたらした情報は非日常な情報。
「王女様、大変です。リンドン王太子殿下の国に、ハーティントン国に、帝国が、あの暴君が攻め込みました!」
帝国……そう、暴君が統治するヴィサンカ帝国。
この大陸の大部分はヴィサンカ帝国が占めている。そのヴィサンカ帝国はしばらくの間、皇帝の座を巡り、骨肉の争いが繰り広げられていた。というのもヴィサンカ帝国の前皇帝は、女癖が悪く、皇妃以外の女性との間に、多くの子供を作っていたのだ。
平民の子供は相手にされなかったが、高位貴族の令嬢との間にもうけた子供は、無視することができなかった。大切な娘を傷物にしたと、両親である貴族が黙っていなかったからだ。結局、皇妃との間に生まれた二人の皇子以外に、六人の皇子が皇帝の子供であると認知され、皇宮に迎えられた。
すると既に皇太子がいるのに、次期皇帝の座を巡り、暗殺や内紛が起きる。つまり、ヴィサンカ帝国は大混乱になった。この混乱に乗じ、帝国を潰そうとした国もあったのだが……。手痛い返り討ちに遭う。
というのも皇帝は、自身の息子たちが血を血で洗う争いをしているのに、そちらには無頓着。代わりに帝国へ攻め込んできた者たちを、血祭りにあげていたのだ。
こうして月日が流れ、ある日突然、それは発表された。
ガレスの皇帝の即位だ。
皇太子を含めた他の皇子がどうなったのか。
第七皇子と第八皇子が暗殺された、という情報は広く知られていた。だがそれ以外の皇子に何が起きたのか、それは不明だった。しかも前皇帝は、鹿狩りで落馬し、突如命を落としたというのだから……。
八人の皇子の死の真相が語られないことに加え、ガレスの出自について「とある伯爵家の令嬢と前皇帝の落胤だった。だが皇帝が落命する前に、急遽自身の息子であると認知した」としか発表されていない。
そのことで疑惑の目が、ガレスに向けられる。皇太子を含む、八人の皇子をすべて手に掛けたのではないか。自身の父親である皇帝の命さえ奪ったのではないか。そう囁かれるようになった。
噂が信憑性を帯びることになったのは、皇帝に即位したガレスが、前皇帝に仕えていた側近をことごとく粛清したからだ。さらに皇太后のことも、幽閉したと言われている。
現在はガレスが指名した側近が揃い、暴君による支配体制が完成していた。
ヴィサンカ帝国がそんな状況の時、一部の周辺国は、混乱に乗じて攻め込もうとした。だが多くの国が、帝国と敵対するほどの国力はない。よって一切関知せずで、内政に取り組んでいた。その結果、大陸では戦争をしている国がぐっと減った。ある意味、帝国と一部の国を除き、とても平和だった。
そういう意味ではスペンサー王国も、私の婚約者であるリンドンの母国、ハーティントン国も、平和ボケしていたかもしれない。それでも、ガレスが行ったのは暴挙であり、非道なことであると思う。
というのもヴィサンカ帝国自体が、戦のルールとして「自国内を除き、他国と戦争を始める時は、必ず宣戦布告を行うこと」と定めていたのだ。それをしなかったのだから。
つまりハーティントン国は、まさに青天の霹靂で、ヴィサンカ帝国の侵略を受けたことになる。何の準備もしていなかったハーティントン国は、大打撃を受け、スペンサー王国に援軍を求めてきた。
その一方でヴィサンカ帝国は、スペンサー王国に書簡を送ってきている。そこには「ハーティントン国に援軍を送らなければ、スペンサー王国には侵攻しない」と書かれていたのだ。
「だが、ハーティントン国と我が国は友好国だ。王太子のリンドン殿下と第一王女のフローラは、婚約をしている。援軍を送らず、切り捨てるべきなのか……」
国王である父親は深く悩んでいる。私は「リンドン王太子殿下を助けてください! 援軍を送ってください、お父様!」と必死に頼んだ。
だが、そもそもスペンサー王国は軍事大国でもなく、自然と緑を愛する牧歌的な国だ。兵士と騎士の数だって少ない。自国を守るのでせいいっぱいと言っても過言ではなかった。数百の兵を援軍として送ったところで、それは死地に送り出すようなものだ。
だがハーティントン国からは、援軍を求める矢の催促。
会議は延々と続き、でも答えが出ないまま、夜を迎えた。
その日の夜に事態が動く。
「敵襲です! 敵襲―っ! ヴィサンカ帝国の兵が闇夜に乗じて、王都に侵入。宮殿の敷地にも、一部兵が紛れ込んだ模様です。今すぐ、王宮へお逃げください」
書簡では「ハーティントン国に援軍を送らなければ、スペンサー王国には侵攻しない」と書かれていたのに、攻撃が始まったのだ。侍女のナタリアはこの侵攻についてこう言っていた。
「これが……暴君と言われる所以なのでしょう。すぐに返事をしなかったので、業を煮やし、攻撃してきたのでしょう」
この時、王都へ侵攻したヴィサンカ帝国の兵は、五十名足らずということが判明する。すべて倒され、生存者はゼロ。でもこの五十名は、スペンサー王国の王都について、かなり詳しかったようだ。王都に暮らす人々や貴族、王族を混乱させるために、何をすればいいか心得ていた。
つまり、昨晩は宰相や外務大臣などの重鎮の屋敷に火矢が放たれ、騎士団の本部には、爆薬を積んだ荷馬車が突っ込んだ。時計台も燃やされ、あちこちの井戸に毒をまかれた。そのせいで国民には、多大な被害が出ることになった。
王宮に侵入していた兵はなし。宮殿の敷地内では五名の兵士の遺体が発見された。
たった五十名の兵がこれだけのことをして、王都を混乱させたのだ。
父親は決断する。
ハーティントン国へ援軍を送ることを決めた。同時に、ヴィサンカ帝国に対し、返事を待たず、侵攻したことへの非難文、そして正式にハーティントン国の味方になることを告げ、ヴィサンカ帝国に対し、宣戦布告した。
兄である王太子を指揮官として、三千の兵士を率いて、ハーティントン国へ向かわせることになった。まさか二歳上の兄が、戦地へ自ら赴くことになるとは思わず、私は泣いて止めようとした。
「フローラ。ハーティントン国は、私達の友好国だ。それにフローラの婚約者であるリンドン王太子が助けを求めている。大丈夫。私は必ず、この国に帰ってくるから」
兄はそう言っていたが……。その首には毒草から抽出した毒薬(丸薬)の入ったロケットペンダントをつけている。もしも捕虜になることがあった場合、辱めを受けたり、拷問されたりする前に、命を絶つためのものだ。
そんなものを身に着け、ハーティントン国へ向かう兄に、不安を感じないわけがない。
リンドン王太子の身は心配だが、兄のことだって心配だった。
だが、兄は兵を率いて出発してしまう。
二人の弟と妹は、貴族のふりをして、国外へ脱出することになった。とはいえ、ハーティントン国には、馬車で半日で着くが、もう一つの隣国であるストラ公国には、馬車で三日かかる。しかも山越えの必要があった。
ストラ公国には、ヴィサンカ帝国に対し、宣戦布告したこと。戦況が落ち着くまで、三人の子供を預かって欲しいと、父親――国王陛下から連絡を入れている。その返事を待つ時間はなく、弟と妹たちを乗せた馬車も、護衛の兵士と共に出発した。
こうして王族としては、両親と私が宮殿に残ることになった。
「フローラは、成人している大人の王族だ。しかもハーティントン国王太子の婚約者。もしもの時は、絶対に追われることになる。弟や妹と一緒に逃げれば、そちらへ執拗な追っ手がかかるだろう。辛いだろうが、王都にとどまって欲しい」
「大丈夫ですよ、お父様。私は第一王女です。お父様とお母様と共にあります」
そんな風に言えたのは、私が戦争の経験がなかったからだ。
宣戦布告を受けたヴィサンカ帝国は、翌日には大軍を率いて、スペンサー王国に現れた。