13:遠い夜明け
『そのお命、頂戴します!』
その一言と同時に、首を狙い、簪を突き刺す。
間髪をいれず、何度も。
細い血を首から流しながら起き上がったガレスは、傷口を押さえつつ、私の腕を掴む。容赦ない強さで掴まれた腕は鬱血し、手からは簪が落ちる。鈍い音と共に、私の腕は折られた。
私が悲鳴をあげても、ガレスは声を出せない。
喉の内側で溢れ出る血にむせ、咳き込み、鮮血が白いリネンの上に飛び散る……。
『復讐は成功……!』
成功しているのに喜びより、深い悲しみに包まれ、涙を流したところで目が覚めた。
夢を見ていたのだ。
そう自覚するには数十秒かかった。
そして体を少し動かすと。
首が痛い……。
それに体のあちこちも。
自分がソファで猫のように窮屈な姿勢で丸くなっていることに気が付く。
そのまま上半身を起こし、天蓋付きベッドを見るが、そこには誰もいない。
出るのは盛大なため息のみ。
せっかくのチャンスだったのに。
それを私は……生かしきれなかった。
その時のことを思い出す。
つまり、暗殺を決意し、決行しようとした時のことを。
ベッドに乗った。
簪を髪からはずし、手で握りしめた。
振り上げたそれを、首筋めがけ、振り下ろすところだった。
それなのに。
「すまない……」
ガレスの声が聞こえた。
「え」と固まり、その姿を見下ろし、でもすぐにそれが寝言だと分かった。
それでも不安で彼の顔に、自分の顔を近づけた時。
まるで流れ星が夜空を横切るように。
ガレスの長い睫毛から、こぼれ落ちる滴が一瞬見えた。
どんなことに対する「すまない」なのか。
誰に対する「すまない」なのか。
誰のために流した涙なのか。
そんなこと、分かるわけがなかった。
だが、冷酷で冷徹で取り付く島もない暴君だと思っていたのに。
どうしてここでそんな寝言を口にする?
涙を見せるの?
さらに少し乱れた濃紺のローブから見える首の後ろ、鎖骨の辺りに、みみずばれのような物が何箇所も見えた。
それは兵士や騎士でよく見られる、剣で受けた傷の痕だ。
暴君ゆえに暗殺の危機には数多く晒されているのだろう。
そうだ。ガレスを害したいと願う人間は多い。
私もその一人だ。
簪を握り締め、再び振り上げるが……。
私は……これまでの人生で人を殺した経験がなかった。
それでも家族の仇、故郷のみんなのための復讐と考え、暗殺を決意していた。
もし私が狂っていたら。人を殺すことなど躊躇なくできたかもしれない。
だが正常な精神状態のまま、生きている人間を殺すなんて……。
一度は決意した。
だがあの涙で不意打ちをくらい、緊張の糸が切れてしまった。
なんとか、気持ちを切り替え、簪を握り締め、振り下ろそうとした。
でも、できない。
怖かった。
人を殺すなんて、できない。
戦場で戦う兵士や騎士がどれだけ強靭な精神力を持つのか、実感することになる。
虚ろな気分になり、全身から力が抜け、そのままベッドの上で座り込んだ。
暗殺という名の人殺し。
それをできない理由を正当化しようと、必死な自己防衛を心が始めている。
誰にも見せない一面が、この皇帝にもあるのかもしれない。ただそれは絶対に、誰にも見せるつもりはない。それでも無意識となってしまう、こうやって眠っている時に、寝言として出てしまったのでは?
この暴君の経歴を考えると、幼い頃を除き、心が休まる時はないと思う。根っからの悪者ではなかったとしたら? 非情さの裏に、何かを抱えているとしたら?
こんなの言い訳だ。
暗殺に失敗した、人を殺せない私が生きている価値なんてない。
簪で自分の首を刺そうとしたが、ここに辿り着くまで、どれだけの命が犠牲になったかを思い出してしまう。
私の犬死をみんな望んだわけではない。
ゆっくりベッドから降り、床に座り込む。
ベッドにもたれ、考える。
人を殺せない自分の心の弱さについて。
時間がどれぐらい経ったか分からない。
あまりに考え過ぎて、思考することすら億劫になっていた。
ぼんやりした頭で、全然別のことを考える。
明後日。
ガレスは自国の公爵家の令嬢と婚姻を挙げることになっている。その伴侶となる令嬢が、彼にとっての唯一の家族だ。彼女が彼にとって心を許せる相手だったらいいのに。そうしたらその孤独な心も癒えて、暴君ではなくなるかもしれない。
――「オールソップ公爵が粘ったのだ。自分の娘を皇妃に迎えろと」
――「自国内の公爵令嬢との婚儀なんて、意味がないと皇帝は思っている」
ソークがそんな風に言っていたことを思い出す。
これではまさに政略結婚。
ガレスはその公爵令嬢のことを、愛するつもりはないのだろう。
結局、彼の心が癒えることはない。
そこで自分が裸同然の姿のままでいることにようやく気付いた。
緩慢な動きでソファまで行き、ローブを羽織る。
そのまま寝室を出て廊下を通り、玄関ホールに出て、扉に触れた。
内側にある鍵を開けたが、それでも開かない。
ということは、外側からも鍵をかけているということ?
なぜ?
あ……。
ここで初夜の練習を終え、ガレスは出て行く。
でも練習相手はこのままこの部屋で休む。逃亡防止で外側からも鍵をかけているというわけか。何か合図を送れば開けてもらえるのかもしれない。でも変な騒ぎを起こしても、何の得にもならない。
とぼとぼ寝室まで戻り、ガレスの様子を見ると、少し姿勢が変わったように思えるが、寝ている。
女であり、奴隷であり、相手にならないと思っているからなのか。私から寝首を掻かれるとは、完全に思っていないのだろう。だからこそあんな風に、寝られる。
あんな風にぐっすり眠れるなんて。
私の暴君ガレスのイメージは、寝ない――だった。
でも実際は寝ている。寝た上で寝言まで口にして、涙までこぼした。
人間らしさを見せられ、振り絞った殺意に待ったをかけられてしまった。
そこから緊張の糸が切れ、人を殺すことに、急激に恐怖を覚えてしまう。
そして今、どうすればいいのか分からなくなっている。
再び全身から力が抜けそうだった。
どう考えてもガレスは朝まで起きるつもりはなさそうだったので、いくつかある扉を確認した。一つはバスルーム。もうひとつはレストルーム。
窓はあるが格子がはまっており、外には出られない。
その後も心の葛藤は続き、何度か暗殺を試みた。
でも無理だった。
やはり人を殺すなんてできない。
疲れ切り、ソファに座ると、倦怠感と共に急激な眠気に襲われる。そこで丸まるようにしてソファに横になった。クッションを枕代わりにして。
私は今後どうなるのだろう。
初夜の練習相手にもならないただの奴隷女。
不要なだけだ。
よくてナオやイーモと同じ、下級メイドか。
最悪、役立たずと斬り殺されるかもしれない。
奴隷ごときで、皇帝の剣を汚す必要はないだろう。
明朝、彼の部下に、バッサリやられるかもしれない。
ソークに合わせる顔もないと思えた。
この期に及び、しかも決定的なチャンスを与えられ、何もできないなんて。
たかが寝言一つ、そして涙ひとしずくと体の傷。それで暗殺を断念したのかと、呆れられる……。
私の心の葛藤や人を殺すことへの恐怖は……話しても理解されないだろう。
……今からでも、もう一度。
そこで上半身を起こし、ベッドを見ると、寝返りを打ったガレスの姿が見えてしまう。
少し乱れたアイスブルーのサラサラした髪。端正な顔立ちそのままで、眠っている。少しはだけた濃紺のローブから、見事な胸筋が見え、そこに見える剣で斬られた傷痕。
寝顔だけ見ると、どうしたって悪人には思えない。
さらに人を殺すことへの恐怖心が消えない。
それでももう一度だけと、重い体を引きずり、ベッドへ向かうが――。
無理だ。
暗殺を試みることができない。暗殺を生業にしている人や兵士や騎士は、本当にすごい――繰り返しになるが思ってしまう。
そのままソファに戻り、体を丸め、しばらくすると……。
眠りに落ちた。
深い眠り。
だがやがてあの夢を見る。
私がガレスを暗殺するあの夢だ。
あの夢の中の暗殺は成功と言えるのか。
結局、現実では涙をこぼし、目が覚めることになったのだ。
カーテン越しに既に外が明るい時間だと分かる。
でもこの部屋は、朝陽が射し込む造りにはなっていないようだ。
来賓にゆっくり休んでもらうよう、はたまた初夜の練習相手が朝になってもゆっくり眠れるよう、朝陽が差し込まない造りにしているのかもしれない。
ともかくその陽の射さない薄暗い部屋の中に、ガレスの姿はなく、私しかいない。
そして私は生きている。
ガレスは部屋から出る前に、私の心臓をブスリと一突きしても、おかしくないのに。
結局、私は何もしなかった。
ガレスもまた、何もしていない。
お互いに昨晩も今朝も、何もせずに終わったのだ。
どうすればいいのかな。このまま部屋で待っていたら、誰かが来てくれるのかしら?
そう思ったらまさに。
寝室の扉がノックされた。
あちこち痛むがそのまま飛び起きる。
「失礼します。開けますが、大丈夫ですか?」
「は、はい」
入って来たのは昨晩、ここまで案内してくれたメイドのネピだ。
「こちらの部屋で身支度を整えてから、離れに移りましょうか」
「……え、離れ、ですか?」
「はい。初夜の練習相手を務め、皇帝が満足された場合、離れに住まいを与えられます。以後、皇妃が月のものや妊娠などでお相手できない場合、身代わりを務めるお役目が与えられることになるのです」
な……そんなこと聞いていない!
え、それでは一生、ここから出られないのでは!?
というか、「満足された場合」?
満足したの? 何を? ぐっすり眠れたこと?
私は理解不可能だったが、ネピが手をパンパンと叩くと、ずらずらとメイドが入ってきた。彼女達はバスルームで入浴の準備を始めてくれる。他のメイドはベッドメイキングを始めた。
「こちらへどうぞ」
そう言われ、バスルームへ向かおうとしたその時。
視界の端に捉えたものにドキッとする。
え、シーツに血!?
一瞬しか見えなかったが、わずかであるが、血がシミのように真っ白なシーツについていた。
ガレスは怪我をしていたの?
戦場から戻ったばかりなのだ。
怪我をしていてもおかしくはないはずだけど……。
「大丈夫ですか? ご気分が悪かったりしますか? 事前に筋肉はほぐしていましたが、慣れない姿勢では、体のあちこちが痛みますよね」
私がソファで寝ていたことに、気づいていたの……!
さすがヴィサンカ帝国のメイドだわ。
「首も寝違えてしまって……。体のあちこちが痛みますが、でも仕方ないです」
「まあ、健気なことですね。首にはタオルを当てて、のんびり入浴しましょう」
とても丁寧にお風呂に入れてもらい、その後はやはり全身に香油を塗られた。
「マッサージは離れでしましょう」と言われ、一旦下着を身に着け、レモン色のワンピースに着替えた。準備が整い、離れへ向かうことになった。






















































