10:決意の前夜
心ここにあらずで過ごしているせいか。
気が付くと、一日が終わっている。
悪夢を見て、目覚め、そして今日も一日がかりで、体を磨かれた。そして――。
「それでは、今宵もゆっくりお休みください」
メイドのネピの声に我に返る。
ネピが部屋を出て行き、目の前のローテーブルには、昨晩と同じカモミールティーが用意されている。焚くようにと言われた香も、既にいい香りで部屋を満たしてくれていた。
兄が残した書簡の件も気になり、何か情報を得られないかと思い、ネピに問いかけたが……。ニュースペーパーに載っていそうな、浅い情報しかネピは知らない。ヴィサンカ帝国の圧勝だったとか、皇帝の電光石火の快進撃がすごかったらしいとか。教えてくれるのは、そんなことばかり。
スペンサー王国やハーティントン国の被害がどの程度だったのか、そんなことは全く知らないようだった。あえて負の情報は流さないようにしているのかもしれない。もしくは知っていても、私には話さないよう、釘を刺されている可能性もあった。
自力の情報収集は、ここまでだった。
どこかの部屋に忍び込んで情報を得るなんてことは、無理だ。何かしていない時でもネピが部屋にいるし、廊下には警備の騎士もいた。騒ぎを起こせば、ナオやイーモに危険が及ぶ。
もはや初夜の練習相手として、磨き上げられることに、身を任せるしかない状態。
そしてその磨き上げる方法なのだけど……。
不思議だったのは、全身と顔のマッサージに加え、ストレッチという運動をやったことだ。
初夜にどんなことをするのか。実は自分自身、よく分かっていない。いろいろ世話を焼いてくれるネピも、それを教えてくれる気配はなかった。それは私が知っているという前提なのか、乙女なのだから余計な知識はいらないということなのか。ただあえて娼婦を使わないということは、無知のまま、されるがままで練習相手になれ――ということなのだろう。
そんな何も知らない私でも、今日行ったストレッチは、その初夜に役立つものではないかと思えた。もう明日だから。筋肉痛にならない程度に、あちこちの筋肉を柔らかくした――そんな風に思えた。
白い綿の寝間着からのびる自分の細い腕を見て思う。
一ヵ月前。
自分がヴィサンカ帝国にいて、奴隷の身となり、暴君の初夜の練習相手になるなんて、想像できただろうか? 全くできなかった。それだけ、ヴィサンカ帝国の侵攻は唐突なもの。ルールを破り、宣戦布告もせず、攻撃するなんて。
ガレス・エゼル・ヴィサンカ。
両親と兄弟の仇であり、多くの家臣や仲間、国民の敵だ。
私が復讐するべき相手……。
そこで扉をノックする音が聞こえ、ドキッとして、一瞬動きが止まる。
「リリー」
その低い押し殺したような声は……ソークだ!
慌ててソーサーにティーカップを置き、扉へと向かう。
扉を開けると、いつもと同じ。
黒装束のソークがそこにいる。
相変わらずフードは目深に被り、口元しか見えない。
「少しだけいいか。……本来、未婚の女性の部屋に、こんな時間に足を踏み入れるのは、大変失礼なことだが……」
ソークのこの発言には、思わずぽかんとしてしまう。
私が第一王女という身分のままなら、まさにソークが言う通りだ。
でも今、私は奴隷。そもそもこんな個室を与えられていること自体、異例なことだ。未婚の令嬢に対するように、振る舞ってもらう必要はなかった。
「……奴隷ですから、私は。そんなことを気にせず、どうぞお入りください」
「奴隷……。今はそうだろうが、それならばそんな丁寧な言葉を、使う必要はないのでは?」
「意地悪ですね、ソーク様は」
つい拗ねるようにそう言った瞬間。
彼が焦ったようなそぶりを見せた。
こんな風に慌てるなんて。初めて見た姿だった。
「すまなかった。謝る。ごめん」
「奴隷にそんな風に謝る必要はないです」と言いたくなったが、それは呑み込み、謝罪を受け入れ、ソファに座るよう勧めると「その必要はない。すぐに終わる」と言われてしまう。
「いよいよ明日だ。心身ともに問題ないか?」
「大丈夫だと思います。なるべく感情を出さず、淡々とこなします」
「そうだな。感情を出したら負けだ」
後はいつも通りのアドバイス、簪という名の武器で、どこを狙うべきかの復習をした。それを終えると……。
「暗殺に成功したら、扉を三回叩け。すぐに部屋から連れ出す」
「そんな近くに、ソーク様はいるのですか!?」
「そうだな。失敗しても落ち込む必要はない」
これには「えっ」と声が漏れる。失敗したら、待つのは「死」だと思うのに。落ち込む必要はない?
「失敗したら、私のお墓はソーク様が用意してくださるわけですね」
「!? そんなことを考えるな。いや、そうだな。……もし失敗し、命を落とすことが仮にあれば、その時はちゃんと自分が責任をとろう。だが暗殺できず、でも命が残っているなら、諦めるな」
「え……」
「生き延びれば、幽閉される可能性が高い。警備も厳しくなるだろう。だが隙をついて助けに行くから、自分でなんとかしようとするな。つまり自力で脱走など考えない方がいい。確実に失敗する」
本気なのだろうか? 本当に失敗しても、助けに来てくれるのか。
「……大丈夫だ。ちゃんと助け出す。ヴィサンカ帝国は広大だ。帝国軍の力が及ばないエリアも、まだ若干だが存在している。そこで小さな家を手に入れよう。そこで菜園を作り、川で魚を捕り、暮らせばいい。自給自足の生活は、慣れないと大変だ。だが慣れれば、日々生きていることを実感でき、楽しいぞ」
「ソーク様は、自給自足の経験があるのですか?」
「……ああ。訓練の一環で山に一ヵ月放置された。食料も水も自分で調達するしかない。山に暮らす獣から、身を守る必要もあった。生半可なことではない。大変なことだ。……今回、リリーは一人ではない。自分もいるからなんとかなる」
これにはビックリしてしまい、すぐには言葉が出ない。
失敗しても、この宮殿から連れ出してくれるとは思ったが、まさかどこかで二人で暮らすことを考えていたなんて……! これは暗殺に私が協力することへの感謝なのかしら? でも失敗しているのに。これではまるで、失敗した方が幸せなような……。
そうではない。私が成功すれば、多くの人が幸せになる。失敗すれば、私はどこかに隠れながらでも、平和に暮らせるかもしれない。でも苦しむ人が沢山いる。失敗して自分だけのうのうと生きるなんて……。
それならば失敗しなければいい。成功すれば……成功してもここから私を連れ出し、ソークも一緒に生きていけるのよね……?
思わず成功した場合の確認をソークにしたところ……。
「成功したらどうなるか? 成功したら、そこから始まりだ。自分は忙しくなる。それに成功すれば、リリーには追っ手がかかることはない。自由に生きればいい」
「え……。成功したら、どこかで小さな家というのは……」
成功してもソークとどこか小さな家で生きて行けるのかと思ったが。
「逃げ隠れする必要はなくなる。あえて仙人が住むような場所に、暮らす必要もなかろう。仲間を集め、スペンサー王国があった地にでも戻るがいい。小国だったとはいえ、焼け野原で放置されるはずがない。すぐに復興が始まり、建物も建ち、生活が始まる。新たな人の流入もあるだろう。そこに紛れ込めばいい」
それは……。そういう方法もある。でも……。
違う。
ソークは同志かもしれないが、あくまで暴君暗殺のために手を組んだだけ……。
成功したら、ソークとはそこまでだ。二人で小さな家なんてない。
私は人殺しという十字架を背負うことになるが、ソークとは別々の道を生きて行く――。






















































