1:プロローグ
「初夜の練習相手としてここにいるんだろう? さっさとベッドに行け」
エキゾチックでフローラルな甘い香りが広がっている。
香炉から、その香りが部屋全体に広がっていた。
照明は抑えられ、淡い光に天蓋付きのベッドが照らされている。
純白のリネン類で整えられたベッドに、おずおずと向かう。
屈辱で唇を噛みしめながら。
「フードを外せ、ローブも脱げ。そしてその下に着ているものも、すべて脱ぐんだ」
告げられている言葉は冷酷なのに、その声は澄んでよく通り、悔しいほど、耳に心地よい。直視する勇気はないが、ベッドに腰かける刹那、その姿を見てしまう。
ガレス・エゼル・ヴィサンカ。
ヴィサンカ帝国の若き皇帝であり、冷徹無慈悲な“暴君”と呼ばれている。
その容姿は、皇族特有と言われるアイスブルーのサラサラの髪に、銀色の瞳。シャープな顔立ちで、鼻梁も通っており、唇の形も整っている。長身で、金糸のあしらわれた濃紺のローブ越しにも、バランスのとれた体躯をしていることが伝わってきた。
ただ……氷のような鋭い目をしており、それ以外の表情が一切ない。つまり何を考えているかが、分からない。
今だって――。
明るいグレーのローブを脱いだ私は、白いナイトウェアしか身に着けていない。下着などつけていないから、薄手の布越しに、私の体のすべてが見えているも同然の状態だ。ほのかな明かりの下、透けるように見えるこの身体は、殿方を興奮させておかしくないものだと思う。
私はフローラ・リリー・スペンサー。
現在十八歳で、元スペンサー王国の第一王女であり、これまで蝶よ花よと大切にされていた。ミルク風呂や薔薇風呂に入り、金粉入りのクリームで全身をマッサージするなど、完璧な淑女になるよう育てられてきたのだ、この暴君ガレスに国が滅ぼされるまで。
そう。
ガレスは母国を焼け野原に変え、家族を死に追いやった憎むべき宿敵。そして今の私は身分を偽り、彼の部下に買われた奴隷だ。しかも明日、婚儀を挙げるというガレスの、初夜のための練習相手として、ここにいる。
「何を勿体ぶっているんだ? そんな布切れ一枚、着ているうちに入らない。さっさと脱げ。わたしを興奮させるようなポーズでも、してみせろ」
美しい声が奏でる非情な言葉。相変わらず銀色の瞳は冴え冴えとして、その表情に変化はない。指摘の通り、全裸も同然の姿。でもこの姿を見ても、全くの無反応。
立派な椅子に座り、肘をついて長い脚を組み、見下すようにこちらを見ている。
女性になんて興味がないのでは? それにこの調子で初夜なんて。結婚相手の公爵家の令嬢に同情する。とても優しくなど、するはずがない。
もしこれがリンドンとの初めての夜だったら……。
私の婚約者だった隣国の王太子リンドン・ジョージ・ハーティントンの姿が、脳裏に浮かぶ。
金髪碧眼のリンドンは、とても優しかった。既に王太子妃教育を終えていた私は、いつだってリンドンと結婚できた。でもリンドンは「双方の国では、十八歳で婚姻が認められている。でも急ぐ必要はないよ、フローラ。君はまだ十八歳になったばかりだ。君が二十歳になったら、盛大な式を僕の国で挙げよう」と優しく言ってくれた。私のことを、とても大切にしてくれていたのだ。
そのリンドンの母国、ハーティントン国もまた、ガレスにより滅ぼされた。
ガレスはまず、ハーティントン国に牙を向け、そして隣国である私の母国スペンサー王国にも攻め込んできたのだ。ガレスが治めるヴィサンカ帝国は、国土も広く、兵力もあり、海軍も持つ強大な国だった。
対してスペンサー王国は小国だ。バラの産地として知られ、狭い国土のほとんどがバラ園だった。自然と緑を愛する牧歌的な国。隣国のハーティントン国は、スペンサー王国より大きい。それでもヴィサンカ帝国に敵うはずはなかった。
両親は、苦渋の決断を迫られた。ハーティントン国を支援しなければ、攻撃をしない――そうヴィサンカ帝国は書状を送りつけてきたのだ。私がリンドン王太子と婚約しており、ハーティントン国は友好国だった。隣国を見捨てるか、大国に刃向かうか――その決断をまだ出していない時に、ヴィサンカ帝国は攻め込んできたのだ。
「わたしの言葉を上の空で聞くとは、いい度胸だ。ただの奴隷女のくせに」
ハッとした時にはもう遅い。
ガレスは私の亜麻色の髪をぐいっと掴み、喉に剣の刃先を向けていた。
その瞬間。
自分はこのまま命を失うと思った。
せっかくのチャンスを生かすことはできなかったと悟る。いや、そもそも生かすことができただろうか、この私に。スペンサー王国は花と自然を愛する、心優しい民族だ。血なまぐさい戦闘には向いていない。
辱めを受けてから死ぬより、今この状態で死ぬなら本望だ。
リンドンの消息は不明だが、王太子なのだ。既にハーティントン国王夫妻は捕らえられ、処刑されたと聞いている。もうリンドンも生きてはいないだろう。そして私の家族もおそらく全員、この世にいない。
――「フローラの瞳は、アイリスの花のような色で、とても美しいね」
なぜだかリンドンではない少年の姿が、閉じた瞼に浮かぶ。
目の縁から涙がこぼれ落ち、そして首に冷たい金属が触れた――。
お読みいただき、ありがとうございます!
本作の今後の展開についてです。
・2話目以降は1話辺りの読み応えがあります。
・コミカルな部分もあれば、心の葛藤も描きました。
・中盤は怒涛の展開、終盤で全伏線の回収。
・きっちり断罪もあり、ハッピーエンドです。
ブックマーク登録、ぜひぜひ。
それでは最後まで、物語をお楽しみくださいませ☆彡